古人類学の世界の共同幻想

パズルゲームをしているようなスタンスで原始人の行動を説明しているだけでは何もわからない。人間とは何か、という問いなどまったくない。人間のことがわかっているつもりでいる。その軽薄な思考態度が気に入らない。
人間とは何か、ということなど、誰にもわからないのです。だから哲学だって、プラトンソクラテスのところで終わらないで、いまだにみんなが考え続けている。
古人類学に関わって、ああ人間というのはこんな生きものだったのか、と気づかされる体験が、彼らには何もない。人間のことなどちゃんと心得ているつもりでいる。その傲慢でのうてんきな思考が、アフリカのホモ・サピエンスがヨーロッパに乗り込んでいってネアンデルタールを滅ぼしてしまった、と言って平然としている。
石器のレベルが人間の知能や群れの生産力を決定しているのだとか。
くだらない。
このことは、これまでに何度も書いてきたことだからここでは何も書きませんが、ほんとうに石器で人間の知能や群れの生産力がはかれると思っているのなら、かかってらっしゃいよ。いくらでも反論して差し上げます。
ろくにものを考えていないから、そういうことを短絡的に信じてしまうことができるのだ。
「人類がたどってきた道」(NHKブックス)という本があります。典型的な「人間とは何か」という問いを喪失した著述で、読んでいて吐き気がしそうでした。
たとえば著者は、例によって「未来を見通す計画力」とかいううんざりするほどステレオタイプな概念を、ホモ・サピエンスの優れた知能としてあげています。
べつに知能指数が高くなくても詐欺師になれるように、そんなものは、高度な脳のはたらきでもなんでもないのです。
それは、知能というよりも、いわば「共同幻想」なのです。そういうことを考えたがる社会の構造になっていれば、知能が低い者でもそうやって考えるのです。
ネアンデルタールは、アフリカのホモ・サピエンスより未来を見通す能力がなかったのではない。
ただ、ネアンデルタールは、明日のことに煩わされる暮らしを拒否していただけです。なぜなら、誰もがいつまで生きていられるかどうかわからない状況であったし、人間はいつまでも生きられるものではないというこの生の真実を、現代人よりもはるかに深く認識していたからです。
ネアンデルタールのそういういわば「無常感」は、現代の研究者のステレオタイプな人間認識などより、はるかに深く高度な観念のはたらきであったはずです。
そしてホモ・サピエンスの遺伝子を取り入れたクロマニヨンの段階になって寿命が延びたりして、未来と関わりたがる観念の傾向がめばえてきた
まあいい、こんなことにちまちま反論していてもしょうがない。ようするに「未来にたいする計画力」などというステレオタイプで垢じみた言葉を悦に入ってもてあそんでいられる、その幼稚で下品な思考に吐き気がする、といいたいのです。
そしてこの本の最後で、こんなことを言っています。
「私達が追求する意味のある課題は、氷期のヨーロッパにおいて人々が芸術活動(注・壁画のことなど)に駆り立てられた背景は何であったかであり、旧石器時代人の芸術的才能に地域間差があったかどうかではない。」
つまり、クロマニヨンがホモ・サピエンスであることは確かなのだから、そのときヨーロッパとアフリカに「地域間差」があったことなど何の意味もない、といいたいのです。
しかし自分たちはそれを「知能」の問題としてしか語れないわけで、それだったら「地域間差」が生まれるはずはないでしょう。
ネアンデルタールやクロマニヨンが、氷河期の寒さの中でどんなふうに暮らしどんな世界観を抱いていたかということに関してなら、はっきり言って彼らは、僕の100分の1も考えていないですよ。
「知能」がどうとか「象徴化」がどうとかと、そんな言葉をおもちゃみたいにいじくっているだけじゃないですか。
それはたぶん、赤澤先生も同じ穴のムジナです。彼の言う「私達」とは、赤澤先生がリーダーであるらしいのだから。

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