団塊世代のたわごとⅡ

あの酒鬼薔薇事件を起こした少年のお母さんは、おおよそ団塊世代ですが、彼女の手記を読むと、子供にさびしい思いをさせたくなかったとか、けっこういいことが書いてある。
評論家もそこのところは評価し、ただ「社会的な意識の教育が足りなかった」というような結論を下しています。
僕はしかし、こういうしゃらくさい意見は嫌いです。世間的にはまあ、正しいことは正しいのでしょうけどね。なに言ってやがる、としか思えない。
共同体で生きてゆくための手続きとしての社会意識など、家の中ではなく社会に出ておぼえるのであり、みんなそうやって生きている。
へ理屈を言わせてもらえれば、子供に飯を食わせて、はい今日の定食は五百円です、なんてやってなきゃいけないのか、ということになる。
良くも悪くも家族には家族の意識があり、お母さんは、その意識で子供を育てている。お母さんは、その意識さえあればよい。社会のことなど何も知らなくても、いい子供を育てたお母さんはいくらでもいる。むしろそういう社会意識がないことが、そのお母さんの美点として、子供に慕われたりもする。
社会意識の教育が足りないなんて、よけいなお世話です。
家の中であらかじめそういう意識を詰め込まれてしまっていたら、社会に出たときの驚きもときめきもないじゃないですか。で、だったら、らくちんな家の中のほうがいいや、ということになってしまう。
「ニューファミリー」のブームの中で子供を持った団塊世代のお母さんは、家族意識がことに強い。
おそらく問題は、そこにあるのです。
さびしい思いをさせなきゃいい子が育つなんて、ただの幻想です。さびしい思いを知っている子のほうがいい子である場合も多い。
さびしい思いをさせるのなら、そのさびしさとつきあえる方法をもたせてあげなければいけない。というか、その方法をみずから獲得できる能力がその子にあるかどうか、ということが問題になる。そしてそれは、その子の人生の問題であって、親が教育できるかどうかというような問題ではない、と僕は思います。
子供なんて、食い物さえ与えておけば、勝手に何かを学び、勝手に育ってゆく。
社会の都合のいいような人間にしてしまおうとするときにだけ、教育が必要になってくる。
だから、評論家の「社会意識の教育が足りなかった」などという発言を聞かされると、僕なんかはちょっとむかっとくるのですね。
教えなきゃ、子供は自分で覚える。そして自分で学んで得たもののほうが、はるかに深く確かに身につく。それが社会意識であれ、人殺しの方法であれ。
酒鬼薔薇少年のお母さんだって、子供を教育できると思っている、そのことが変だったのではないでしょうか。
親は、人を殺してはいけないと教育したが、子供は勝手に人殺しの方法を学び、そちらのほうがはるかに深く確かに身についてしまった。
親の教育が間違っていたのではない、教育できることなんかたかが知れている、ということが、酒鬼薔薇事件の教訓なのではないでしょうか。
「ニューファミリー」のブームをつくった団塊世代の女たちの、子供をむやみに教育したがる習性、そんなものがあの事件とどこかでつながっているのかもしれない、と思わないでもありません。