弥生時代の幕開け

縄文時代初期の人口比は、9割が東北地方で暮らしていた、といわれています。
その人たちが、山野をさすらいながら、すこしずつ南下していった。
しかし、さすらい人の習性として、日が上る東に向かうことは多くても、日が沈む西の向こうは夜であり黄泉の国だから、当然足が遠のいてしまう。奈良盆地までたどり着いた人たちがそこで旅を終えてしまったのも、そういうこともあったかもしれない。近畿地方までくれば、その先はもう、西に向かうしかない。しかしさすらい人は、西には向かわない。
縄文時代の七千年を通じて、この人口比はほとんど変わらなかったともいわれています。
東北地方の山脈は南北に走っている。だから、とりあえずその谷沿いに関東あたりまでは来てしまうが、そこから先はまた引き返してゆくことのほうが多かったのかもしれない。
そのために、なかなか奈良盆地までたどり着けなかった。
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縄文時代で一番人口が多かったのは中期頃の約30万人で、後期はその3分の1にまで減ってしまったのだとか。だから、その勢いで弥生時代には絶滅してしまって、入れ替わりに大陸から入ってきた人たちが人口を増やして弥生人になっていった、という。
その原因として、疫病だとか気候の悪化だとかがが説明されているのですが、説得力があるものなど何ひとつないし、説明する側も自信なさげにおそるおそる言っているだけです。
これは、どう考えてもおかしい。
彼らが言う人口が減ってしまった証拠とは、後期に入って集落の戸数が減ったり、集落そのものが放棄されてしまった例が多いのだとか。
しかしそれは、ツマドイ婚との関係で、集落を分割したり、集落ごと別の地域に移動したりというような、むしろ発展的なかたちであることだって考えられます。男たちがさすらっていれば、それを待つ女たちの集落も、いろいろ変化したり移動したりしてゆくこともあるでしょう。
大きな集落は、大きくなりすぎてツマドイをしてくる男たちとの需給関係のバランスが崩れ、やがて縮小的に分割されていった。そして小さな集落は、フットワークよくもっと男たちが集まってきやすい場所に移動していった。
そうして男たちも女たちも、しだいに奈良盆地に近づいていった。
縄文後期に漆の技術が獲得されたということは、それだけ人が多くなって文化的な関心がより高まってきたということでしょう。人口がどんどん減っていくような状況なら、漆どころではない。あんなもの、食い物の足しにはならないですからね。
また、そのころ稲作も始まっているのだが、ほとんどは祭礼とかに使うだけで、飢えをしのぐためにそれを主食としていったという形跡は何もない。
縄文時代の暮らしのレベルは、精神的にも物質的にも、確実に上がっていったのです。それで人口が3分の1に減ったなんて、おかしいですよ。
それだけ生息域が広がっていった、というだけのことでしょう。
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縄文時代から弥生時代への移行は、どこからどう見ても、確実に連続している。
弥生時代に人口が増えたのは、男たちも定住したり平地に移って大きな集落を形成することを覚えたりして、子供をむやみにたくさんつくるまいという集落の「禁制」がなくなっていったからでしょう。
大陸から人がやってきてどうとか、みんなそのことにとらわれすぎて、日本列島に閉じ込められて生きた人たちがどんなことを思いどんなふうに暮らしてきたかということを、本気で考えようとしていない。
大陸からやってきた人なんか、みんなが考えているよりずっと少ないのだ、と言っている研究者もいるのです。
ともあれ、日本列島で最初の本格的な共同体は、奈良盆地で生まれた。これは、誰も疑えないことでしょう。
人がたくさん集まってきて共同生活いとなむ、そのことが当時の日本列島でもっともダイナミックに起きた場所は、奈良盆地だった。
縄文人のほとんどが東北で暮らしていたのなら、東北にそんな場所が生まれてもいいはずだが、さすらい続ける彼らは、けっしてそんな場所をつくろうとはしなかったし、おそらくつくれる場所もなかった。
また、大陸人が九州や日本海側の地域にやってきて弥生人になっていったのなら、それらの地域でいち早く本格的な共同体が生まれていなければならない。
そうして、この二つの条件からまったく隔離された奈良盆地から、じつはそうした共同体が生まれてきた。
上の二つの条件に、黒潮に乗って太平洋岸に流れ着いた人たちの一群のことも合わせて考えるなら、奈良盆地は、ドーナツの穴のように、どこよりも人が少ない地域であってもおかしくないはずです。
なのに、奈良盆地こそ、もっとも多くの人が寄り集まって暮らす場所だった。
歴史というのは、皮肉なものです。
では、なぜか。
内陸部の山野をさすらう縄文人が、旅の終わりに選んだ場所だったからでしょう。
それが、弥生時代の幕開けです。
さすらう縄文人を想定しなければ、奈良盆地に人が集まってくることなど、どう考えてもありえない。
そうしてまず、大和三山に囲まれたあたりの場所から人が埋まっていった。これもまた、山野に親しんできた縄文人の心性がもたらした、当然の結果だったのではないでしょうか。