日本人の源流

ここでもう一度、日本人の源流についておさらいをしておきます。
7万年前から1万3千年前までの氷河期において、日本列島は、北海道と樺太シベリア大陸、北九州と朝鮮半島、沖縄と中国大陸、この三箇所でおおよそ大陸とつながっていたらしい。
しかし最初期の縄文人が東北地方以北に多くいたということは、もしかしたら完全につながっていたのは、北の部分だけだったのかもしれない、と推測することができます。
そのころ、シベリアより、中国大陸や朝鮮半島のほうが多く人がいたはずですからね。完全につながっていたのなら、そちらから多く人が渡ってきたはずでしょう。
氷河期の原始人は、スペイン南部と北アフリカとの、当時はおそらく数キロしかなかったであろうジブラルタル海峡ですら渡ることができなかったのだとか。とすれば、北九州と朝鮮半島とのあいだも、沖縄と中国大陸とのあいだも、小さな海峡があったのかもしれない。
沖縄の人の身体的な形質は、南アジアよりも、むしろ北海道のアイヌに似ている。彼らは、北から下りてきた縄文人の子孫らしい。それは、沖縄が、本土以上に多くの縄文文化の痕跡を残していることからもうかがえます。
また、アイヌの身体的な形質は、ネアンデルタールに似ている、とも言われています。つまり、北ヨーロッパからシベリアにかけて拡散してきたネアンデルタールの子孫だ、というわけです。もちろんその間にさまざまな血が混じってきているのだから、完全な、というわけではないでしょうが、ともかく日本人の原型は、北の大陸から渡ってきた人たちにあるらしい。
そして、沖縄に青銅器文化が伝わったのは、12世紀以降であり、本土より千年もあとのことだとか。つまり、12世紀以降になるまで日本人は、沖縄まで渡ってゆくことができなかった、ということです。また、沖縄が中国大陸から圧迫を受けるのは、近世になってからのことです。そして圧迫を受けながらも、乗っ取られはしなかった、ということは、そのころになってもまだ、大挙してやってくるほどのことはできなかった、ということになります。
沖縄の人がアイヌの形質を残しているということは、古代において、中国や東南アジアからやってくる人間なんてほとんどいなかった、ということを物語っています。
古代の航海能力なんて、そのていどなのです。古代の船なんて、簡単に転覆してしまうのです。それでどうして、朝鮮半島から大挙して玄海灘を渡ってきて弥生人になった、なんてことがあるでしょうか。
縄文末期から弥生時代初期にかけて、日本列島を目指してやってきた人間なんかほとんどいなかった。やってきたとしたら、その大半は(いや、ほとんどすべて)、漂着した人たちだったはずです。
古代人にとって日本列島は、漂着しないかぎりやってこられるところではなかったし、しかし太平洋側は黒潮が流れ、日本海には親潮という暖流が流れているから、漂着しやすいところでもあったのです。
四国から紀伊半島にかけての太平洋岸には、東南アジア系の顔をした人が多い。北陸から東北あたりの日本海側は、中国・朝鮮系の顔の人が多い。彼らの祖先は、この日本列島に「渡ってきた」のではなく「漂着した」のであり、古代人が平気な顔をして太平洋や玄海灘を渡ってきたなんて、現在の海で働く人たちに失礼というものだ。彼らは、これほど近代化した船を持っていても、それでも冬の海に漁に出るときは、毎朝「命がけ」の思いをどこかでしているのです。
そして中世以降、日本列島にやってくる人がほとんどいなくなったということは、造船技術が進歩して、近海を航行しているかぎりはそう簡単には難破しなくなった、ということを意味している。縄文・弥生時代は、簡単に船が転覆してしまう時代だったからこそ、ときどき大陸から人がやってきていたのではないでしょうか。
古代人に、海を渡って知らない土地に行こう、などという衝動はなかったはずです。
古代の歴史は、想像するたのしみがあるものの、学者たちの乱暴な思考に踏み荒らされてしまっている、という不快感も同時に引き受けなければならない。そこが、もの狂おしいところです。
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騎馬民族説」なんて、もってのほかでしょう。騎馬民族に航海技術なんかあるはずがないし、海を渡ろうなんて、そんな恐ろしいことを考えるはずがない。
もしアイヌと沖縄の人が本当に似ているのだとしたら、沖縄へは、まだ本土と陸続きだった氷河期明け直後のころに渡っていったからでしょう。弥生時代後期の大和朝廷に追い払われたのではない。追い払われたのなら、そのころすでに沖縄も、青銅器あるいは鉄器の文化が始まっていたはずです。しかし沖縄は、12世紀まで石器文化だったのです。
縄文文化は、あっという間に日本中を覆っていった。そのころ、日本中が縄文文化だったのです。この均質性は、アジアのほかの地域にはほとんどないらしい。つまり、それほどに縄文の男は、ふらふらと山野をさまよっていた、ということでしょう。だから、野火のようにたちまち日本列島に広がっていったのであり、そういう伝染性の伝統は、現代まで続いているはずです。
すくなくとも文化の面で考えるなら、大陸から渡ってきた人たちがあっという間に列島中に住み着いたなんて考えられないし、縄文の男たちのさすらう習性を思うなら、そんなふうに考える必要もない。
だいたい、弥生人がみんな大陸から渡ってきた人たちであるのなら、「神武東征」の意味はずいぶん違ったものになったはずです。大和朝廷の人たちは、東北にどんな人間が住んでいるか、知らなかったのです。同じ大陸人なら、おおよそ手の内はわかっているし、話し合いで決着することもできる。しかし彼らにとって、東北人は、「熊襲」というくらいで、まったくの「異人種」であり「蛮族」だった。だから、東征に出かける前は、かならず伊勢神宮に参り、決死の覚悟だった。
そうして、たかだか古代の戦いで、東北にいた縄文人(=熊襲)をぜんぶ北海道に追い払ったなんて、できるはずがない。東北から海を渡って北海道に逃げていった熊襲なんて、たぶんひとりもいなかった、と僕は思っている。すくなくとも、内陸部の山間地に住んでいた人たちが、海を渡れるはずがない。そしてアイヌも、おもに内陸部に住む人たちだったということは、彼らもまた、海を渡ることのできない人たちだったし、海を渡って来たのではない、ということを意味しているはずです。
それにしても、以上のようなばかげたことが、ちゃんと教科書に載っているのですからね、まったく・・・せつなくなるばかりです。