ネアンデルタールと言葉

研究者は、そろいもそろって、言葉の起源と発達は「象徴化」の知能による、というが、人がはじめて言葉を発したとき、その「意味」を認識していたわけではないでしょう。
子供は、「おはよう」という言葉を、意味を理解しておぼえるのではない。
意味は、あとから理解する。
おそらく、はじめて「おはよう」といった昔の人だってそうでしょう。
ただ、朝に人と出会ったときに生まれてくるその気分=感慨の表現として、「おはよう」と言っていただけでしょう。そしてそうやって言い交わしているうちに、「おはよう」という言葉の意味を自覚するようになっていった。
昼間に人と出会ったときの気分は、またちょっと違う。だから、「こんにちは」という。
「寒い」という言葉の根源的な姿は、外の空気の冷たさを意味しているのではない。外の冷たい空気と出合っているみずからの身体の状態、いや身体は意識ではないのだから、そういう状態を自覚する意識=気分のことでしょう。その気分=感慨の表現として、「寒い」という。
「さむい」、「さぶい」、「ぶるぶる」、「しんしん」、なんとなく気分じゃないですか。
「あったかい」、「ぽかぽか」、なんとなくそういう気分じゃないですか。
それは、なんとなくのそういう気分の表現として生まれてきたのであって、「意味」をともなって生まれてきたのではない。
外の空気が冷たい、と言っているのではない。身体がそういう状態になったときの、そういう気分が思わず発してしまう声、それが「寒い」という言葉の本質です。
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「今日、マンモスを見たぞ」
洞窟の中のネアンデルタールがみんなして焚き火の火を囲んでいるときに、誰かがそう言った。
「じゃあ明日は、マンモス狩りをしよう」
「狩のメンバーを増やさないといけないな」
「隣の洞窟にも知らせておこう」
そうやって言葉のやりとりが活性化し、発達してゆく。
マンモス、という言葉が生まれたのは、マンモスを見たことの感動が表現されたからであって、マンモスがどんなものかという「意味」を説明するためではない。
そんなことは、すでにみんな知っているのだ。
すでに知っているのだから、その言葉に意味が付与されることは、論理的にありえない。
あくまで、そのときの心のかたち(気分=感慨)が、「マンモス」という言葉として表現される。
それは、痛いときに「うっ」とうめき、感心したときに「ああ」という感嘆詞が加わるのと同じことであり、その延長でしょう。
寒いときに、思わず「さぶ」と言ってしまう。
意味なんか、何もない。
意味は、あとからつけられる。
意味は、言葉が生まれたことの「結果」であって、言葉を生み出す「原因」ではない。
そしてそういう感慨が生まれてくる情況は、どう考えてもネアンデルタールの群れにこそより豊かにヴィヴィッドにあったはずであり、サバンナで家族的小集団の暮らしをしていたホモ・サピエンスではないでしょう。
研究者の言うような、赤色オーカーに幾何学模様を描いた「抽象化」の思考がどうとか、言葉の起源は、そういう意味の戯れなんぞではないのです。
したがって、知能がどうとかという問題でも、さらにない。
あくまで「情況」としての、「社会の構造」の問題であるはずです。