真実はどこにあるのか

世の中がいいのか悪いのか、正しいのか間違っているのか、そんなことはよくわからない。
たぶん、世の中(共同体)であるというそのこと自体が、「正しい」ということの別名なのでしょう。
だから、僕のような世の中にうまくフィットできない人間は、間違った存在である、といえる。
ただ、世の中を構成する「大人」という人種なんて、ろくでもない存在ですよ。彼らは、「真実」をねじ曲げるか無視することによって、この世の中を成立させている。
たとえば、大人は正しくて若者は間違っている、という図式。これは、真実をねじ曲げるか無視することの上にしか成り立たない。
若者に向かって「お金は大切なものだ、無駄遣いしちゃいけない」といいながら、人々にお金を無駄遣いして吐き出させることによって、この社会を成り立たせている。
彼らは、若者は間違っているといいながら、「若いね」といわれたがっている。
[若いね]といわれたがっているということは、大人はみんな「若さ」を欲しがり、それにひざまずいている、ということを意味する。
そういう[真実]を隠蔽することによってこの社会が成り立ち、大人たちがいばっている。
たぶん、社長や重役より新入社員のほうがたくさん給料をもらえたほうが、この世の中は活性化するのです。新入社員よりニートのほうが金持ちになったほうが、ダイナミックないい社会になる。芝生のある大きな家に住むことより、安アパートで暮らしながら遊びたおしてくれたほうが、世の中の動きが停滞しないことの役に立つ。
そういう[真実]を、ねじ曲げ無視することによって、この社会を成り立たせている。
「真実」なんかどうでもいい、「正義(正しい)」であればいい、これが世の中です。
社長の給料が多いのは、正義であり、正しいことです。
ネアンデルタールは滅んだ、と主張することは、この世の中の正義です。
しかしおそらく、真実ではない。
研究者なんか、短絡的なことしか考えられない脳みその持ち主ではあるが、しかし彼らの立場は正義であり、その正義にしがみついて「ネアンデルタールは滅んだ」と主張している。
研究者なんて、ろくなもんじゃない。
古人類学を学ぶ学生たちは、もっと教授に噛みついていい。
上も下も、外国のアホな研究者の論文を原書で読めば、それだけでもうかしこくなったつもりでいる。
それに噛みつくことができて、初めて自分でものを考えている、といえる。
間違っていたっていい。とにかく「真実」を問おうとすること、そこからしか何も始まらない。
教授を尊敬して、尊敬する自分の心の清らかさに満足する。
そんなの、変です。
尊敬するということは、追い詰められる、ということです。
あなたは、そこまで尊敬しているのか。
だからむこうだって、[正義]の上にあぐらをかいて、「真実」を問う態度の切実さを忘れてしまう。