縄文社会の構造

縄文人がどんな暮らしをしていたかの説明が、いいかげんでした。
あらためて確認しておきます。
まず、彼らの集落の多くは、山間地の丘陵地帯にあり、10戸前後のきわめて小規模なものだった。5戸、という例もある。入り口が竪穴式の円形のかやぶき住居で、丘陵地帯だから、狭い土地にくっつきあうように建てられていた。家の持ち主は女で、女だけの親族社会だった。成人した女は家を与えられ、そこでひとり、男を待つ自立した暮らしをはじめる。
まあ、集落自体がひとつの家で、それぞれの住居は、家の中の部屋みたいなものだったらしい。そしてこの形態は、明治時代のひなびた山間部にいくらでも残っていたのです。「母屋(おもや)」とか「本家・分家」という言葉は、この縄文文化につながってゆく。
親族というのは、血のつながりでおたがいの関係がはっきりしているから、かならず「順位」というものが生まれてしまう。そのために、集落内の若者どうしが婚姻関係を結ぶことはなかった。それは、「順位」を混乱させ壊してしまうことであり、べつにタブーでなくとも、先験的に持たされているそうした意識がじゃまをして、したいという衝動が起きてこない。
一般的には、縄文人は、おおらかにフリーセックスをしていた、ととらえられているようですが、それはありえない。もしするなら、「順位」が上の女から順番にパートナーが決まっていく、ということにならなければならない。そんなことは、女たちが承知しても、わざわざ遠いところから訪ねてきた男たちは納得しない。
また、訪ねてくる男たちが、集落の女たち全員にかならずいきわたるとはかぎらない。ひとりだけのこともあるし、いつ来るかもわからない。「「順位」が守られずに不平等になることはもう、どうあっても避けられないし、その運命に耐えるために、誰もが自分の家を持った。
そういう矛盾をやりくりするシステム、ですね。
そして、小さい集落ほど、みんながツマドイを受ける機会を持ちやすい。だから、縄文人は、けっして大きな集落を持とうとしなかった。多少は大きいほうが見つけられやすいだろうが、不平等も起きやすい。その兼ね合いですね。
彼女らは、ときに誰とでもセックスしたかもしれないが、するのはあくまで家の中での一対一の行為だったはずです。女たちはみな、セックスをする「家」を持っていたのです。
親族社会では、年上年下という関係をはじめとする「順位」が壊れたり逆転したりするフリーセックスはぜったいにしない。したがって、一般的に思われているような、集団的な歌垣からフリーセックスにいたる、という習俗が生まれてくることは、論理的にありえないのです。
その女系親族社会においては、セックスは、してはならなかったし、したいという衝動も起きてこなかった。「男の子」はいても、「男」がいない社会だった。
言い換えればそれは、したくてたまらなくなってしまう社会だった、ということです。人がほんらい持っている性の衝動を吐き出す日常の場がどこにもなかった、ということなのだから。
つまり、性の対象となる「異なる他者」がいない社会であり、女たちはひたすらその対象を待ち続け、いざない続けていたのです。そういう「社会の構造」だった。
集落の女たちは、誰もがセックスをしたがっているのに、誰もができるわけではなかった。しかも、「順位」の低い若い女のほうがその機会は多かった。
であれば、縄文人のセックスは、つねに女が男を家にいざなってなされる「ひめごと」だったはずです。「ひめごと」であることによって、女系親族社会の結束が守られていた。
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男たちは家を持たず、山野をさまよいながら、そのときしだいで不特定多数の女の家をたずねていった。このために、中国の史書には、「一夫多妻制だった」と記されている。つまり、弥生時代に男も定住するようになっても、この習俗だけは続いていたということです。いや、中世になってもまだ、おおよそこうした「ツマドイ婚」の形態だったらしい。
男が「父」というアイデンティティを持たない女系社会は、もっとも原始的な社会形態です。たしかなことは「女が子供を産む」ということだけで、それ以上の親子関係のことはようわからんし、どうでもいい、という社会です。したがって弥生時代に「ツマドイ婚」をしていたということは、縄文時代も同じだったという推測はとうぜんできるし、縄文時代のほうがなお純粋で明確なかたちだったはずなのです。