言葉と身体の関係Ⅱ・やまとことば

言葉は、身体の要請から生まれてくる。
原初の人類にとって、自己を表現することは、直立二足歩行という危うい姿勢とともにあるみずからの身体の輪郭を確保しようとすることであったはずです。
直立二足歩行は、倒れやすく、しかも胸、腹、性器などの急所を外に晒してしまう姿勢です。したがって、身体の輪郭に敏感にならなければ、群れの中で暮らしてゆくことはできない。
そういう身体の輪郭のアイデンティティをたがいに確保しあおうとして、言葉が生まれていった。
おそらく日本語だって、他者の身体とのあいだに保たれている空間にたいする細心の注意を払いつつ育てられてきた言葉であり、日本語ほどそれを気遣っている言葉もない、といえるかもしれない。
それは、島国で、見ず知らずの人間や異人種と出会うことが、ほとんど、あるいはまったくない土地柄だったから、すでにある人間関係のなかから「出会い」を按配してゆこうとする工夫があったのかもしれない。そうしないと、日々の暮らしがどんどん退屈になっていってしまう。いや、退屈など知らなかったから、自然にそんなふうな按配をしていた、ということでしょうね。人と人が向き合ってあること、それじたいがすでにときめきをともなったひとつの「出会い」である、という生活の作法、それがやまとことばの原型だったのではないか。
まあそういうことを考えると、日本語というのは、とても本質的根源的な言葉だ、といいたい気持が抑えられなくなってくる。
日本語はとても身体的皮膚感覚的な言葉だということは、すでにあちこちで言われているのだろうが、そのことは人間が直立二足歩行を始めたところにつながっているのだということも、僕はいえると思います。
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英語は、かならず主語からはじまる。日本じゃ、ただ「さむい」というだけのことを、わざわざ「イッツ・コールド」と主語をつける。自分のことを言うときは、かならず「アイ」から始める。
日本語ではたぶん、声を出すことそれじたいが「主語」なのでしょうね。いわなくてもわかっているからではない。主語は、相手を説得するために必要な言葉であって、自分にとってはどうでもいいものです。しかしそれは、わがままなのでも、相手を無視しているのでもない。「説得しない」ということの意思表示というか、たしなみです。直立二足歩行のコンセプトでいえば、「ぶつかりません」という態度です。
日本人だって、説得しにかかるときは「俺が、俺が」を連発する。
わかっているから主語を言わないのではない。わかりあうために話しているのではないからです。正確には、伝わらないことそれじたいが、たがいの身体に空間が保たれていることの証しだからです。そうやってたがいの身体の関係をあんばいすること、それが第一義的な話すことの機能だからでしょう。わかり合おうとする衝動が希薄だから、主語を言わないのだし、「たおやか」などというわけのわからない言葉も生まれてくる。
言葉は、伝わらなければならないと同時に、伝わってはならない。この厄介な二律背反をすり抜けて、言葉が発せられる。これが、やまとことばの機能であり、日本人の無意識にひそむ言葉の扱い方の流儀なのではないでしょうか。
ある会話・お客がたずねてくる。主は、よろこんで迎える。
「きょうは、どうもありがとう、わざわざ」と主。
「いえ、もっと早くにと思ったんですけど、なんですかまあ、いろいろあって」と客。
こんな変な会話は、おそらく日本にしかないでしょう。
たくさんの言葉が省略されているかと思うと、「なんですかまあ」なんて、意味不明の言葉が入り込んできている。
外国人から見たら、こんな会話、まるでコミュニケーションになっていないでしょう。
しかし、情感たっぷりですよね。
主が、「わざわざ」と言ってやめたのは、そこで感極まったということです。そういうカタルシスが、表現されている。
そして客が「なんですかまあ、いろいろあって」というとき、言葉の意味の解釈を相手にゆだねてしまって、伝えることを放棄している。放棄しているけど、しかしある感慨だけは、たっぷり吐き出している。「なんですかまあ」は、相手との距離をつくると同時に、こらえきれないほどの親愛の情の表現でもある。「なんですかまあ」なんて、何の意味も持っていないけど、いかにも話者の体になじんでいるという感じがする。伝える言葉ではなく、体になじんでいるのが有効な言葉だ、ということです。
やまとことばは、コミュニケーションや相手を説得する機能においてではなく、あくまで話し手の体にしっくりなじんでゆくようなかたちで洗練されてきた。
人と人は、わかり合わなくてもいいのです。そんなややこしいことは、英語圏の人たちに任せとけばいい。
コミュニケーションなどというものは、共同体が生まれて、権力による支配とともに広がっていった人と人の関係にすぎない。すくなくとも原始人にそんな関係はほとんど必要なかったし、コミュニケーションのために言葉がつくられてゆくのなら、言葉の起源はじっさいよりずっとあとのことになっていたはずです。
コミュニケーションは、言葉が生まれたことの「結果」であって、その発生をうながした「原因」ではない。
やまとことばにおいては、「出会いのときめき」があればいいだけです。すくなくとも日本語は、そういうコンセプトの上に成り立っている。
源氏物語」の男女の関係なんて、ほとんど「出会い」が勝負だ、という感じじゃないですか。
また、あのころの歌をやりとりすることにしても、遠く離れていればいるほど直情的になってゆき、近くのときは、たとえばいま空に出ている月にたいする感慨を交換するといったふうに、たがいの身体のあいだによこたわる空間を味わい探り合っているよう表現になっている。「愛してます」なんていわない。目には見えなくても、たがいの身体が「出会っている」ということ、その感触が言葉となって行き交っている。
小津安二郎の映画の一シーン。
「いい天気だなあ」と男。
「ほんと、いいお天気」と女。
こんなの、「声」を共有しあっているだけです。なんの意味もない。
日本語ほど声を共有することを大事にしている言葉もない。声を共有するということは、たがいの身体のあいだに声が行き交う空間がある、ということです。そういう空間の密度をあんばいする機能として、やまとことばが育っていった。
つまり、万葉集古今集の時代の日本人は、狭い島国の中で、まだそんな「言葉の起源」のような情況を生きていたのですね。そこに、やまとことばの特殊性と本質性がある。