古代の戦争

中世の合戦では、一対一で「やあやあ我こそは・・・」と名乗りあってから戦っていたのだとか。どこまで本当かよく知りませんが、日本列島的な気質として、ありうることだと思えます。
彼らが戦いにのぞむにさいして、第一義的な問題は、いかにして相手をやっつけて生き延びるかということではなく、いかにしてこの行為をこの生のすべてとして完結させるか、ということに置かれている。生き延びるためじゃない、殺すために戦ったのです。同じことだろう、と言うのは、生き延びることしか頭にない現代人の考えることであって、けっして同じではない。
未来の生ではなく、あくまで現在のこの生を問う観念の働き、それが、日本列島的な気質であろうと思えます。勝ち負けはもう運命だ、という彼らの認識は、生き延びる未来という時間を想定していない。極限状況だからこそ、そうした本性がヴィヴィッドに現れる。
海に囲まれたこの島国では、世界にたいしてであれ、みずからの生にたいしてであれ、「外部=未来」はないものとして断念されている。それが、縄文時代以来の、人々の生きる流儀であり死ぬ流儀であり、戦いのメンタリティだったのではないでしょうか。
古代の人々は、現在のこの生が、この生のすべてだ、という認識で戦った。
勝つために戦うのではない、戦うことそれじたいがすべてであり、目的なのだ。
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人類が狩猟採集生活をしている原始時代の段階では、広いテリトリーを必要とします。だから、縄文時代は、それぞれの集落間の距離は、かなり離れていた。しかし平地に定住して農耕生活をおぼえると、狭いテリトリーでより多くの住民が暮らすことができるようになる。
たとえば、狩猟採集の縄文時代は十人の集落を維持するために十キロ四方のテリトリーを必要としたとすれば、平地で稲作を覚えた弥生時代には。一キロごとに十人の集落ができてもやっていけたわけです。
弥生時代は、人々がテリトリーを狭めていった時代です。
テリトリーを狭めながら、人々は戦争をおぼえていったのです。
すなわち、古代人は土地を奪うために戦争をはじめたのではない、ということです。
では、何のためか。
テリトリーが狭くなれば、集落感の距離は接近してくる。
接近すれば、いろいろいさかいは起きてくる。電車の中で体がぶつかって不愉快になるのと同じで、たとえば、うちの集落の娘が隣の集落の男にもてあそばれた、あの男を殺してしまえとか、そんなようなことが発端となって衝突が起こる。土地を奪うためではない。そういうことは、ずっと後の時代のことです。というか、人間が増えすぎて土地が足りなくなった現代の戦争の話でしょう。
古代人は、あくまで戦うため、殺すために戦ったのだ。
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今ここの「この生」を完結させるためには、もう相手を殺してしまうか、自分が殺されるか、そのどちらかだ。そうやって差し迫った問題に「けりをつける」ために、人は戦争をはじめた。「今ここ」にけりをつけてしまわなければ、未来に進めないからです。
言い換えれば、人間にとって「今ここにけりをつける」ことは、ただ「未来に向かう」よりも、もっと切実な問題なのだ、ということです。
あいつ(ら)を殺してしてしまわないと、われわれはもう生きてゆけない。これが「戦い」の衝動であり、すくなくとも根源的な生のはたらきにおいては、「未来」のためではなく、誰もが「今ここ」にけりをつけようとするはたらきにうながされて生きているのだ。
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食うものを食ってしまえば、もう食いたいという衝動が生きてゆくためのモチベーションにはならない。歴史が進化するとは、食うことが解決されて、食うものを食ってしまった状態を獲得してゆくことです。すなわち、食うものを食ってしまえばもう、これ以上食い物を生産するための土地など必要ないでしょう。
食うものを食ってしまえば、人は、今ここに生きてあること(自分)に気づく。いや、それは、食うことよりも先験的な問題なのです。飯を食おうと思う前に、まず空腹であることに気づく。そしてこの空腹にけりをつけてしまおうとして、飯を食う。そのとき、飯を食うことは、未来の問題です。その前にまず、今ここのこの事態に「けりをつけてしまおう」とする衝動がはたらかなければ、飯を食うことはできないのです。
今ここに生きてあることに気づくことは、飯を食ったあとの状態であると同時に、空腹になる以前の状態でもある。その状態こそ、生きてあることの常態であり、先験的なのです。
今ここに生きてあること(自分)をはっきりさせること、そうやって「食うこと」よりも「けりをつける」ことが優先されて、戦いが生まれていった。食うため(=土地を奪うため)に殺しあっていたのではない。
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現在の古人類学の研究者はたいてい、「人は自然(土地)との関係が壊れて殺し合いをするようになった」などと言って悦にいっている。そうでしょう、赤澤威先生。「ネアンデルタール人の正体」という本で、とくとくとそう書いていらっしゃったじゃないですか。まったく、あほなこと言ってくれる。人は、自然(土地)との関係が親密になっていったからこそ、ややこしい人と人の関係を生み、殺し合いをするようになっていったのだ。そうやって親密そのものである美しい「里山」の景観をつくりながら、戦争をすることを覚えていったのだ。
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土地を奪うためだけなら、殺さないで住む方法はいくらでもあるし、それじたいが殺そうとする衝動になる論理的な必然性は何もない。まず、殺そうとしたのだ。
おそらく古代の共同体は、領土を拡張しようとする意識は、それほどつよくなかったはずです。土地を奪っても、奪った土地を経営してゆける余剰人員を抱えた共同体など、どこにもなかった。いちばん人が多かった奈良盆地でさえ、まだ足りなくて、領土よりも労働力としての「奴婢」を集めることばかりやっていたのです。
初期の大和朝廷にしても、みずからの領土を広げようとするのではなく、あくまでこの奈良盆地を完結したものとして充実させたいというコンセプトで動いていたはずです。
「一所懸命」というが、古代の日本人にとって「一所」は、命よりも大事だった。「一所」が、世界のすべてだった。「一所」に命を懸けていた人たちが、どうして領土を広げようとするだろうか。
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そのころ、遠征して領土を奪いに行く、ということをどの共同体もしていたら、日本列島はその果てに、きっといくつかの国家に分立していったでしょう。
このように南北に細長く山ばかりの土地柄で、それでもひとつの国家になっていったということは、そんなにかんたんなことでもあたりまえのことでもなかったはずです。むしろ、奇跡的なことだったのかもしれない。
土地を奪ってどうこうしようとか、そんな「未来」のために、人は戦争をはじめたのではない。そのころ人々は、テリトリーを狭めて、より効率よく土地を活用してゆこうという流儀で生きていたのです。
人が余って土地が足りなかった時代ではないのだ。そのとき共同体に必要だったのは、土地ではなく、「人=奴婢」だった。
古代とは、稲作等の農耕技術の進歩によって土地利用の効率が急速に上がり、土地が余り、人が足りなくなっていった時代なのです。
だから、大和朝廷の成立以後、爆発的に人口が増えていった。
領土を拡張すれば、「これがすべてだ」という「一所」たるアイデンティティが曖昧になってしまう。海に囲まれた島国であるということは、先験的に領土を拡張することの不可能性を負っているのであり、すくなくとも古代においては、まだまだそういう与件の範囲で共同体がいとなまれていたのではないでしょうか。