まれびと論・14 沖縄は日本文化の源流か

民俗学にせよ歴史学にせよ天皇論にせよ、この国の研究者たちの多くは、沖縄にその始原の痕跡を見出そうとする。
折口信夫の「まれびと論」ももちろんそうだし、吉本隆明氏なども、沖縄に残っている習俗から天皇制を語るということをよくしている。
しかし、これは、ナンセンスです。
日本列島の本土と沖縄が比較的自由に往来できるようになったのは、鎌倉時代になってからのことらしい。それまで沖縄は、縄文時代のような暮らしをしていた、といわれています。だから沖縄には、まだ多くの縄文的な習俗が残っている。
しかし、それは、本土の縄文時代の習俗とは違う。まだ本土とは没交渉であったときの習俗です。沖縄と本土では、気候も地理的条件も違う。つまり人々は違う暮らし方をしていた、ということです。そしたら、気質も文化も習俗もとうぜん違ってくる。
沖縄から黒潮に乗ってやってきた人たちがその習俗を本土に伝えた、というなら、そのとき本土は沖縄より遅れた文化の暮らしをしていたことになりますよ。
本土には本土の文化があったし、そうやって流れてきた少数の人たちだって、けっきょく本土の習俗に同化していっただけでしょう。
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いや、沖縄から流れてきた人たちなんか、ほとんどいないはずです。だいたい、人間が海を渡ってやってきたなどという話は、そういうことが可能な船ができてからの話です。
船ができる前に海を渡ってやってくる人間など、いないも同然だったのだ。
1万年以上前の氷河期の日本列島は、樺太伝いの北方大陸と、沖縄・台湾伝いの東南アジアと、だいたいこの両方で大陸とつながっていた。
まず東南アジアから拡散してくる人の群れがあった。この人たちは、比較的暖かい太平洋岸に住み着いた。
そして先史時代は、漁労よりも草食獣の狩が主体だったから、草食獣の少ない沖縄よりも本土に人が集まった。
次に北方から人が拡散してきた。この人たちは中央アジアから蒙古やシベリアを経て拡散してきたから、東南アジアからの人たちとは少々身体の形質が違った。この人たちは、寒さに慣れているから日本海側に住み着いていった。
そして最後に朝鮮半島とつながり、そこから人が拡散してきた。
そのとき九州あたりの日本海側に暮らしていた北方系の人たちは、押されるようにして沖縄あたりまで南下していった。けっきょく北方系の人たちは、沖縄と東北以北とに分断されることになった。
沖縄の人たちは、東南アジアに近いのに、東南アジアの人たちとはかなり身体形質が違う。それは、彼らが東南アジアからやってきたのではなく、北から下りていった人たちであることを意味する。
本土の太平洋岸の人たちの方がずっと、東南アジア的な形質を持っている。
沖縄に東南アジア系の人が少ないということは、海を渡ってきた原始人などいなかった、ということを意味する。海から人が渡ってきていたのなら、沖縄には、本土の太平洋岸よりももっとたくさん東南アジア系の人たちがいなければならない。
現在の本土に住む東南アジア系の形質を持った人たちは、海を渡ってやってきたのではなく、氷河期に陸地沿いに拡散北上してきたのだ。
原始人が黒潮に乗ってやってくるなんて、ただの漫画です。丸木舟のようなもので漂流してきたって、すぐ食料も水も尽きてしまう。東南アジアから黒潮に乗ってやってくるためには、いったい何日かかると思っているのか。だいいち、原始人に海の向こうに行こうとする衝動などなかったのだ。丸木舟のようなもので荒海に漕ぎ出そうとするか。その荒海の向こうに新しい国があると確信する、いったいどんな経験知を彼らが持っていたというのか。
現在の太平洋岸の方言に、東南アジアの言葉の痕跡が残っているか。なあんも残っていない。より古いやまとことばの痕跡を残しているだけです。
言葉が残っていないということは、習俗(文化)も残っていないということです。習俗だって、本土の大和文化を海辺の暮らしにアレンジしたものばかりです。縄文時代や古代に南方から海を渡ってやってきた痕跡など、なあんもない。ものずきな研究者が勝手にこじつけているだけです。
現在の日本列島本土における文化や習俗や気質は、ほとんど大陸から切り離された1万年前以降につくられたものであろうと思えます。寒冷気候のもとで大陸とつながっていた状況と、温暖気候で島国になってしまった状況とでは、決定的に違う。
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氷河期が開けた1万2千年前から鎌倉時代ころまで、沖縄からやって来た人たちなどいなかったのであり、その1万年のあいだ、本土と沖縄は、まったく別の歴史を歩んできたのです。
氷河期開けの一万年前、氷河が溶け出して、本土の海沿いの平地は、湿地帯になってしまった。そのために縄文人のほとんどは山間地で海を見ない暮らしをしていた。日本列島本土の歴史は、山の暮らしから始まったのです。海に囲まれた島国だから、海の暮らしから始まり、海に親しみを持っているとか、そんなものはみな「常識の嘘」です。
本土の縄文人に、海に対する親しみも憧れもなかった。
それにたいして沖縄は、氷河期でも氷河などなかっただろうから、海沿いの土地が湿地帯になることもなかったはずで、早くから海との関係を持っていたことが考えられます。
しかし、沖に漕ぎ出すことはなかった。人間がそういうことをするようになったのは、釣りをおぼえてからのことであり、鎌倉時代に本土から鉄が入ってくるまで釣り針はなかったはずです。
また、鎌倉時代まで、海の向こうから人がやってくることもなかった。
したがって、沖縄の人びとが、海の向こうに「常世(とこよ)の国」があるとイメージしたのは、鎌倉時代以降のことであるはずです。
沖縄に常世信仰が今なお色濃く残っているのは、それが比較的新しい信仰であることと、遠くの沖まで漕ぎ出せば、見たことのない島を発見したりすることがよくある地域だからでしょう。
ただぼんやり海を眺めているだけで、水平線の向こうに常世の国があるという信仰が生まれてくるわけではない。大陸のように地平線の向こうから人がやってきたり、こちらからも出かけていったりする経験を持っている人たちが、そうしたイメージを持ったのです。
沖縄の人々だって、海の向こうから本土の人がやってきたり、自分たちが沖まで漕ぎ出して見知らぬ島を発見するという体験を重ねながら、常世の国のイメージを紡いでいっただけのはずです。大陸から本土に常世信仰が入ってきた古代のころ、沖縄にはまだそうした信仰はなかった。
沖縄の人々だって、古代のころには、常世信仰を持っていなかった。
そして本土は、縄文時代・古代を通じて「山の文化」だった。山の文化だったからこそ、古代以降に海の文化に憧れ、それを習俗の中に取り入れてゆきもしたのだ。折口氏は、内陸部にも海の信仰があることを「海辺で暮らしていたことの記憶」だというのだが、そうじゃない。記憶などなかった。山の民として、海の暮らしに憧れただけだ。
たとえば古事記天皇の祖先が海を渡って奈良盆地にやってきたという話(神武東征)があるのも、昔から奈良盆地に住み着いていた人びとの海への憧れだった。海辺の地方からやって来た旅人の話を聞きながら、そういう物語をつくり上げていったのだ。