邪馬台国と魏志倭人伝

徐福伝説、というのがあるそうです。
紀元前三世紀(縄文時代のおわりころ)、中国大陸の徐福という人が三千人の大船団を組んで理想郷を目指して船出していった、という話が「史記」に書かれてある。
で、日本列島には、青森から九州まで、いたるところに徐福を祀る神社や伝説があって、徐福がやってきたのはきっと日本列島にちがいない、と言っている歴史学者がいます。
嘘に決まっているじゃないですか。こんなもの、義経ジンギスカンになった、という話とたいして変わりゃしない。日本中にある、ということじたいが、嘘っぽい。そういう話がいつの間にか日本中に伝わり、誰もがそれを自分たちのルーツにしようとした、ということにこそ歴史学者が考えるべき意味があるはずなのに、それを史実であることの根拠にしてしまうなんて、頭がどうかしている。
徐福は、「理想郷」を目指した・・・・・・日本列島をさすらう旅人からその話を聞いた村人は、だったらおらが村に決まっている、と思った。というか、その話は、おらが村は理想郷であると納得することのよりどころになっていった。ほかにもそういうことを信じている土地があるということじたいが、なおかたくなに「いや、おらがくにさに決まっている」と信じ込んでゆくモチベーションになった。
徐福伝説が日本中に広がっているということは、日本列島の均質性と、人々の懸命に住み着こうとする努力を示しているのであって、それを史実として説明しようなんて、歴史学者というのは、いったいどんな頭の構造をしているのだろうか。
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魏志倭人伝」には、邪馬台国は内乱が相次ぎ国情が乱れている、と記されています。しかしそれは、大陸人から見れば国を追われた「亡民」としか思えないようなさすらう人々があちこちにうろうろしていた、というだけのことかもしれない。とくに邪馬台国に流れてくる人はたくさんいたにちがいなく、視察に来た中国の官吏は、ようするにそれを見ただけで、行き帰りの道中のほかに日本中を歩き回ったはずはないですからね。邪馬台国で酒を飲んで帰っていっただけのことでしょう。いや、来たのかどうかだってわからない。どうせわかりゃしないんだから、いいかげんな帰国報告だったはずです。もしかしたら、行ってもいない人が適当に聞き書きしたかだけかもしれない。魏志倭人伝に書いてあるから、それはもう絶対そうだったのだと考えるのは、おかしいと思う。研究者は「第一級の資料だ」などというが、立場上、そういうことにしておいたほうがいい、というだけのことではないのか。「第一級の資料」にしたいだけでしょう。それを、ああでもないこうでもないといじっていれば、飯の種になる。後でもしそれが嘘八百だったとわかれば、資料のうそを見抜けなかった自分たちの愚かさは棚にあげ、資料のせいにして言い逃れるつもりらしい。
たとえば、邪馬台国のころは国が乱れていたから、その後あちこちに「環濠集落」ができていったのだと一部の研究者はいうが、その水路は、水田の水位を調節管理するための一種の「溜池」のような機能をしているのであって、敵の襲来から身を守るとか、そんなことのためではないはずです。
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水行何日、陸行何日何里、といっても、ほとんどいいかげんのはずです。だいたい、じっさいに測ったわけでもないのに「何里」なんて書くことじたいが、いかがわしい。ところがそれを大真面目に取り上げ、昔の中国の一里は何メートルだから、などと詮索している研究者の意識、そういう物的証拠にひたすら執着してゆく意識はとても気味が悪い。
また、九州に行ったことと、邪馬台国に行ったことは、まったく別の機会の別の人たちによる別ルートの体験だったのかもしれない。
もしかしたら、朝鮮半島あたりで聞いて来たことを、行って来たような顔をして報告しただけかもしれない。多少航海術が進んだといっても、難破することはしょっちゅうあった時代なのだから、けっして戻ってこられることが保証されている旅ではなかったはずです。
つまり、彼らにとって日本列島は、ただの物見遊山で行けるようなところではなかった。わざわざ無理していく必要もない。たいした国じゃない、ということがわかればいいだけの話です。
景初三年、卑弥呼の使者が魏の王に朝貢し、翌年に鏡百枚が下賜された、という話が魏志倭人伝に書かれてあるそうだけど、ほんとうのことなんですかねえ。そのころ、魏のほうには、日本列島を属国にしておきたい、という目算というか事情はあっただろうが、卑弥呼のがわにそんな外交問題を考えなければならない状況があったのだろうか。
この国は世界の中心であるという認識をアイデンティティにしていた魏のほうが、勝手に朝鮮半島の漁師かなんかを使って鏡十枚くらいと親書を送り、それを、卑弥呼朝貢してきたというかたちで書類の体裁をととのえた、というだけのことかもしれない。
そのころの大陸では、すでに、くにとくにの緊張関係があたりまえのようになっていたかもしれないが、日本列島ではまだ、どのくにも、それぞれが「平地に住み着く」ということを懸命に試していた段階であったはずです。大陸では、原初のころから平地で暮らしていたかもしれないが、日本列島では、そのころやっとはじめたばかりだったのです。