言葉の起源Ⅱ

言葉は、直立二足歩行をはじめたときのみんながいっせいに立ち上がるという、人間の強い「模倣行動」の習性とともに発達してきた。
あるところで生まれた言葉が、一気に群れ全体に広まってしまう。そういうダイナミズムが、言葉を発達させる。
「知能」の問題なんかではない。
小説家であろうと詐欺師であろうと、知能が低くても、言葉に敏感で言葉を豊富に持っている人間はいくらでもいる。
というか、僕は、知能で人間や人間の歴史を語ろうとする研究者の低劣な思考態度が許せない。
原始的な言葉は、おそらく直立二足歩行をはじめた原初の森で生まれた。
600万年か700万年前のことです。
いや、もしかしたら直立二足歩行をはじめる前のことで、その原始的な言葉も直立二足歩行を促したひとつになっているのかもしれない、とさえ思っています。
拡大解釈すれば、言葉なんか、カラスだって持っていますからね。
もちろんチンパンジーの群れにも、いろんな鳴き方うなり方の表現がある。
だったら、直立二足歩行前夜の人類は、他のチンパンジーよりもさらに人間的な鳴き方うなり方になっていたかもしれない。
直立二足歩行を始めた人類が、チンパンジーそのものだったか別の猿だったかは意見が分かれるところですが、いずれにせよチンパンジーと同じレベルの猿だったのでしょう。
ただ、直立二足歩行を始めたその群れでは、ほかの猿よりも「模倣行動」が強くなっていた。
模倣行動が強くなるのは、群れが密集しているからでしょう。チンパンジーの場合は、そこで群れの密集状態を整理して、余分な個体を追い出してしまう。チンパンジーでなくとも、どの猿でもやっていることでしょう。
しかしたぶん、直立二足歩行を始めようとしているその群れでは、追い出すにも追い出せない情況に置かれていた。
たとえば、小さな孤立した森の孤立した群れで、出て行くところなどどこにもなかったから、誰もが居座ろうとがんばったし、追い出そうとする衝動も生まれてこなくなっていった。しかし、食料は潤沢にあって、群れの個体が減ることはない。いや、なくても、何でも食って生き延びようとするのが人間ですからね。そういう習性も、すでにそのときに培っていたのかもしれない。
そういうわけで、ひとりひとりが勝手なことをしていられる余分なスペースがどんどんなくなっていった。またリーダーの指示が、かんたんには全体に伝わらない。あるいはそれ以上に、誰もが追い出されまいとして、群れの動きに同調しようとしていったのかもしれない。追い出されまいと思わなくても、密集してくれば、とうぜんそうなる。同調しようとしなければ群れが機能しないし、同調できなければ振り落とされてしまう。
つまりそういう群れの動きに同調しようとする衝動が、模倣行動を強くしてゆき、共有する泣き声や唸り声が他の猿よりも豊富になっていった。そしてあれやこれやのそういう模倣行動のトレーニングの蓄積があって、あるとき先頭のひとりが立ち上がったら、みんながいっせいに立ち上がっていったのかもしれない。
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直立二足歩行の本質は、他者とおたがいの身体の間の空間を「共有」している、ということにあります。そのために二本の足で立ち上がった。体をぶつけ合いたくなかった。
そして言葉もまた、他者と「共有」されたときに、言葉になる。
おそらく、「共有」する鳴き声や唸り声を他の猿よりもたくさん持っていったことのほうが、直立二足歩行より先にトレーニングされていたのであろう、と僕は考えています。
直立二足歩行は、言葉を話すよりもずっと大変で画期的なことだったはずです。何かを手に持つためにはじめたとか、そんな単純なことではない。そんなトレーニングなら、チンパンジーだって、きっともう1000万年くらいしてきている。
密集すれば、おしゃべりになる。つまり、おしゃべりな猿が、二本の足で立ち上がった、ということでしょうか。
密集した群れの中に置かれてあることの嘆き=鬱陶しさ、それは、何かを「共有」していることを確認することによって、ひとつのカタルシスとして解消される。これが「言葉を発する」という行為の本質であろうと思えます。
とにかく研究者による言葉の起源論が愚劣なのは、彼らは「話し言葉」と「書き言葉」を混同している、ということにもあります。「話し言葉」は、彼らのいうような「抽象的」なものではないのです。猿にもできることなのです。ただ人間は、密集した群れ=社会の中にあることの「嘆き」を持っている。その「嘆き」を、カタルシスというかたちで解消してゆく機能として、言葉が高度なものになってきた。
どんな高度な話し言葉であれ、そうした「嘆き」の表現としての泣き声や唸り声の延長なのです。
そして話し言葉は、どんな他愛ない表現であっても、不可避的にその人の表情や音声の抑揚とともに、全人格をあげて発せられているのです。それを、「抽象化の知能」がどうたらこうたらと言われると、やりきれないやら、腹立たしいやら・・・知能の問題などであるものか。