古墳時代

縄文時代奈良盆地は沼地だったらしい。
そうして縄文時代後期から弥生時代にかけては地球の気候がやや乾燥寒冷化していった時期だったから、それにともなって、沼の水がしだいに引いていったのでしょう。
が、それでも、すっかり干上がったわけではなかった。
南西部には、大和湖、という大きな湖があったともいわれています。おそらくそれは、いくつもある湿地帯のひとつだったのでしょう。
古墳時代の始まりは、卑弥呼が死んだあとの3世紀ごろから、ということになっているのだが、その最初期の奈良盆地にある箸墓古墳は、すでに前方後円墳だった。
前方後円墳のいちばんの特徴は、じつは「濠」がめぐらされていることです。
何のための濠か、ということは、あまり説得力のある答えも聞かないのだが、もしかしたら湿地帯の水を古墳の濠に集めてしまうためだったのかもしれない。そうやって、干上がったそのまわりを耕作地にしていった。
箸墓古墳は1700年以上前のものなのに、まだちゃんと濠に水がある。そうとう深く掘ったからでしょう。また沼地だから、土もやわらかかっただろうし。
そしてこのころから「環濠集落」も現れてきている。一部の研究者はこれを、外敵の襲来を防ぐためだ、などと言っているのだが、そんなはずがない。それは、まわりの水田を維持管理するためのものであり、濠をつくる前方後円墳の土木技術がもたらしたものであろうと思えます。
古代の奈良盆地で濠を持った古墳や環濠集落がつくられるようになっていったということは、奈良盆地にはまだまだたくさんの湿地帯が残っていた、ということを意味しているのではないでしょうか。
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で、ひとまず奈良盆地干拓を終えると、生駒山の向こう側に広がる湿地帯の干拓に乗り出した。それが、仁徳・応神天皇陵に代表される巨大古墳で、当時の大阪平野はほとんどが湿地だったのだから、濠もいっそう大きくする必要があったのでしょう。
また、海に面した広々とした平野というのは、当時の人々はあまり住みたがらなかったから、住めるような景観というか、心のよりどころになるものをつくる必要もあった。であれば、そこに天皇陵をつくれば聖地になるし、ひとまず山という、目隠しというか安らぎを与えてくれる景観になる。
「国どころ」・・・古代人は、この言葉にひどくこだわりがあったらしい。住みよい土地、という意味です。それはおそらく、稲作に適しているとか食い物がたくさん取れるとか、そんなことではなく、しっかりと山に囲まれて安定した景観を持っている、ということだったはずです。古代人が住み着くのにいちばん大切なのはそのことであって、食い物のことはそのあとにやってくる問題です。古代人は、安定した信仰生活が送れる「国どころ」に住み着いていったのであって、食い物のことを最優先したのではない。
前方後円墳の、前方の四角い部分は祭壇になっていた。つまり、神社のように人々が日常的にお参りしていたらしい。宮内庁が管理して皇族だけしか入れないとか、そんなものではないでしょう。身内だけのものなら、祭壇は中につくる。おそらく巨大古墳は、新しく入植してきた人たちの信仰生活の場になっていた。仁徳陵、というより、仁徳神社、ですね。だてに大きいだけのものをつくったのではないはずです。
古代人だから、権力者は牛馬(ぎゅうば)のごとく人をこき使うことができただろうと考えるのは、愚劣だし、短絡的すぎます。日本列島では、逃げたければ逃げ込むことのできる山がいくらでもあったし、やさしく迎え入れてくれる山びともたくさんいたのです。それに、当時の社会に文字がなかったということは、だれも奴隷として登録されていたわけではない、ということを意味するはずです。
仁徳陵は、おそらくその地に入植しようとしていた人たちが、できるだけ大きいものをつくろうとがんばったのでしょう。
平地に信仰のための「山」をつくることと、干拓のための「濠」をつくること、これが前方後円墳という巨大古墳造営のコンセプトだったのではないでしょうか。
仁徳陵の大きさは、権力の強大さによるのではなく、それがつくられた場所の立地条件からきているのだ。
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まあ研究者の皆さんは、「権力を誇示するため」の大合唱なのだけれど、東大寺の大仏ならともかく、奈良盆地からずっと離れたところにそんなものをつくって、はたして「誇示」になるのだろうか。それに、100年ちょっとで、すぐつくるのをやめてしまっている。
そうして、奈良盆地の権力者の墓がどんどん小さくなっていっているときに、関東地方では、それらよりも大きい前方後円墳が次々につくられていった。それは、奈良盆地前方後円墳の造営を体験した人が、そういうところに帰っていったからでしょう。お役人がちらと見て帰って、すぐつくれるというものでもない。どの地域においても、それまで体験したことのない大土木事業なのだから。
大和朝廷が権力誇示のために前方後円墳をつくったのなら、地方の豪族にはつくらせなかっただろうし、大和朝廷がつくるのをやめれば地方もやめるしかなかったはずです。
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奈良盆地はかつて沼地だった。このことが、巨大古墳造営につながっていった。
「澄む」ことは、湿地帯の水が引いてゆくこと。
「清む」とは、信仰の安らぎを得ること。
この二つを得て、古代人は「住む」という行為にたどり着いた。
「住む」ことは、人のいなかった平地や湿地が、人が主の土地になってゆくこと。
彼らは、山に「棲む」暮らしから、平地に「住む」暮らしに移っていった。そしてそのためには、物理的にも精神的にも、「すむ(澄む=清む)」という手続きが必要だった。
巨大古墳造営は、人々の「住み着く」という懸命な行為と関わっているのであって、単純に権力だけの都合やお遊びでつくられたものではないのだ、と思えます。