言葉と身体の関係

言葉の起源を、知能の問題ではなく、身体論として考えてみます。
直立二足歩行は、胸、腹、性器などの急所を晒してしまう姿勢です。つまり、つねにそういう不安とともにある姿勢だ、ということです。しかも、体をぶつけ合えば、かんたんに倒れてしまう。
もともと直立二足歩行は、四速歩行に比べてからだのターンがかんたんだし、ターンしなくても、そのまま前後左右、どの方向にも瞬間的な移動ができる。したがってその姿勢を獲得した人間の群れは、牛や羊のように、みんなが同じ方向に動くという習性が壊れてしまい、それだけぶつかりやすくなっていたはずです。
人間にとって二本の足で立つ姿勢は、ほんらい他者とのあいだに空間を保つためのものであったが、同時に、ぶつかりやすい姿勢でもあった。そして、みんなで歩いているときにぶつかれば、将棋倒しになってしまう。それはもう、他の動物以上にぶつかり合うわけにいかない群れでありながら、もっともぶつかりやすい群れでもあったわけです。
で、ぶつからないためにはどうすればいいか。
誰も目が後ろのあるわけではないのだから、もう声を出すしかない。
それぞれが声を出していないと、ぶつかってこられるし、ぶつかってしまう。
おそらく、自然に、そういうおしゃべりな群れになっていったはずです。
人間が言葉を獲得していったのは、とにかく声を出す機会が絶対的に多かったからであり、声を出さずにいられない不安をつねに抱えていたからであろうと思えます。
それが倒れやすい姿勢であること、そして急所を晒していること、そのためにはもう、寄ってきてくれるな、寄っていかないよ、という表現をつねにし合っている必要があった。
言葉の起源においては、声を出すことそれじたいに意味があったし、それは、コミュニケーションというような性格のものではなく、あくまで「自己表現」だったのではないでしょうか。
おそらく人間は、直立二足歩行をはじめたときから、すでに言葉によって自己を表現してゆく習性をつくっていた。二本の足で立ち上がることが常態になったその日から、もはや食うだけではすまない生き物になってしまった。
人間にとって、二本の足で立ち上がった姿勢をとっていることは、食うこと以前のかたちであり、二本の足で立っているあいだあいだに食っているだけです。したがって、二本の足で立っていることの不安や嘆きをどうやりくりしてゆくかということは、食うことよりももっと恒常的で先験的な問題であったはずです。またそういう問題を抱えてしまったからこそ、食い物なんかとりあえず何でもいい、という種としてのたくましさを身につけていったのだろうと思います。
人間にとって自己表現は、もっとも原初的な行為なのです。
人間が、自分のことを知ろうとするとか表現しようとすることは、現代的な知性でもなんでもない。直立二足歩行を始めたときから、すでにそういう衝動とともに生きていたのです。
他者に寄ってこられるのはいやだけど、離れるのもなお困る。そういう情況で、つねにみずからの身体の輪郭で他者や世界を感じていたのであり、そういう状況を保つためには、つねに声を出して自分を表現してゆかねばならなかった。
人が言葉を話すに際して声を出すことの基本は、腹から声を出すとか、そんなことじゃない。みずからの身体の輪郭と意識を交感してゆくこと、身体の輪郭それじたいに意識がともなっているような状態になること、おそらくそういうことであろうと思えます。
すくなくとも人類の歴史というものを考えるなら、そういうことになる。