言葉は、どこで発達してきたか

赤色オーカーの幾何学模様がどうとかこうとか、抽象化の思考がなんたらかんたら、そんなレベルで言葉の起源を語ろうとする研究者たちの短絡的な発想にはもう、うんざりさせられます。
言葉は、頭の中の知能とやらがひねくりだしたのでも、1対1の対話=コミュニケーションとして発達してきたのではない。
人間の頭に言葉を発明する能力などないのです。
ただもう、今目の前にある世界に対する反応、そういう感慨の表現として思わず口から出てしまう言葉があった。そしてそういう体験はわれわれにだってあるし、それが、言葉の起源を問うときの手がかりになる。
言葉は、群れがあるという状況から勝手に生まれてくるのであり、みんなで語り合うこと、すなわち社会(群れ)を成り立たせるための機能として発達してきたのだ。
1対1の対話など、言葉がなくても、身振り手振りでなんとかなる。そして、仲良くなればなるほど、言葉は必要がなくなる。したがって、言葉の本質が1対1のコミュニケーションにあるということは、論理的に成り立たない。
たとえば、仲良くいつも交流している二つの社会があるとします。じゃあそこで、コミュニケーションをもっとスムーズにするために言葉を統一しようとするかといえば、けっしてしない。
言葉を統一するということは、合体して、すでに交流(=コミュニケーション)の必要がないひとつの社会になってしまうということです。
ストリンガーなどは、クロマニヨンは群れどうしのネットワークを持っていたから言葉も発達していた、と言っているのだが、群れが違えば言葉も違うのだから、ネットワークを持つことと言葉が発達することとは、まったく別のことです。
言葉は、まず群れで発達する。そして発達すれば、群れごとに違ってしまう。したがって、言葉は、ネットワークの機能にはなりにくい。もしもクロマニヨンが発達した言葉を持っていたとすれば、それは、それぞれの群れの自立性が強く、ネットワークが生まれにくい関係になっていた、ということを意味する。おそらくクロマニヨンの群れはそういう性格を持っていたはずであり、それがヨーロッパの都市国家の伝統になっていったのだろうし、そうした性格は、ネアンデルタールに時点ですでにできていたにちがいないのです。
ストリンガーはたぶん、言葉の本質について、中学生のレベルでしか考えたことがないのでしょう。
言葉は、交流(コミュニケーション)の道具ではない。
その果物が「りんご」という名であることは、「りんご」という名であることを伝えるためにあるのではない。すでにふたりとも知っているから、「りんご」という名であることが成り立つ。知っているなら、指差せば、「りんご」という名はたちどころに伝わる。発語する必要がない。
「りんご」と発語するのは、「りんご」という名であることを、伝えたいためではない。「りんご」という名であることを共有するためです。共有していることを確認するためです。
つまり、「伝える」ためではなく、「りんご」と発語したい衝動があったからです。発語しようとしたときには、すでに伝わっているのです。
それは、「伝える」行為ではなく、その果物にたいする何らかの感動を「表現」しているだけです。ではなぜ「表現」したいかといえば、「りんご」という名を共有したいからであり、共有できる情況(=社会)があるからです。
言葉は、そういう「社会性」のうえに成り立っているのであって、1対1のコミュニケーションの上にではない。
「伝える」ためではない。すでに伝わっているから、発語されるのです。
すなわち、いかなるときもすでに言葉が存在するから発語されるのであって、人間に言葉を生み出そうとする衝動も、生み出す能力もないのです。
人間が言葉を生み出したのではない。人間の社会に、言葉が生まれた、のです。人間は、言葉を生み出したのではなく、言葉が生まれてくるような社会を持ったのです。
そして言葉が生まれてくるのは、ネアンデルタールのような、焚き火を囲んでみんなが語り合うような群れ社会であって、サバンナのホモ・サピエンスの家族的小集団からではない。
したがって、言葉が発達していたかもしれないクロマニヨンとの連続性は、サバンナのホモ・サピエンスではなく、ネアンデルタールにこそあったはずです。