雑感・団塊世代のたわごと

言葉の問題をもう少し続けようと思っていたのですが、何だか空しくなってきました。
現在の古人類学界のように、喉の構造と象徴化の知能だけで考えることがあたりまえになってしまっていたら、僕の言うことなんか、誰もリアリティを持って受け止めてくれないでしょう。
ネアンデルタール人の正体」という本の中で発言していた発達心理学の女学者も、そんなことばかり言っています。もしかしたら喉の構造と知能のことだけで言葉の起源が解き明かせると考えているのは、古人類学だけではなく、そういう問題を考える研究者のほとんどがそんな調子なのかもしれない。
ところで、この女学者、団塊世代なのです。
どうりで、底の浅いステレオタイプなことばかり言うと思った。
団塊世代の女というのは、わりとそういうところがあるのです。
彼女たちは、、男のだめなところが許せなくて、面白がる、という感受性に欠けるところがある。
僕の青春時代なんか、いつも女に馬鹿にされたりののしられたりしていたような記憶しかない。
いや、いまだにののしられ続けている。
元活動家の男が、全共闘運動が終息して普通の市民生活をはじめたとたん女に捨てられる、ということが、僕のまわりではいくらでもあった。
彼女らによれば「あの人も、お祭り騒ぎの外に出てみれば、ただの気の弱いだめ男だった」ということらしい。
はたからみれば、べつにそれでもいいじゃないか、という気もしたのですけどね。
勝手に、男とはこういうものだ、と決めつけられたら、たまったものじゃない。
一度ソープランドに行った、というだけで、捨てられた男もいた。
現代の、女のほうから男を捨てる、というパターンは、団塊世代から本格化してきたようです。
団塊世代の父親というのは、父親であることを懸命に生きた人たちです。そういう父親の姿をみて育ってきた女たちは、自分の夫にもそれを求めてしまう。
家族に執着の薄い男は、許されない時代だった。
そうして、「ニューファミリー」のブームがやってくることになる。
変な現象ですよ、これは。
男というのは、ほんらいあまり家庭に執着しない生きものですからね。もう、女に煽られた、としかいいようのないブームだった。
そりゃあ団塊世代の父親は、戦争体験のさなかで家族に対する飢餓感を募らせてきた人たちだったから、せつないほど家族を愛し大事にもしただろうけど、団塊世代の男たちにはそんな切実な動機はない。それでも、夢中になってそうした家族ゲームに熱中していった。
なんか、せつないですよね。
それにその家族ゲームで、理想的な家族関係がつくられていったかといえば、むしろ裏目に出た例が多い。
ニートとか自殺とか、まあいろいろあって、団塊世代の子供たちのことを、「ロスト・ジェネレイション」呼んだりするらしい。
新婚時代ならともかく、男だってそうそういつまでも家族ゲームに耽溺していられないですからね。
で、いろいろ軋みが出てくる。
しかし、なまじ家族主義でスタートしたから、女は意地になってそのあとも家族をいじくりまわし続ける。
お父さんというクッションが当てにできなくなれば、子供はたまったものじゃない。
団塊世代というと何かと男ばかりがやり玉に挙げられるけど、すくなくとも団塊世代の家族の軋みに関しては、この世代には鈍感でけっこうわけのわからない女が多い、ということも考えられてもいいのではないかと思えます。
いや、ただの与太話ですけどね。