都市に棲む山姥さんから与えられたヒントについて考えたこと

いつの間にか、言葉の問題に戻っていました。
でも、ネアンデルタールからは、少しそれるかもしれません。
言葉の問題を、小林秀雄の「本居宣長」をテキストにして考えている人がいるということを知って、ちょっとした感動でした。
あの本に書かれていることを認めるなら、言葉の問題は、象徴化の知能がどうのというような理屈では済ませられないはずです。
そういう安直な思考しかできない現在の学問の世界における制度性、このことを考えると、小林秀雄がなぜあのときに「本居宣長」という本を書かずにいられなかったかということの一端も、すこし見えてくるような気がします。
歴史の無意識として、われわれ現代人はちょいとやばい状態におちいっているのではないか、そんなことを教えられます。小林秀雄本居宣長とともに嘆いたことが、もっとあからさまになってきている。
キーワードは「嘆きを表現する」ということ。そこにこそ人間の本質があり、その行為が歴史をつくってきたのだということを、現代の学者たちはまるで考えようとしない。
とくに古人類学者なんて、食い物のためとか、知能がどうとか、そういう程度の低いことばかり考えている。
現代社会は、「嘆き」を排除することの上に成り立っている。そして、現代の学者たちの頭はそういう制度性にどっぷり浸されてしまっているのであり、小林秀雄はそれに異をとなえた。
食い物なんかなんでもいい、そんなことよりもまず「嘆き」を表現せずにいられない、そういう人間性とともに、言葉が生まれ、国家ができ、戦争をし、という歴史が流れてきたのだということ。そういうことを、われわれは、「本居宣長」という本から学ぶことができる。
あの本は、大家の個人的な趣味とわがままだけで書かれたのではない。
黒沢明の「影武者」とは、わけがちがう。
で、都市に棲む山姥さんからいただいたヒントは、「胎児は、すでにすべての音韻を聞き分けている」ということ。
つまり人間は、言葉を話す能力ではなく、言葉を聞き分ける能力を持って生まれてくるのだということです。そしてそういう能力は胎児ですら持っているのだから、原始人が持っていなかったはずがない、ということも意味します。
たぶん都市に棲む山姥さんは、こんなことは先刻ご承知で、おまえも自分で考えてみろ、とおっしゃっているのでしょう。
言葉を発するということは、言葉を模倣する、ということです。
言葉は、「すでにある」、のです。
たとえば原始人が、「りんご」という言葉がまだ未発達の段階で「んご」と発語していたとします。そのとき人間の頭には「んご」という言葉しかないが、社会の構造においては、すでに「りんご」と発語される情況は出来上がっているのです。
つまり、やがて頭に「り」という音声がくっついてくるであろうような発声の仕方とか、テンポ感だとかリズム感とか、そう言ったほうが伝わりやすい会話の内容とかメンバーの構成とか、みんなが抱いているりんごのイメージとか、まあそういうもろもろの「情況」ですね。そうして何かのはずみで誰かが「りんご」と発音すれば、たちまちみんながそれを模倣してゆく。
誰かが発音したからその言葉が生まれたのではない、「たちまちみんなが真似をする」という情況において、はじめて言葉が生まれたといえるのであり、そういう情況を持った群れにおいてしか言葉は生まれない、ということです。
発音する能力なんか、人類はすでに100万年か200万年前に獲得していたのです。そして言葉を聞き分ける能力だって、胎児が持っているくらいだから、まちがいなくそのとき持っていた。それは、地球上にネアンデルタールホモ・サピエンスが現れる20万年前よりずっと前のことです。どちらにだって言葉を獲得するチャンスはあったのです。
しかしじっさいにそれを獲得できるのは、そうした能力ではなく、そういう言葉が生まれてくるような「社会(群れ)の構造」を持ったときだったはずです。
人類が先験的に持っていたのは、言葉を生み出す能力ではなく、言葉を聞き分け真似する能力だった、これが、都市に棲む山姥さんから教えられたことです。