アマツカミとクニツカミⅡ

出雲地方では、奈良盆地より圧倒的にたくさんの銅剣などの青銅器が出土しているのだとか。したがって、奈良盆地より強大な共同体が存在していたのだ、という研究者がいます。
しかし戦争は、人が戦うのであって、剣ではない。そのころ出雲地方が青銅器の一大生産地だった、といえても、奈良盆地よりたくさんの人が住んでいたという痕跡などない。原料の鉱脈が近くにあり、その製法を心得ている大陸からの渡来人もいた、というだけのことでしょう。
また、奈良盆地では出雲地方の土器も多く出土している、というが、それだって出雲から連れてこられた奴婢(あるいはみずから望んでやってきた職人)がいた、というだけの話ではないのか。
そのころ出雲と奈良盆地は頻繁な交流があったらしい、それ以上のいったい何がいえるというのか。
たしかにそのころ出雲や吉備地方には、かなり大きな共同体が存在したのでしょう。しかし地形的に見ても、縄文時代に東北地方に多くいた人たちが列島中に拡散していった歴史過程を考えても、その地域の人口は、奈良盆地とは一桁くらい違っていたはずです。
古代における大きな共同体は、すべて山に囲まれた平地で生まれている。「やまと」の語源は「やまびと」だそうで、弥生時代になっても人々はまだ山に囲まれたところでないと暮らせなかったし、山を隔ててしまえばもう別の国だった。北九州はいくつもの小さな国が分立していただけであり、したがって、奈良盆地を凌駕するような国はどこにもなかったはずです。
ましてや、騎馬民族征服王朝説など、なにをかいわんやです。そうやって歴史を拡大解釈して、ロマンだなんだのと騒ぐのは、いやな風潮です。そんなふうに解釈しないとロマンを感じることができないのは、想像力の貧困です。たしかなことは、そこで人が生きて死んでいったということ。そしてそこにこそ、ロマンも不思議も存在するのだ、と思えます。
奈良盆地にやってきた文化的な「アマツカミ」の子孫と、そのとき出雲を分譲された現実的な「クニツカミ」一族、ようするに奈良盆地はもっとも文化的であるという誇りと、現実的な道具生産は出雲に任せる、という状況があったのでしょう。
出雲国風土記」に記されたスサノオが、出雲にやってきて最初に発した言葉は、「この国は小さき国なれども、国処(くにどころ)なり」というものだった。ちゃんと、奈良盆地に比べたら「小さき国」だった、と記されているのです。
大和朝廷の歴史は、ずっと昔から奈良盆地に住み着いていった人たちの歴史であって、出雲や吉備や北九州や日向からやってきた勢力がうちたてたものであるはずがない。
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人間の群れには、いつの時代にも対立はある。奈良盆地の生活にも、そうした関係は、いろんなかたちであったでしょう。古くからそこに住んでいた人たちと新しくやってきた人たち、年長者と若者、住んでいる地域ごとのちょっとした対抗心、ある対立を際立たせて話を盛り上げてゆくのが物語の常道です。
ことに、もともと奈良盆地に住んでいた人々と、奴婢としてやってきた人たちとの気質や生活習慣の違いは、ときにおもしろく、ときに驚きでもあったにちがいない。
で、アマツカミ一族は呪術的で、クニツカミ一族は現実的である、という色分けがなされるのだが、そのころクニツカミたる奴婢たちは、河内平野における巨大古墳造営のムーブメントともにその地域を分譲されてゆくという状況があった。
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古事記は、古代の人々の生活感情の表現であり、旅人の話とそれを聞いた村人との合作として出来上がっていった。それは、古代人の「漂泊」する生態と心性から生まれてきた。
村人であれ旅人であれ、誰もが「ここが世界の中心であると同時に世界の果てでもある」という認識を抱いていて生きていた。海に囲まれた日本列島では、おそらくもうそういう心性になってしまうほかなかった。それが、日本列島の住民の与件だった。
誰もが、世界の中心に定住しつつ、世界の果てを漂泊していた。そして、漂泊しつつ、定住していた。日本列島のどこに行こうと、海に閉じ込められた「世界の中心」でしかないし、どこに定住していようと、ここがその先は何もない海であるところの「世界の果て」である、と自覚するほかなかった。
たとえ村に住み着いて一歩も動かない暮らしをしていようと、日本列島で暮らすかぎり、この世界の果てをさまよって生きているという自覚は避けがたくやってくる。たとえ日本中をさすらっていようと、もうこの世界の外には出られないのだという感慨は、いつもついてまわっている。村人だってさすらうことのあてどなさを持っているし、旅人だって閉じ込められてあることの絶望は知っている。いや、日本列島においては、旅人だからこそ、なお痛切にそのことを気づかされている。そういう「嘆き」を持ち寄って語り合いながら、古事記が生まれていった。
この日本列島では、誰もが「世界の果て」を見つめて生きていたのです。そうして「世界の果て」として、「神」を語り合ったのです。あるいは「世界の中心」である神、を。
世界の中心を語ることは、世界の果てを語ることである・・・というパラドックスを、誰もがごくあたりまえのように認識して生き、古事記という荒唐無稽な神話をつくり上げていった。