閑話休題

先日渋谷で起きたバラバラ殺人事件の容疑者である妻は、もう離婚するだけでは(夫が許せないという)気持ちが治まりそうになかった、と告白しているのだとか。
このことに関して、「それほど執念深い女だったのだ」というような心理学的解釈だけで済ませるのは、あまり好きじゃない。犯人を差別することによって自分たちの正当性を確認しようとする、愚劣な小市民根性が、透けて見えるばかりです。
それほどに彼女は追い詰められていた、というだけのことだろうと思えます。
彼女にとって、仲の悪い夫婦、妻をいたわらない夫、自分を守ってくれない家族、そういうものがこの世に存在し、そこに自分が置かれるということが、どうしても納得できなかった。
「家族」は幸せであるべきだし、「家族」においてしかそれは実現されない・・・[家族]という絶対的な正義。そういう固定観念が頭に沁みついていれば、その外に出て問題の解決などありえないじゃないですか。
彼女は、それほどに親から大事にされて、あるいは甘やかされて育ったのでしょう。
よくあることです。1億総中流の日本じゃ、たいていの子供がこんなふうに育ち、たいていの者が、そうした「家族の正義」を信じている。
程度の差はあるのかもしれないが、家族に対する考え方のコンセプトそのものは、われわれと同じです。
彼女がなぜ、家族(夫婦の単位)なんて取替えがきくものだ、という気持ちになれなかったのか。
それは、自分の両親の関係の安定感もあるのだろうが、なにより夫の態度に、あまりにも[家族=夫婦]を感じさせてくれるものがなかったからでしょう。
「家族」と感じなければ、取り替えようがないですからね。
書き損じをした紙だから、新しい紙と取り替えようという気にもなれるのであって、何も書いてないのなら、取り替える理由がない。とにかく「書き損じた」ということの証が欲しかったのでしょう。
それにはもう、殺すしかなかった。
その気持ちは、なんとなくわからなくもないし、僕だってその立場に立てば同じことをするかもしれないという気もします。
野球選手が、これ以上練習してもうまくなれないと悟ったとき、バットとグローブを捨ててあきらめようとする、そんなようなものでしょう。
あるいは、金閣に火をつけた若い僧侶に通じるような追い詰められた気持ちがあったのかもしれない。
世間じゃあ、人と人はつながっているとか助け合って生きているとかと、うさんくさいことばかり言うが、それは、誰もが追い詰め合い追い詰められて生きている、ということでもあるはずです。
そのとき彼女の前に「家族」という正義が、人を殺してはいけないという正義などどうでもいいと思えるほどの確かさで迫ってきていた。
正義は、人を殺してもいいのです。アメリカが、人を殺してはいけないという正義でイラク人を殺しているように、正義は、人を殺してもいいのです。
正義は、この世界のフィクサーです。
人間という生き物がもともと人を殺さないようにできているにもかかわらずそれでも殺してしまうのは、正義という強迫観念が迫ってくるからだ。
コンビニでうまそうな弁当のほうを選んでしまうことにも、正義という強迫観念は働いている。人間が生き物であるかぎり食い物なんか何でもいいはずなのに、それでもうまそうなものを選ばずにいられないのは、「幸せ」という正義に強迫されているからでしょう。
「幸せ」であろうとなかろうと、われわれの身体は、生きてゆくようにできているのに、それでも幸せであろうとする。そういう「幸せ」という正義に、われわれは強迫されている。
もしもわれわれが生まれたばかりの子供のように純真無垢な心を持っていたら、コンビニでうまそうな弁当を選ぶというようなさもしいことはしない。
言い換えれば、そういう正義に支えられているからそれを選ぶことができるのであって、そんなことが人間の本性でなんかあるはずがない。
われわれは、正義から追い詰められている。
そして彼女は、もっと追い詰められていた。
[家族]というのは、厄介な空間だなあ、とつくづく思います。