大和は国のまほろば
大和は国のまほろば・・・この言葉に、古代人の奈良盆地に対する愛着が、もっとも端的にあらわれていると思えます。
まほろばとは、見晴るかす(=まほろ)土地(=ば)、というような意味らしい。
ここでの「ば」は、「場所」という空間のことではないと思えます。
あくまで「土地」であり、「地面」のことでしょう。
「ば」という発語は、何かどっしりした響きがある。つまり、安定した平らな地面のことを「場」という。足場の場。
でこぼこの山野は、「場」ではない。山場とか岩場という言葉があるが、平らではないからわざわざ「山」とかと「岩」と断りを入れるわけで、それは、場になり得ない場、というような表現なのでしょうか。ほんらいの「場」ではなく、「不安定な場」という意味。
まほろばとは、見晴るかす平らな土地、なのだ。
古代の日本列島では、こういうスペースは湿原か湖にしかなく、奈良盆地のように広々とした平らな乾いた土地はめったになかった。
山野をさすらう縄文人が、やっと見つけた土地だった。
縄文人は、嘆きの対象としての海と、嘆きを消費してさすらい続ける山野だけで、ひとまず立ち止まることのできる「まほろば=見晴るかす土地」を知らなかった。
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僕ははじめ、この言葉を、何かの感動を直接表現しているのかと思っていた。そうじゃないのですね。あくまで、地形をあたりまえに表しているだけの言葉らしい。感動は、言葉の内側にこめられている。
縄文人は、「まほろば=見晴るかす平らな土地」を探してさすらっていたのだろうか。
縄文人だって、好きで山野をさすらっていたわけではないでしょう。そこしかさすらうところがなかったからだ。そりゃあ、平坦なところを歩いたほうが楽に決まっている。
奈良盆地にやってきた人たちは、思う存分この平坦な土地を歩き回っていたのかもしれない。そうして、山歩きがだんだん苦手になっていった。そしたらもう、ここから出て行くことはできない。こうして、奈良盆地の人口がどんどん増えていったのかもしれない。
山野をさすらう人にとって、基本的には「理想郷」などというものはない。ないから、さすらっていられるのだ。
しかし奈良盆地にやってきた人たちは、ここがどんないい土地かということを感じながら、しだいに定住の度を深めていった。楽に歩けるし、まわりを取り囲む山の眺めも気持を和ませてくれる。そこでやっと、「まほろば」が理想郷の代名詞になってきた。
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「まほろば」という言葉は、最初は土地のさまを形容するだけの言葉だった。それが、そこに住み着くにしたがって、理想郷の代名詞になっていった。つまり、まほろば=理想郷という意味は、そういう歴史から生まれてきたのだ、ということです。
たぶん、百年や二百年の歴史ではない。もっと長い長い時間住み着いて、じわじわ生まれてきた感慨なのではないでしょうか。もうどこにも行きたくないし、どこにも行けない、人々の気持も身体の具合もそうなってしまうまでには、おそらく縄文時代から弥生時代後期まで連続してゆくくらいの長い時間を必要としたのではないでしょうか。
べつに理想郷だと思って住み着いたのではない。山野をさすらう勢いでやってきただけだし、そういう勢いをみなが持っていなければ、たくさんの人が集まってくるということにはならない。そしてそういう理想郷を持たない人たちが、その「見晴るかす土地」を理想郷だと認識する観念を持つようになるまでには、何世代もかけてさすらう習性と身体性を洗い流していったのでしょう。
だんだん理想郷になってきたのです。最初から理想郷だと思って住み着けば、あとは、飽きる一方です。というか、ほんらい「理想郷」などという感慨は、長く住み着かなければ生まれてこないのでしょう。
だから人は、ナショナリズムというものを持ってしまう。
したがって、もし大和朝廷を築いた人たちが、あとから奈良盆地にやってきて乗っ取ったのだとしたら、彼らの「理想郷」はあくまで故郷にあるはずであり、万葉集なんか、よそ者による望郷の歌ばかりになっていたことでしょう。
「まほろば」という言葉にもともと「理想郷」という意味などなかったということは、古代の大和朝廷の人たちは、それが「理想郷」という意味を持った言葉になるまでの長い長い歴史をそこで過ごしてきた、ということをわれわれに語りかけているのではないのか。
つまり、大陸の騎馬民族だろうと、日向だろうと、出雲だろうと、あとから来て奈良盆地を乗っ取った人たちなどいなかった、そういう古代人の戦争や国盗り物語などなかったのだ、ということです。