奈良盆地と大和朝廷の成立

万葉集を読めば、古代人がいかに奈良盆地の景観を愛していたかがよくわかる。その感慨は、おそらく昨日今日そこに住み着いた人たちのものではないでしょう。かれらは、この世に奈良盆地以上の場所なんかどこにもないのだという愛着を、ストレートに表現していった。万葉集の「ますらおぶり」、などといわれるが、それはもう、まわりの景色にたいして「これがこの世界のすべてだ」と深く感じてしまう縄文人の心性を、そのまま引き継いだものであったはずです。
大陸からやってきた人たちが弥生人になり、大和朝廷をつくったのなら、万葉集にも、大陸にたいする望郷の歌がいくらでも入っているにちがいない。
人は、そんなかんたんに故郷を忘れないですよ。とくに、自分の国がいちばんだと思っている中華思想の中国人だったら、千年経っても忘れないでしょう。アメリカ人だって、3百年4百年前の故郷をけっして忘れていない。
万葉集は、おおよそ大和朝廷の成立から2、3百年後の歌であるのだから、大陸であろうとあるまいと、よそ者がやってきて大和朝廷をつくったのなら、奈良盆地より故郷のほうがいいと思う人はいくらでもいたはずです。
たとえば、後期古墳時代に大陸の騎馬民族がやってきて奈良盆地を乗っ取ったのだという説。そんなことが本当なら、そこから百年か二百年後の万葉集は、みんな望郷の歌を歌っているでしょう。というか、乗っ取られたのなら、一緒に言葉も和歌も消滅してしまっているはずです。
しかし万葉集は、千年も前から奈良盆地に住み着いていたような気分の歌ばかりです。
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古代において、おそらく奈良盆地ほど多くの人が住み着いていった地域は、日本列島の中でほかにはなかった。そういう状況の中で「共同性」が芽生え、「権力」が生まれていったのでしょう。
人々が集まっていった「結果」として、そこに共同体が生まれてゆく。歴史は、人間がつくったのではない。「結果」という運命なのです。
国家(共同体)が生まれるなんて、日本列島の歴史においてまだ一度も体験したことがなかったのです。それは、長い長い時間かけて、人々の合意が形成されながら生まれていったにちがいない。
弥生時代後期において、「権力と、それにたいする合意」という共同性が奈良盆地ほど高度に形成されていた地域はおそらくどこにもなかったのであり、そういう合意がつくられてゆくためには、弥生時代ぜんぶくらいの長い長い時間が必要だったはずです。
そして、すべての地域が、奈良盆地をお手本にして共同体をつくっていった。だから、統一国家になることができたのでしょう。そのとき日本列島の人たちは、そうやって真似しようとする意欲と、その情報を伝える行動性の両方を持っていた。
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邪馬台国九州説とか。まず大陸に近い九州で大きな共同体が生まれ、そこから東進してゆき、奈良盆地を制圧していった、という説はよく聞かれます。
しかし邪馬台国卑弥呼が死んだ直後の3世紀後半あたりからの古墳時代は、奈良盆地から始まっています。九州から共同体が発達していったのなら、古墳の造営だって九州が先行していなければならない。しかしじっさいには、九州の古墳は、つねに奈良盆地のあとを追いかけるように推移してきた。
つまり、大きな古墳をつくるときは、いつだって奈良盆地大和朝廷)のお許しを得てつくっていた、ということらしい。九州の共同体が奈良盆地を制圧したのなら、九州にいちばん大きな共同体ができ、奈良盆地はその出先機関になっていただけのことでしょう。九州より奈良盆地のほうが住みやすいところだったわけでは、けっしてない。
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邪馬台国がどこにあったかはともかく、そのころ奈良盆地にたくさんの人が集まってきて暮らしていた、という事実は大切です。
そこは、肥沃な土地だったわけではないし、山に囲まれて外部との往来に便利だったのでもないし、ましてや海に面して大陸との関係が生まれやすいところではさらになかった。それでも、この地にやってきた古代人の誰もがここに住みついてしまったのであり、当時の日本列島でもっとも栄えた地域、すなわち、国の「まほろば(理想郷)」だったのです。
研究者は、このことの説明を怠っています。
それは、山野をさすらう縄文人との連続性においてしか、説明のつかないことであろうと思えます。