言葉の起源

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人類の歴史を考える上で、言葉の問題は、大事です。
僕も、ネアンデルタールに興味を持たなければ、このことにこだわることはなかったと思う。
ネアンデルタールが極寒の北ヨーロッパで生きてゆくことのできる生態を確立し、やがてクロマニヨンとして文化を花開かせていったことは、たぶん言葉の発達とともにあることだろうと思えます。
研究者が説明するような、寒さに耐えられる体質を獲得したからだ、というような単純な問題ではない。
ネアンデルタールだって、あくまで寒さが身にしみる人間の体をしていたのであり、でなければ「埋葬」を始めることもなかった。ネアンデルタールは、白熊やゾウアザラシではないのです。
そう考えると、ネアンデルタールの検索サイトで「ネアンデルタールは滅んだ」と吹きまくっている連中には、殺意すらおぼえます。ネアンデルタールを白熊かゾウアザラシのように考えてわかったような顔をしている、あの薄っぺらな頭というのは、どうにかならないのですかねえ。
ネアンデルタールは寒さが平気だったのではなく、寒さにこらえて生きてゆくことのできる生態(文化)をつくっていったのです。
たとえば、洞窟の中でみんなが焚き火の火を囲んで集まっているたのしみというのは、言葉があってこそであり、言葉によって座が盛り上がり、親しみや結束力が生まれてくる。
チンパンジーの集団では、こうはいかない。だからチンパンジーは、ネアンデルタールほど大きな群れをつくることも、極寒の北ヨーロッパで生き延びることもできない。
ネアンデルタールが、人類の歴史において画期的な100人から150人の群れを持っていたということには、おそらく言葉の機能が大きく寄与していたはずです。
研究者は、言葉は、赤色オーカーの幾何学模様をつくる「象徴化」の思考によって生み出された、という。冗談じゃない、言葉の起源は、そんな粗雑で子供じみた論理で解き明かせる問題じゃない。
2・・・・・・・・・・・
言葉の問題は、人類が直立二足歩行をはじめたときからすでに始まっているのだろう、と思えます。
直立二足歩行は、群れのみんながいっせいに立ち上がることによってはじまった。
なぜなら、その姿勢は、生きてゆくのにとても不利であり、もしひとりずつ立ち上がったら、立ち上がったものから順に滅びてゆかなければならないからです。
まず外敵から逃げるとき、ひとりだけ逃げ遅れてしまう。直立二足歩行が、サバンナではなく、森での暮らしから始まったことは、いまや定説です。森を駆け回るなら、四本足のほうが有利に決まっている。われわれは、森の中で逃げる猿に追いついて捕まえることができるでしょうか。誰もできやしない。
そうしてオスの場合、そんな不安定な姿勢をとっていたら、まちがいなく順位争いから脱落してゆかねばならない。四本足のほうが転びにくいし、すぐ立てる。棒なんかもっていたって、レスリングのように足を狙われたら、おしまいです。しかも、胸や腹や性器などの急所を相手にさらしているのですからね、これほど無防備な姿勢もないのです。
無防備だから、とても気持悪い。
それでも、人類は立ち上がったのであり、みんなでいっせいに立ち上がらなければ実現するはずがないのです。
自分だけ立ち上がるなんて、誰もしたがらないし、できるはずのない姿勢なのです。
つまり直立二足歩行の姿勢を常態にするということは、それほどに変則的なことであり、それほどに奇跡的な偶然から生まれたということです。おそらく地球の歴史で一回あるかないかというくらいの偶然だったのだろう、と思えます
そしてそれは、そういう特別な「情況」に置かれたからであって、特別な猿だったからではない、ということです。
特別な猿だった、という言い方は、ただの思考停止です。そういう偏狭な人間観は、キリスト教原理主義の方々におまかせします。「直立二足歩行」の検索サイトでも、九州箱崎のなんとかという牧師さんが、陳腐でへんてこなことを語ってらっしゃいますよね。
では、その「情況」とは何か、ということは、話が長くなってしまうから、ここでは書きません。
3・・・・・・・・・・
とにかく「みんなでいっせいに立ち上がる」ということ。その精神は、「みんながいっせいにしゃべり始める」という精神でもあるはずです。
言葉は、社会(共同体)から生まれてくる。このことを、研究者の方々も、よく考えていただきたい。国によって違うのはもちろん、地域によっても違う。アフリカなどでは、ひとつの国の数百の部族すべてが違う言葉を持っている、という例もある。
誰かひとりが立ち上がり、たちまち全員が立ち上がる・・・人間は、そういう「模倣行動」がとても強い生き物であり、そういう人間性はおそらく直立二足歩行をはじめた時点ですでに獲得されていたに違いなく、そういう「模倣行動」の観念とともに言葉がつくられてゆく。
模倣行動の習性が強いから言葉がつくられてゆくのであって、研究者のいうような「言葉を生み出す知能」などというものがあるのではない。その言葉をはじめて発語したものは、そういう言葉をイメージしたのではない、舌がもつれるか、気がせいていたのか、勘違いしたか、ようするに何かのはずみでそうしただけです。でもみんなにうければ、それがその社会の言葉になってゆく。
面白いとか、かっこいいとか、なるほどと思えば、すぐ真似してしてしまう。そういう人間の習性とともに言葉が生まれてくるのです。
そして言葉が生まれてくるそういう「情況」は、アフリカのホモ・サピエンスよりも、焚き火を囲んでみんなで語り合っていたネアンデルタールのほうが、はるかに豊かに、はるかにヴィヴィッドに持っていたのです。
クロマニヨンはたくさんの言葉を発語できる喉の構造を持っているというなら、そこにいたる歴史は、ネアンデルタールにしかない、言葉を必要としない家族的小集団で暮らしていたアフリカのホモ・サピエンスは、ヨーロッパがクロマニヨン化する4万年前の時点で、すでに、やがて国家や都市がつくられて言葉がますます有用になってゆく世界の歴史から置き去りにされていたはずです。