弥生時代における奈良盆地の稲作

奈良盆地で最初の政権国家が生まれたのは、そこにたくさん人が集まってきたからであり、大陸人が漂着してくる北陸地方にも近かった、ということもあったかもしれない。そしてそこでは、すでに平地で暮らすということが試されていたから、稲作にもスムーズに移行してゆくことができた。平地で人がどんどん増えていったから、もう狩猟採集だけでは、人々の食料をまかなえなくなっていった。
また山にも、乱獲のために古代人をときめかす熊やいのししが少なくなった、ということもあるのかもしれない。
そしてこれには、信仰の発達ということも関係あるのでしょうか。
山には、神がいる。なぜか。そこが、世界の果てだからだ。この山の奥の、黄泉の国とこの世界の境界に、神が住んでいる、という信仰。山が信仰の対象となり、山を越えていってはならないという禁制が村に生まれてくる歴史は、ここから始まっているのかもしれない。というか、山に向かって、これが世界のすべてだ、という感慨を抱いてしまう縄文時代以来の伝統、それが山にたいする信仰に発展していった。
世界には果てがない、と思ってさすらうことはできない。そこには永久にたどり着けないのだから、たどり着こうとする意欲や目的は生まれてこない。それにたいして縄文人は、山を世界の果てとして、「すでにたどり着いている」という意識でそこをさすらっていた。すでにたどり着いているのだから、意欲も目的もない。意欲も目的もないから、さすらいなのだ。
そして、もともと意欲も目的もないから、平地に定住してゆくことができた。大切なことは、すでに世界の果てにたどり着いている、と深く認識することであり、このことは、けっして定住することと矛盾しない。おそらく奈良盆地にたどり着いた人たちは、定住しながら、信仰をはじめとする観念世界でさすらってゆく手続きを身につけていったのだろう、と思えます。
奈良盆地の山は、ことに世界の果てを感じさせる。平地で暮らして稲作をはじめれば、ますますそれを感じてしまう。
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奈良盆地弥生人は、はじめから平地で暮らしていたのか、それとも稲作のために平地に移っていったのか、こんなことは考えるまでもないことでしょう。平地で暮らさなければ人口は増えないし、稲作をする気にもならない。平地で暮らすようになったから、稲作を本格的にはじめた。日本人は、山間地で暮らしていた縄文時代から、すでに稲作を知っていたのです。
しかし縄文時代はまだ、それを主食とするべき理由がなかった。人口がほとんど増えなかったそのころに、「食糧危機」などというものはなかった。彼らは、歴史とともに食料調達の能力は上がっていったはずなのに、人口は増えなかった。だから、大陸から稲作が伝わっても、ほとんど祭礼などに使うだけで、けっして主食にしようとはしなかった。また、稲作のために山を下りて平地で暮らすということにも、まったく興味を示さなかった。
また、それが大陸から伝わったからといって、大陸人が伝えたかどうかはわからない。海岸に漂着した種が、風や鳥によって運ばれ自生していったものから、縄文人みずからが工夫して栽培していったのかもしれない。縄文時代にすでに小規模の稲作があったということは、日本人はみずから工夫して稲作を覚えていった、という可能性のほうが高い。
漆の技術だって同じです。その原料となる木は、もともと日本列島にはなく、おそらく大陸から漂着してきた種が自生していったものです。だから、その木に名前はなかった。漆がつくられるようになってから、「漆の木」と呼ぶようになった。大陸人が持ってきたのなら、大陸の名前がついていなければならない。漆の技術は、縄文人がみずから覚えていったはずです。
そういう能力を持った人たちであれば、稲作だって、大陸人に教えられなくても工夫できたにちがいない。
大陸人が伝えたのなら、それはまず日本海側の平地で盛んになっていなければならない。稲作を伝えるということは、平地で暮らすことを教える、ということです。
しかし、日本列島における平地での暮らしと稲作は、海から離れた内陸部の盆地から始まっている。とすればそれは、大陸人から教えられたのではなく、日本人がみずから覚えたことだ、と考えるほかない。
古代人は、平地で暮らすようになったから、本格的に稲作をはじめたのであって、大陸人に連れられて稲作のために平地に移っていったのではない。山野をさすらう人たちが、自然にそこに集まってきてしまったのだ。
大きな川もない奈良盆地は、稲作が目的で選択されるような場所ではない。稲作に適した土地は、日本海側に、もっといくらでもあった。
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古代の日本列島において、平地で暮らし、人口が増えてゆくことのできる条件は、奈良盆地がもっとも整っていた。それが、大和朝廷の誕生につながっていった。
日本人は、稲作のためにいきなり平地の暮らしをはじめたのではない。まず山に囲まれた平地である盆地でその暮らしが実験され、それから稲作が本格化してきた。
奈良盆地の人たちは、平地に住んだから、稲作をはじめたのであって、稲作のためにそこに住んだのではない。稲作のためなら、奈良盆地よりいい土地は、ほかにいくらでもあったのです。
古代人が奈良盆地で発見したのは、稲作ではない。平坦な土地に住む、ということです。このことを、それまでの日本人は知らなかったし、したがらなかったのです。
弥生時代に平地の稲作が始まったといっても、発掘される集落遺跡はみな、山にへばりつくようなところばかりです。それは、人々が山から下りてすこしづつ平地の暮らしになじんでいったという、そうした移行段階を示しているのではないでしょうか。