古代の権力

大和朝廷をつくったのは、ずっとむかしから奈良盆地で暮らしてきた人々であって、よそからやってきた権力者ではないはずです。奈良盆地に人が集まってきて共同体が生まれ、そこから権力者が生まれていったのでしょう。
どこかから権力者がやってきて大和朝廷をつくったといっているかぎり、やまとことばが育ってきた歴史を説明することは、けっしてできない。
人が変わって言葉だけが残る、などということはありえない。言葉とは、人の体にしみついているものであって、草や木のように土地に生えているものでも埋まっているものでもないでしょう。
古代の奈良盆地において縄文時代以来のやまとことば(大陸的な音読みの言葉ではなく、あくまで日本列島的な訓読みの言葉)が育っていった事実は、途中から権力者がやってきたり、いきなり人がまとめてやってきて大和朝廷が生まれたのではない、ということを意味している。
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共同体の権力は、「文字」による支配の上に成り立っている。
しかし奈良盆地大和朝廷は、およそ4、5百年のあいだ、文字なしに共同体を成立させてきたのです。共同体において、しかも発展拡大してゆく共同体において、文字なしに人々の権力にたいする合意を形成してゆくことがどんなに困難なことか、それはもう奇跡的なことであったはずです。
つまり、奈良盆地においては、文字がなくてもすむくらい、長い歴史をかけた自然な合意がすでに形成されていた。
おそらくそれが、古代における奈良盆地の人々と「天皇」との関係です。
そのとき、天皇が人々を支配していたのではない、人々が天皇をまつり上げていたのです。まあ今だって、この国の天皇制とは、そんなようなものでしょう。
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魏志倭人伝」にも、卑弥呼の支配力の強さが語られています。「鬼道を事とし、能く衆を惑わす」と。
鬼道とは、呪術のことです。おそらくそのときの大陸人には、日本人がよほど迷信深い人種に映ったにちがいない。しかし、そうじゃないのですよね、人々が卑弥呼に従順だったのは、自分たちがまつり上げた権力者だったからでしょう。
原始人であればあるほど、権力者が言うことを聞かせるのが難しいのです。だから、コロンブス以後に南米大陸に上陸していったスペイン人は、あちこちで原住民のインディオを虐殺してしまうしかなかった。スペイン人は、虐殺したかったのではない。支配したかったけど、できなかった。彼らは、「人間」を虐殺したのではない、こいつら人間じゃない、と思って気味悪くなったから、殺してしまったのです。人間なら支配できるはずだ、と。
したがって、邪馬台国の住民が卑弥呼の言うことをよく聞いていたということは、彼らがむしろ原始的であったのではないことを意味している。しかも文字も武力もなくてそういう関係が持てたのは、住民が卑弥呼をまつり上げていたからでしょう。
大陸では、住民が支配者をまつり上げるということは、ほとんどない。勝手にやってきた支配者が文字によって支配してゆく、というかたちが早くからできていた。文字が「合意」を強制することができる。
しかし文字がなければ、住民がまつり上げるというかたちでしか、権力は成立しない。
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日本列島では、なぜ住民が支配者をまつり上げるということが発達したのか。
大陸では、人は、世界の果てを目指してどこまでも歩いてゆける。この自由を残しておくために、人は、支配者を持ちたがらない。しかし支配者を持ちたがらないからこそ、支配者が強制的に支配するかたち、すなわち文字による支配が早くから試されてきた。
一方、海に囲まれた日本列島では、もうどこにもゆけないという状況が先験的に与えられている。どこにも行けないから、山野をさすらい、その絶望をなだめていたのだが、定住してしまえば、こんどは、もうさすらわなくてもいいのだという確証というか慰めが必要になってくる。そうして、自分たちをこの地にとどめ置くための、この世界の果てであると同時に中心でもある存在、そういう存在としての支配者をみずからまつり上げていったのではないだろうか。
さすらうことが体にしみついた者たちは、そういう存在をまつり上げていないと、定住してゆくことができなかった。さすらう縄文人が定住してゆくとき、人々は自然にそういう手続きをしていったのではないだろうか。支配される前に、自分たちで支配者をつくってしまった。だから、文字を必要としなかったのではないか。
ここが世界の中心であると同時に世界の果てである、世界はここにおいて完結している、ここが世界のすべてだ・・・という確証=慰めを、支配者をまつり上げることによって獲得していったのではないか。
大陸では「世界の果て」など知りようもないから、「世界の果てはない」という前提で生きている。彼らは、世界には果てがないという前提があるからこそ、ここが「世界の中心」であるという認識をたしかに持つことができる。
が、海に囲まれた日本列島では、ここが世界の果てであるということも世界には果てがないということもわからない。したがって、ここが世界の中心である、ということも確証することができない。そしてわからないから、わかろうとすることを断念して、とりあえず今ここが「世界のすべてだ」と認識して生きようとする。
今ここが「世界のすべてだ」と認識するために人々は、みずから支配者をまつり上げていった。