団塊女とやまとことばⅡ

書き出しは、「都市に棲む山姥」さんからの受け売りです。
現代のギャル言葉に、やまとことばの萌芽があるとすれば、団塊女よりいまどきのギャルのほうが人にたいする一瞬のためらいがある、ということでしょう。彼女たちは、団塊女がぼろぼろにしてしまった「やまとことば」を再生している。関西弁がもてはやされたりするのも、おそらくやまとことばのにおいをより多く残しているからでしょう。
「きもい」というとき、どこかしらで内臓が意識されている。それは、たんなる趣味の問題ではなく、生理的なニュアンスがある。そして「きもかわいい」といえば、これもまた、ただの美醜ではなく、生理的な「ときめき」というか、ある種のエクスタシー体験を表現している。
団塊女は、人生を何もかも趣味の問題にしてしまった。ニューファミリーのブームのころに流行った、パルコの「おいしい生活」というコピーもまた、まさに趣味だけで生きていこうと煽っているかのようなメッセージだった。
しかし現代のギャルは、団塊女の趣味的観念的な幸せ志向を解体して、ほんらいやまとことばに付与されていたはずの生理的な感慨のようなものを模索し、取り戻そうとしている。
ただそれが、伝統的なやまとことばをそのまま踏襲しているわけではないということは、とにかく団塊世代のところでいったんそれが壊れてしまったことを意味している。
70年代のニューファミリーブームから80年代のバブル景気にかけて、団塊世代が社会の中心になってゆくにしたがって、日本人の無意識が大きくゆがんでいった。
だから、やまとことばも、壊れてゆくほかなかった。
言葉が壊れるということは、無意識が壊れる(汚れる)ということでしょう。
団塊世代の教祖様である吉本隆明という人は、八十年代、テレビのバライエティ番組に登場するギャルの、街頭インタビューするものおじしない態度を見て、「無意識が汚れていない」と目を細めていいました。
ようするに、なれなれしいだけだったのですけどね。そしてそういうなれなれしさは、人にたいする驚きもときめきもないという、むしろ病理的な姿だったのだ、と今ならいえそうな気がします。こういう態度=風俗が、やまとことばの崩壊を加速させていった。
道であった知らない人にいきなり友達みたいな口が聞けるなんて、やっぱり人間のまっとうな姿ではないですよ。
ただのすれっからしじゃないですか。やりてのバーのママが、はじめてきたお客にも「山ちゃあん」なんていいながらしなだれかかってゆくのと、ちっとも変わりゃしない。
生まれたばかりの赤ん坊は、まるで恐怖に引きつったようにおぎゃあと泣いているのであって、へらへら笑って生まれてくるのではない。大人や社会に少なからず違和感を抱いてしまうほうが、汚れていない若者ほんらいの姿であって、そんなものを何も感じないのは、ただ鈍感というだけでなく、やっぱり人間にすれているんだと、僕は思います。
そのようにして、団塊世代のなれなれしい仲間意識は、八十年代になるともう、社会ぜんたいにまで広がってゆきつつあった。
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しかしわれわれは、アメリカ人になったわけではない。
日本語を話すかぎり、日本人であることからは逃れられない。
つまり日本人としての無意識、それがどんなかたちをしているのだろうということは、知っておいたほうがいいのかもしれない。そういうことに僕は、つい三日前に気づいた。もう手遅れかも知れないが、なんとか考えてみたい。
団塊世代に汚されたまま、というのも、なんか悔しいわけで。
まず、日本語は、なぜ、ゆったり流れるような音節になっているのか。
日本語は、先を急がない。立ち止まって語られる。
人の話は最後まで聞け、などというが、最後まで聞かないと文が成り立たないような構造になっている、
英語は、途中で切れてもいいようなつなげ方になっている。それは、途中で相手がさえぎってしまうこともよくある人間関係だからかもしれない。英語のほうがなれなれしいし、戦闘的でもある。
それにたいして日本人どうしの関係には、最後まで相手の話を聞く節度がある。聞かなければ、話の意味が成り立たない。
日本人が日本語を話すかぎり、どうしてもなれなれしくなりきれないところがある。そのなれなれしくなりきれないところに、やまとことばの文化がある。
