やまとことばの語感についての質問

今回はちょいと横にそれて、この本文じたいを、都市に棲む山姥さんへの「やまとことば」についての質問とします。
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志賀島の金印のことを思い出したら、なんだか腹が立ってきました。
そこに刻まれた「漢の倭の奴(な)の国王」・・・という文字。これは、徹底的な侮蔑です。
漢字の「倭」とは、「みにくい」とか「ひねこびた」というような意味でしょう。
そして「奴」は、「いやしい」とか「げす」ということ。
たぶん、これを渡すために大陸からやってきた漢の使者がこの島に立ち寄ったときに、落としたか、捨てたか、何かと取り替えたのか、奪われたか、そのどれかでしょう。
だってこんなものを相手の支配者に渡して、漢字の意味を知られたら、その場で首を切り落とされるかもしれないじゃないですか。漢の王様にすれば、どうせやつらにはわかりゃしないと思ったか、それを受け取らせて「屈従」のしるしを確認したかったのか、まあそんなところでしょう。
その使者にしても、「倭」というくらいだから、みんな猿みたいな暮らしをしているのだろうと思っていたのかもしれない。しかし来てみたら、そうではなかった。それで、びびった。
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そのころ、日本列島に漂着した大陸人は、そこそこいたでしょう。そしてその中の一部は、望郷の念やみがたく、船を修理して、決死の覚悟で帰っていったに違いない。
そういう人たちが、大陸に戻って日本列島のことを何というか。
「いやあ、ちんけな国だったよ」
帰り着いた喜びとともに、そういいたくなる気持ちは、わからなくもない。
実際、彼らが漂着したところは、遅れた暮らしをしている地域だったのかもしれない。だからこそ、こんなところでは死ねない、と思った。そんなとき、あの山の向こうには「なの国」という大きな集落があるということを聞き、じっさいに行ってみた人もいたかもしれない。しかし、大陸と比べたら、大してことがなかった。
まあ、その見聞談は、たいしたことがなかった、といえばいうほど、受けた。そうして、いつの間にか、猿みたいに醜くばかな連中が暮らす島として言い伝えられていった。
で、「倭の国」と名づけられた。
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大陸人の、日本列島に対する侮蔑は、抜きがたくあると思います。
それは、おそらくそこから始まっている。日本列島が、大和と名乗っても、彼らは、けっしてそう呼ぼうとはしなかった。あくまで「倭人」と呼び続けた。
しかしそう呼び続けたということは、彼らにとっての日本列島が、いつまでたっても海の向こうのわけのわからない国だった、ということでしょう。もし大陸人が征服した国であるのなら、いくばくかの親しみと理解はあるはずです。
おためごかしのヒューマニズムで、日本人の祖先は朝鮮や中国から来たのだ、なんていう説は、くだらないと思います。
日本と中国と朝鮮と、いかにわれわれが異質で、歴史的にも理解し合っていない関係を続けてきたかというその不幸を、まず確かめ合うべきではないでしょうか。そこから始めるべきであって、俺たち仲間どうしだもんね、という馴れ合いなんか当てにできないのだ、と僕は言いたい。
聖徳太子が遣隋使を送ったとき、みずからを「日出る国の天子」と名乗ったのは、「倭人」としてさげすまれてきた歴史があったからであり、大陸の側がそれを許したのは、自分たちの差別意識の後ろめたさがすこしはあったのか、どうせ倭人のいうことだからとたかをくくったのか、まあそんなところでしょう。
もし対等の関係なら、「何様のつもりか」と、たちまち交渉は決裂していたにちがいない。
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とにかく、金印の授受なんかなかった。できなかった。と思えます。
そしてそれを渡そうとしていた相手の地域は、北九州か奈良盆地か知らないが、みずからを「なのくに」と名乗っていたらしい。これだけは確かでしょう。
しかしその「な」という言葉に、「奴」という漢字を当ててくるなんて、まったく失礼な話です。最大級の侮辱でしょう。
問題は、ここからです。
大陸で「国」といえばそのまま共同体のことだったのだろうが、日本列島では、まだそんな意識はなかったはずです。
空や太陽や月や雨風のことを総称して「天(あま)」といったとすれば、地上の現象すべてを「くに」といった。「あまつかみ」と「くにつかみ」。
そこで「なのくに」というとき、ほかの地域と比べたみずからの地域の特性を説明したものではないはずです。なぜなら、「ここが世界のすべてだ」という気分なのだから。
したがってこの場合の「な」とは、「われわれが暮らすこの大地」、というかたちを指しているのかもしれない。
「な」とは、形容詞のようなものだったのかもしれない。
このくにの人たちは、「わ」ではなく、「な」と名乗っていたのではないでしょうか。
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で、僕が、都市に棲む山姥さんにうかがいたいのは、古代の日本人にとって、「な」というのは、どんな語感だったのか、ということです。
「なのくに」の「な」とは、地域の地理的な条件を示しているのではなく、おだやかなとか、やさしいとか、心にしみるとか、何かそんな愛着をこめた表現なのではないでしょうか。
「な」という語感から生まれてきた日本的な愛着を示す言葉、というのは、僕はよく知らないけど、いろいろありそうな気がします。
たとえば「なく」という言葉。英語の「クライ」とか中国語の「キュウ」とかは、何か苦しげな響きがあります。なにしろ、クライシスのクライだし、窮迫のキュウ、ですからね。それにたいしてやまとことばとしての「なく」は、なんかもう体になじんでしまっている感じがします。
「か」とか「が」と声を発すれば、それは怒りや苦しみをあらわしているのでしょうが、「な」と声に出しても、なんとなく無力感に浸された感じがあるだけです。すなわち大陸での「泣く」という行為の基本的なかたちが怒りや苦しみだとすれば、このくにでは、無力感に浸されることかもしれない。
「泣く」という行為は、ひとつのカタストロフィー(悲劇的終末)ですよね。大陸ではそれをネガティヴな未来のこととして認識しているのにたいして、このくにでは、ひとつの前提になっている。この生はそこから始まるのだ、という前提が何かあるような気がします。
縄文人が、大陸と切り離された海を前にして悲嘆に暮れたところから彼らの歴史を始めたように、日本人の生は、カタストロフィーから始まっているのではないか。
まあ、奈良の「な」でもいいのですが、奈落とか那(奈)辺とか、「な」とは、「世界」という意味もあるのでしょうか。「何」の「な」、「汝」の「な」・・・それは、この世界の不思議におどろきときめくことの別名だろうか。
古代人は、この地上で暮らすことのよろこびも嘆きも、「な」という発語にこめていたのではないか。そうしてそこからどんな「やまとことば」が生成していったのだろうか。
そんなふうにあれこれ考えて、ひとまず、この国のことを矮小の「倭」といい奴婢の「奴」と呼んだ大陸人に対するせめてもの抵抗を試みたのですが、どうなのでしょうか。