現代人の漂泊

懺悔して、出直しです。
僕は、この「漂泊論」を、自分の現在の問題として考えています。縄文人のさすらう心性が、自分とは異質なものとは、まったく思わない。そしてそれは、現在の日本人の行動原理でもあるはずです。
今日はそのへんのところをちょいとつついてみて、明日からまた古代の大和朝廷について考えてゆくことにします。
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現代社会において、山を荒らして高速道路を造るのはけしからん、と言っても、日本人は山野をさすらうことが好きなのであり、昔の人のように山道を一日で五十キロも六十キロも歩ききるような脚力がなくなってしまったのなら、もう車をぶっ飛ばすしかない。
たとえば、松任谷由美の「中央フリーウェイ」という歌など、そういう歴史的原始的な心性にぴったりはまっているのではないでしょうか。「この道は、夜空に続く流れ星」という歌詞の自然との一体感はもう、まさに山野をさすらう縄文人が体験していたものであろうと思えます。
この国で自然との一体感を味わおうとするなら、山に入ってゆくにかぎる。現在のエコロジストたちに「里山(さとやま)」なる景観がもてはやされているが、それだって、縄文時代の遺産であるはずです。
そして、失恋の傷を癒すためには、海を眺めに行く。「津軽海峡冬景色」、ですね。なぜなら海は、縄文人が大陸と切り離されたこの島でもうどこにも行けないと悟ったように、断念することを教えてくれるからです。海を眺めているときの自然にたいする疎外感は、人を自立させてくれる。海辺の人は良くも悪くもわがままだし、山の集落ではつよい結束力が生まれる。
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現代人の漂泊、ということを考えるなら、ネット・サーフィンなどは、まさしく世界の果てをさすらうという行為でしょう。
若者たちの「自分さがし」も、ひとつのさすらう旅であるはずです。
定住するとは、ただ家を持ってそこで暮らすことだけを言うのではない。旅をしていようといまいと、この社会に自分の居場所(ポジション)を持っていればそれは定住であり、それがあいまいであったりドロップアウトしてしまうことは、たとえ家の中に引きこもったりニートをしていようと、それはまさしく漂泊であろうと思えます。
現代人の嘆きや病理は、ひとつの漂泊として現れる。
よくもわるくも、日本列島では、いつの時代も漂泊者が生まれてくる。
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1960年代に小型ヨットによる世界初の太平洋単独横断を成し遂げた堀江謙一氏は、伝統的な漂泊者だった。
小型ヨットのキャビンは、まさに中世の隠遁者が愛した「方丈」の空間です。大陸人からすれば、あんな狭苦しい空間に数ヶ月閉じ込められて暮らすなんて、とても平気ではいられないだろうと考える。しかし日本列島の人間は、どんなに狭かろうと、そこを「これが世界のすべてだ」と納得して暮らすことができる。
神戸港を出発した彼は、航海中、はたしてアメリカ大陸のたどり着けるだろうかという不安はほとんどなかった、という。それはもう、すでに漂泊者の心性になりきって、つねに、今ここがこの世界(この生)のすべてだ、という感慨とともに生きていたからでしょう。
彼は、行けども行けども水平線しか見えない航行を続けながら、その向こうにアメリカ大陸が見えてくることをすでに断念し、ただもう東に向かって船を進めることだけをたのしんでいた。
いや、コンパスがあるから、今どの辺を進んでいるかはわかるのですけどね。気分としてはとにかくそういうことで、早く大陸を見たいと焦る気持ちはなかった。
そしてそういう感慨を抱かせたのは、その狭苦しいキャビンであり、水平線の向こうは「わからない」という日本列島で暮らす者の伝統的な認識だった。水平線の向こうにいつもアメリカ大陸を思い描いていれば、つねに落胆と失望を繰り返し、平気ではいられなくなってくる。そのとき彼は、狭苦しいキャビンで、「今ここがこの世界(この生)のすべてだ」という認識をずっと鍛え続けていたのです。目的意識が、ではなく、ひたすら今ここを「世界のすべてだ」と認識したのしむ意識が、その孤独な航海を耐えさせたのです。
彼は、その身動きもままならないような空間を「これが世界のすべてだ」と深く認識することによって、果てしなく広い海を制した。
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だから日本人はすばらしいのだ、と言いたいのではない。
自分のまわりの景色にたいして「これが世界のすべてだ」という感慨を持ってしまう傾向は、それだけ共同体の秩序に従順だ、ということでもあります。
共同体の秩序に従順なくせに、アウトサイダーとなって世界の果てをさまよいたがる。堀江氏の快挙は、日本列島の人間のそういう二律背反的な傾向の上に成り立っている。
昼間は会社や共同体の秩序に従順でも、アフターファイブの飲み屋では、世界の果てをさすらうアウトサイダーになる。だから会社の悪口や愚痴は絶好の酒の肴だし、また、外国人にこの国の批判をされてよろこぶという国民性も、誰のなかにもアウトサイダーとなって世界の果てをさまよっている意識があるからでしょう。
しかしこのサーカスは、難しい。共同体が発展すればするほど、さすらうことの困難さといびつさが生まれてくる。
現代社会には、健全に漂白することの困難さがあり、健全に漂泊すれば生きてゆけなくなってしまう。
それでも、この日本列島で生まれ育った人間が漂泊することを捨てて生きてゆくこともまたできない。ニートはもっとも健全な漂泊者であり、自殺や鬱病は、もっとも病理的な漂泊だ。
どちらもいやなら、さしあたりもうしばらくサーカスを続けてゆくしかない。