漂泊の身体

住み着くことは、住みにくさを受け入れることです。じっと立っていれば、しんどいに決まっている。歩き出したほうが、体は楽なのです。それでも住み着いてしまうのは、土地にたいする愛着を持つからだが、それが持てなければもう、漂泊してゆくしかない。直立二足歩行する人間の体は、もともと漂泊するようにできている。そして漂泊するようにできているから、住みにくさを受け入れて住み着くことができる。
どんな土地も、最初は住みにくいのです。250万年前にアフリカの森からサバンナにさまよい出てきた人類がやがてこの地球上の隅々まで住み着いていったときも、まず住みにくさを受け入れるところからはじめたはずです。住みやすさを求めるのが人間の本性であるのなら、人間はどこにも行かないのです。生まれ育った土地がいちばん住みやすいに決まっている。しかし人は、住みにくさを受け入れてしまうさすらいびとだったから、地球の隅々まで拡散していったのだ。
原始人が住み着くことができなくなるのは、食い物や住みやすさの問題ではない。もっと実存的無意識的な問題であり、それは、群れが密集しすぎて他者との関係が近くなり、居心地がわるくなってしまうからだ。人と体がぶつかってしまいそうになると、体が落ち着かなくなって、なおさらじっとしていられなくなくなる。人に対してか、まわりの景色にたいしてか、なんとなく圧迫感をおぼえる、そういう契機がなければ人は移動してゆかない。そして、そういう圧迫感をおぼえるようになっていったのが、人間が人間になってゆく歴史であったのだ。
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人間は、他者の体との距離(空間)が保たれているから、群れに参加することができるのだし、住みにくさを受け入れることもできる。もともと四足歩行の生き物が二本の足で立ち上がるということは、二本の足で立つことの居心地の悪さを受け入れるということです。そうやって居心地の悪さを受け入れながら人間は、より大きな群れを形成していったのです。
しかし、時代が進んで、住みやすさを求める心が幅を利かす社会になってくれば、住みにくさを受け入れて住み着いてゆくということができなってしまう。たとえば、みんなが四足歩行の楽な姿勢をとろうとしてくれば、それができないで立ったまでいさせられている者はもう、群れを離れてどこかへ歩いてゆくしかない。歩いていれば、立っていることは苦にならない。直立二足歩行は、じっと立っているより歩いたほうが楽な姿勢なのです。まあ、そういう意味でも、人が漂泊することは根源的な行為であるし、漂泊する心で住み着いてゆくのが根源的な住み着いてゆくかたちでもある、といえるはずです。
すなわち漂泊することは、人間が直立二足歩行する生き物であることの先験的な与件であるのかもしれない。
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氷河期が明けて日本列島が大陸から切り離されたことを悟った縄文人は、海を眺めながら、われわれはもうどこにも行けないという、ひとつの閉塞感を覚えたはずです。海を前にして人は、歩いてゆくことの不可能性を知らされ、立ち尽くした。この姿勢の居心地の悪さを抱えながら、縄文人は山野をさすらっていたのだ。
人がさすらうのは、好奇心によるのではない。じっと立っていることの居心地の悪さを抱えているからだ。目的もなく歩き続けること、それがさすらうということであり、そのためには、そういう居心地の悪さをつねに体に抱えていなければできることではない。
海に囲まれた日本列島じたいが狭苦しい土地だが、縄文人は、さらに狭苦しい山間の地を棲家としていた。その閉塞感は、じっと立っていることの居心地の悪さを体にしみ込ませ、移動してゆこうとする気持をかりたてる。彼らは、閉塞感とともに生きていたからこそ、さすらい続けたのだ。
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中世の踊念仏に参加していった人々にしても、おそらくそのとき、権力による支配がきつくなるとか、まわりの人間関係が鬱陶しくなるとか、そんなようなことが契機となったのでしょう。
彼らはもう、住みやすさを求めることができない状況に置かれていた。そうして一遍は、住みやすさを求める心を捨てよう、と言った。
つまり、この生が、みずからの体だけで完結しなくなることの落ち着かなさから急かされ、彼らはさすらっていったのだ。
定住するといっても、「これが世界のすべてだ」という認識とともに暮らせなければ、それを受け入れる気持はどんどん揺らいでくる。念仏踊りの一団は、社会を変革するためのチームを組織したのではない。近世の「ええじゃないか」騒動にしろ、ただもう、「これが世界のすべてだ」と納得するための旅に出たかっただけでしょう。
われわれは海に囲まれて日本列島に閉じ込められている・・・このことはもう、どうあっても変えることはできない。それは、縄文時代以来の、日本人のトラウマとしてあった。日本人は、けっして社会を変えようとはしなかった。あくまで「これがこの世界(この生)のすべてだ」と深く認識し、この世界この生と和解してゆくことを願った。
自分の運命なんて変えられるものではない、その運命と和解することができればそれでOKだ、と思って生きていた。
念仏の旅に出れば、自分の村の見える風景だけを「世界のすべてだ」と思う必要がない。もうそうやって思うことなんかできない、と悟ったから、旅に出たのだ。旅に出れば、日本列島そのものを「世界だ」と思うことができる。日本列島なら、そういう歴史を生きてきた日本人として、しんそこ「これが世界のすべてだ」と信じることができる。
そういう「切り札」があるから、日本人は旅に出たがるのだし、漂泊し続けることができるのだ。
旅に出ると、「これがこの生(世界)のすべてだ」と深く認識してしまって、望むもの(欲望)がどんどん薄れてゆく。だから遊行念仏の旅を続けることができたのだし、そこらあたりが、庶民であれ僧侶であれ、中世の漂泊者に共通する心性だったのではないでしょうか。