アマツカミとクニツカミ

日本人は、旅人の話を聞きたがる。そこから勝手にイメージを膨らませるのが好きだし、得意だからだ。
おそらく「古事記」の神話も、そうやってつくられていった。
ちなみに、韓国人や中国人は、外国からの旅人に自国の良さを教えたがり、日本人は、たとえ自国の悪口でも「聞きたがる」のだそうです。「からごころ」と「やまとごころ」の違いでしょうか。
村人が、旅人を「まれびと」として手あつく迎えるのは、村の自慢を聞かせたいからではない。旅人が語る「世界の果て」の話を聞きたいからだ。話を聞きながら、旅人と「世界の果て」を共有し、「いまここが、この世界(この生)のすべてだ」と深く認識してゆくカタルシスを体験する。
神とは、「世界の果て」のことです。古事記の神話は、奈良盆地に住み着いた村人の、そういうカタルシスの体験のうえにつくられ、語り継がれていったのではないでしょうか。
おそらく日本列島は、いつの時代もたくさんのさすらう旅人が行き来していたのであり、それが、統一国家ができる基礎になっていた。
そして古代の奈良盆地は、旅人がとりわけ多くやってくるところだった。そういう旅人の話を聞いて、村人の想像はどんどんふくらんでゆく。世界の果てを教えられた気分になり、「神」という世界の果ての存在の話につくりあげてゆく。きっと旅人だって、そういう語り方をした。旅人じしんが、聞いた話なのです。そうやって、地理的時間的に語り伝えられてゆき、ますます荒唐無稽な神の話になっていった。
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古事記に出てくる「アマツカミ」と「クニツカミ」という神の一族の対比を、どうしても現実の共同体間の抗争に見立てたがる研究者は多い。アマツカミは、アマテラスを祖先とする一族で、クニツカミは、スサノオを祖先とする出雲に追いやられた一族。
もともと日本列島はイザナミイザナギの国生みによってつくられたのだが、やがて、その正当な嫡子であるアマテラスではなく、神の国を負われた弟のスサノオの子孫であるクニツカミが支配する国になっていった。そこでアマテラスは、正しいかたちに導くためにみずからの一族の神を日本列島に遣わした、というわけです。
奈良盆地の人々はアマテラスという神を信じ、奈良盆地の周囲には、スサノオを信じる地域があった。スサノオは、もともとは南紀あたりの神で、それを奈良盆地の人が出雲に移植しただけなのだとか。アマテラスとスサノオがもともと姉と弟だったように、古代の出雲も、奈良盆地の対抗勢力ではなく、仲はいいが性格や趣味が違う兄弟みたいな関係だったのかもしれない。
とにかくそういうわけで、この話にせよ神武東征にせよ、大和朝廷は途中から別の共同体が侵略してつくられたことを物語っている、と多くの研究者は解釈するわけです。
しかし古事記においてそれらは、当時から千年も二千年も前の、あくまで神代の話として語っているのです。二百年前の騎馬民族が征服したことでもなければ、四百年前の邪馬台国以後のことでもない。遠い遠いむかしのことです。われわれはいったいどこからやってきたのだろうという、人間としての根源的な疑問について彼らは語り合ったのです。
神武東征が古事記の編纂から千年前の話で、アマツカミが奈良盆地に降りてきてクニツカミを出雲に追いやった話は、さらにずっと遠いむかしのことなのです。言い換えれば、彼らが語り伝えた記憶の範囲を千年と見積もっても、その間に奈良盆地が侵略されたことなどまったくなかった、ということです。
古代の奈良盆地の歴史は、その千年間に奈良盆地に住み着いていった民衆の歴史であって、どの共同体が侵略したとかどうとかこうとか、やめてくれよといいたい。
そのとき古事記を語り継いでいた人たちがアマツカミとクニツカミの対立を発想したということは、地方からやってきた奴婢をはじめとして自分たちとは違う神を信仰している人たちがまわりにたくさんいた、アマテラスが皇祖神として統一されてゆく途中段階だったらしい、ということを意味しているにすぎない。