古代の権力Ⅱ

古代の共同体における、ヒメ・ヒコ制という支配のかたち。
「世界の果て」としての支配者=女王は、呪術をつかさどる。
「世界の中心」としての支配者=男は、現実的な政治を務める。
そのようにして世界の果てと中心が決定されることによって、ひとまず世界が完結する。
一神教の西洋にたいして、この国でやおよろずの神が受け入れられているのは、人々の意識に「世界の果て」という概念があるからでしょう。たくさんの神がいてこそ、世界の果てらしくなる。というか、ひとつの神でもはずしてしまったら、もう世界の果てでなくなってしまう。それにたいして大陸では、果てがなく、ここが世界の中心だという認識だけで生きており、したがってその神はひとつでなければならない。
ひとまず世界の果てと中心を設定して、世界を完結させる。そして、邪馬台国では女王の呪術が優先されていた、ということは、古代の日本列島では、大陸のように世界の中心であることの自覚よりも、「世界の果てとしての神の領域」を確証することが第一義的な問題としてあった、ということを意味します。
日本列島では、世界の中心であることはたいした問題ではなく、世界の果てを確証して、「これがこの世界(この生)のすべてだ」と認識することが、第一義とされた。
おそらくこのことは、「古事記」の成立とも関わっているのだろうと思えます。
古代の奈良盆地の人々は、政治のことなどやりたいやつに任せとけばいい、それよりも世界の果てとしての神の領域を確証していこう、という意識で生きていたらしい。すなわち、その手続きによって共同体が成り立っていた。
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古代の奈良盆地の人々は、「世界の果て」を問うて生きてきた。
「世界の果て」を確証するよりどころとして、支配者をまつり上げた。
この国は、いつだって「支配者をまつり上げる」ということことをして動いてきたのです。騎馬民族がやってきてその伝統を途切れさせた痕跡などはない。そういう大陸の論理で、古代の日本列島の共同体支配が成り立っていたわけではない。天皇をまつり上げるということは、奈良盆地にむかしから住み着いてきた人々によってなされたことであり、騎馬民族天皇になってまつり上げろと命令したのでもないし、それは、大陸の騎馬民族とはまったく逆立した心のはたらきなのです。騎馬民族は、ここが世界の「すべてだ」とか「果てだ」とは思わない。思わないから、騎馬民族をやっていられるのです。
スペイン人による南米インディオの虐殺は、文字による支配が習慣化されていない社会で、上の権力だけが入れ替わることは不可能である、ということを意味している。支配したくてもできなかったから、皆殺しにしてしまったのです。
卑弥呼の時代から大化の改新まで、奈良盆地で文字による支配がなされなかったということは、そのあいだに外部の権力との交代などいっさいなかったからでしょう。そのあいだの権力は、奈良盆地の住民から与えられたものだった。
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外部の権力がいきなり奈良盆地にやって支配するためには、文字によるものでないかぎり不可能です。また、原始的な段階において、奈良盆地のように広い地域がひとつの共同体になってゆくためには、どれだけ長い時間を必要としたことか。
その広い地域は、隔てる山がないから、もう地域ごとひとつの共同体になってゆくしかなかった。そしてそれだけの地域が文字のない原始段階においてひとつの共同体になってゆくには、権力者の力で上から支配してゆくだけでは不可能であり、住民のがわから権力者をまつり上げてゆくというかたちにおいてはじめて可能になることだった。弥生時代初期の小さな集落がそれぞれ勝手に暮らしていた段階からそこまでたどり着くためには、そりゃあもう、歯がゆいくらいの長い時間がかかったことでしょう。また、そこまでたどり着くことができたのは、それほどに人々が広い地域を行き交って、絶えず気分や情報を交換しながら一体感を形成していったからでしょう。
古代の日本列島において、強大な権力が下りてきて支配していった地域など、おそらくどこにもない。そういう支配がなされていたなら、もっと早い時期に文字を持っていたはずだし、いくつかの国家が分立するかたちになっていったはずです。
日本列島ではつねに人が行き交っていたように、奈良盆地もまた人々が地域内を盛んに往来し、天皇という同じ支配者をまつり上げてゆく合意を形成していった。
日本列島は、大和朝廷の権力が強大だったから統一国家を形成することができたのではない。人々が、さすらい、たえず往来していたために、世界観や生活の仕方が均質化していったからです。
文字を持たない強大な権力など、ありえないのだ。
日本列島にだって、漢字伝来以前の原始的な文字はあったのです。おそらくその萌芽は、縄文土器に、たとえば持ち主のしるしをつけるとかというかたちで生まれていたはずです。そうしてそこから発達してきた弥生時代の文字は、古い神社などに残っているのだとか。
しかしそれは、ついに支配の道具になることはなかった。文字を知っていても、ひたすら話し言葉による共同体のかたちが模索され続けていたのです。
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古代社会の呪術が優先されるシステムは、縄文時代からの「ここが世界のすべてだ」という感慨とともに生きてゆくという伝統の上に生まれてきたのであり、人々はそういう伝統を染み込ませた体で奈良盆地に住み着き、長い長い時間をかけて共同体を築いていった。
人は、食うこと(=経済)だけのために生きているのではない。古代人が卑弥呼の呪術に従順だったのは、食糧生産のための現実的な政治よりも、生きてあることの心のよりどころをえることのほうが大事な問題だったからでしょう。ただ単純に、迷信深かったからではない。生きるとは何か、自分とは何か、そういう問いのよりどころとして、卑弥呼の呪術を必要としたのだ。彼らは、つねに「世界の果て」を見つめながら生きてゆこうとしていた。
人間が、食うこと=経済のためだけで生きているのなら、支配することなんかかんたんだし、生きてゆくことなんかかんたんだ。
考えることが劣っている古代人だから支配しやすかった、と考えるべきではない。文字を知り、文字に縛られ、食うこと=経済で生きている現代人のほうが、支配者にとってはよほど扱いやすい住民であるにちがいない。
文字なしにつくられた国家。六、七世紀になっても、まだ文字による支配がおこなわれていなかった国家。このことが世界史的にどう位置づけられるのかはよく知らないが、それは、住民みずから支配者をまつり上げることによってはじめて可能になることだったのではないか。そしてその行為が国家になるところまでたどり着くまでには、とても長い時間を要したであろうし、とにもかくにもそれが達成されたのは、そのあいだに外部からの「征服者」という邪魔も入らなかったからでしょう。