話し手を「現在」とすれば、次に話すであろう聞き手は、いわば「未来」です。
つまり、こちらの話をさえぎって相手という「未来」が割り込んでくるということは、「現在」を消去してしまう行為です。
英語は、「現在」を消去して「未来」を先取りすることが可能であり、そういう態度を人間の本質であるとする思想というか時間意識の上に成り立っている。
しかし日本語は、あくまで「現在」に立ち止まろうとする。
この違いは、けっして小さくないと思えます。
よく「日本人には『他者』がない」という言い方がされますが、他者があると思うから消去しにかかる。英語が途中で切れてもかまわないということは、永遠に続けることもできる、ということです。つまり「。」をつけないで話しつづけることができる、ということですね。しかし日本語には、終わりがあり、終わりが目指されているのです。それは、みずからを、消去してゆく、ということです。「他者がない」ということは、みずからを他者として消去してゆく、ということです。そしてそれは、ヒューマニズムとかなんとか、そういう問題ではない。自分を消去してゆくエクスタシーがある、ということです。オルガスムスなんて、まあそういううものでしょう。ようするに、日本語というのは、身体的生理的な言葉だというか、とにかく「他者がない」といえば、それが正義や正解になるほど単純な問題ではない、ということだけ、ひとまずいっておきます。
日本語に「未来」という時間はない。日本人にとっての時間の流れは、「現在」の反復として認識されている。おたがいが「現在」に立って、現在を交換し合う。どちらも、未来という他者の立場にはたたない、未来という正義を振りかざして現在を消去しにかかるというようなことはしない。「他者性」といっても、さまざまなパラドックスを含んでいて、とてもややこしい問題なのです。僕は「日本人には他者がない」などという安直なことは、よういわない。
日本人は、「現在」に立ち止まり続ける。
だから、「たおやかな」とか「そこはかとない」とかいうような、悠長でわけのわからない物言いが生まれてくる。
しかしそういう言葉が生まれてくるということは、それだけ日本人にとっての時間は、ゆったり流れていた、ということを意味します。
現代人の時間は、スケジュールという未来を先取りし続けるから、矢のように過ぎてゆく。それが、西洋人による近代合理主義の正体でしょう。
だが日本語とともにある日本的な無意識は、未来という「解決された世界」に向かわない。あくまで現在の「わからない世界」の中に漂う。
「たおやか」なんて、そういうものの言い方だと、僕は思います。なんのこっちゃ、さっぱりわからん。わからんけどしかし、「わからない」というせつなさで眺める世界や人間(他者)の「かたち」というのはやっぱりあるわけで、つまり、たおやかな人や物がどんなものかということはこのさい問うことは断念したとしても、「たおやか」と感じてしまう気分(感慨)というのは、わからなさの中に漂っていればそりゃああるのだろうな、ということだけはなんとなく想像がつく。
心理学で人の気持を決めつけてしまえるなら、「たおやか」と感じる心の世界なんかあるはずがない。
しかし日本語は、人のほんとうの気持など誰にもわかるものではないし、あれこれ忖度(そんたく)することはするまい、という流儀の上に成り立っている。そういう流儀で、人や世界を見ている。
現代社会において、「たおやかな」人や物がなくなったのではない。「たおやか」と感じる心(無意識)の「かたち」が壊れかけている、ということだ。
言葉の本質は、心のかたちを表現する機能にあるのであって、コミュニケーションの道具などにあるではない。やまとことばは、コミュニケーションの不可能性の上に成り立っている。コミュニケーションの不可能性の上に成り立っているから、やまとことばは本質的なのです。その特性がたとえ現代生活の円滑な運びにいささかの支障をきたすとしても、おそらく人はけっしてその機能を手放さないだろうということを、現代のギャル言葉が教えてくれているのかもしれない。
人の気持や未来のことなどわからない・・・日本人のこういう無意識を、団塊世代の予定調和的な仲間意識が、正義づらして傍若無人に踏みにじってくれた。
それはもう止めることのできない歴史の流れであったのかもしれないが、それでもそういうことは確かにあったと、団塊世代のひとりとして僕はいいたい。