奈良盆地、あるいは大和盆地

縄文人は山の民だったのであり、大和朝廷を築いた人たちもまた、海なんか恋しがらなかった。したがって、弥生人が大陸から海を渡ってきたということも、海辺に住んでいた人たちが奈良盆地に住み着いて大和朝廷をつくったということも、ありえない話であろうと思えます。
大和朝廷を築いたのは、おそらくずっと昔からそこに住み着いていた人たちでしょう。
そこは、四方を山に囲まれた盆地で、しかも広々とした平地がある。こんなところは、そうはない。彼らは、いち早く平地の暮らしをはじめた縄文人だったのかもしれない。
もともと縄文人は、平地に住もうとしない人たちだったのだが、それは、山に囲まれている場所を好むということだったとすれば、奈良盆地なら、平地でも彼らのメンタリティにそう矛盾することはなかった。しかも「大和三山」というかたちで所々に浮島のような山があるということも、彼らの気持を落ち着けたのでしょう。万葉集は、この大和三山にたいする愛着を歌った歌が、とても多い。
そうして、若狭や能登あたりに漂着した帰化人がやってきて、稲作の新技術や青銅器文化に加えて、権力のシステムなども伝え、共同体として急速に発展していった。
能登から出雲にかけての人たちにとって、奈良盆地は漏斗の筒の下のビンのようなもので、吸い寄せられるようにこのあたりにさまよい出ていったのかもしれない。もちろん周辺にいたその他の地域の人たち(縄文人)も、誰もがここで漂泊の旅を終えたのでしょう。
平地に住むということになじんでいなければ、稲作は発展しない。おそらく奈良盆地に住み着いた人たちこそ、日本列島で最初に平地の暮らしをはじめた人たちだった。だから、スムーズに稲作の暮らしに移行してゆくことができた。
そのころ日本列島の海岸近くの平地は、ほとんど湿地帯で、人は住んでいなかった。海辺に住む縄文人の多くは、山を背にした入り江とか、そんなところばかりだった。
縄文人が平地暮らしに移行できる土地としては、奈良盆地以上の場所は、おそらくなかった。山に囲まれた広い平地で、しかも、浮島のような小さな山があちこちに点在するという景観。これが、閉じ込められた場所を好む彼らを、平地暮らしにいざなっていったのではないでしょうか。
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縄文人だって、いつも山野をさまよっていれば、やがては「これが世界のすべてだ」という感慨も薄れてくる。
そういうときに、山を越えて峠から見下ろす奈良盆地の広さは、どう感じただろうか。
「ああ、ここに世界がある」、と思ったのではないでしょうか。
縄文人にとってももう、あの山の向こうにも同じ世界があることは、ちゃんとわかっている。わかっていても、そういう感慨をつねに携えていないと、生きた心地がしなかった。落ち着かなかった。大切なことは、「これが世界のすべてだ」という感慨です。そういう感慨をもたらすところこそ、理想の世界(=まほろば)だった。
「大和は国のまほろば」、と万葉歌人も歌っているが、それは、気候がいいとか食い物がたくさん取れるとか、そんなことではないはずです。そこに立てば、「ああこれが世界のすべてだ」と深く認識する感慨が生まれてくる場所だったからではないでしょうか。
気候のことや食い物の取れ具合のことなどは、長く暮らしてみてからわかることです。はじめてそこに立って、ここで暮らしてみようと思うか否かは、まず、そういう感慨があるかどうかでしょう。
近畿地方なら、どこで暮らしても、気候の大差はない。そして縄文人は、食い物に不自由なんかしていなかった。彼らが「ここに住んでみよう」と思い立つ契機は、そんなことではなかった。
「これが世界のすべてだ」と思えるかどうかでしょう。
平地が広いここでは、まわりを取り囲む山が、「世界の果て」として存在している。
奈良盆地に立てば、われわれ現代人だって、生駒山の向こうに大阪があるなんて、頭でわかっていても、感覚的にはまるでリアリティがない。そのリアリティのなさこそ、古代人が住みつこうとする契機のすべてだったのではないでしょうか。
日本列島に生駒山より高い山はいくらでもあるが、生駒山ほど人を定住にいざなう山もないのかもしれない。
たとえばアルプスの穂高連峰を眺めれば、あああの稜線が世界の果てだという感慨は、たしかにある。しかし、そこは高すぎて遠すぎて、何か水平線を眺めているような茫漠とした気分というか、逃げ出したいような気分もどこかで疼いている。長野の人が、教育熱心で、意外に中央(東京)志向が強いのは、そのためであろうと思えます。アルプスの峰峰に抱かれながら彼らは、しかしはたで思うほど、すっかり安らいでいるわけではないのです。
それにたいして生駒山は、すぐ前にそびえていて、威圧するほど高すぎもしないし、物足りないほど低いわけでもない。あの山の向こうには何もない、という感慨が妙に安らかで、旅人が、ああもうここで終わりにしてもいいかな、という気持にいざなわれる何かがある。中世の絵師たちが、しばしば生駒山の向こうから阿弥陀如来がやってくる「来迎図」を描いた気持ちも、何かわかるような気がする。
古代人にとって、ここまで完璧に世界として完結している場所など、ほかにはちょっとなかった。しかもそこは、近畿地方のど真ん中です。あちこちから、山野をさまよう縄文人がやってくる。そうして、「ああここに世界がある」と思う。
奈良盆地は、日本列島でもっとも、人が入ってきやすく出て行きたがらない、という性格を持った土地だったのではないでしょうか。                                  
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奈良盆地の景観には、古代人に旅の終わりを自覚させる何かがあった。ここに住み着こうと思わせる何かがあった。
それは、山野をさすらう縄文的心性の、当然の帰結だった。