ネアンデルタールの「心」とは

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現在のネアンデルタール研究の権威である赤澤威先生は、脳を研究すれば、ネアンデルタールの「心」がわかる、とおっしゃる。
じゃあその「心」とはどんなものかといえば、けっきょく「知能」がどうとかというだけなのです。「博物的知能」だとか「技術的知能」だとか、そんなことばっかり。
知能で人間の歴史や「心」を語ろうなんて、偏差値が高いことしか能がなくて、思考力も想像力もないから成り立つことです。まったく、庶民を馬鹿にしている。人間の知能が歴史をつくっているということはつまり、「俺たちが歴史をつくり、世の中を動かしているのだ」と思っているのでしょうかね。
たとえば、ネアンデルタールは、魚を食べることや動物の骨で銛を作ることなどを知らなかった。だから、「博物的知能」が劣っていたのだ、といいます。
しかしネアンデルタールは、マンモスやバイソンなどの大型草食獣と格闘するのが大好きだったのです。それらの動物を待ち伏せして、チームワークで窪地に追い込み、最後は肉弾戦で決着をつける。そのためには、それらの動物の生態や気候や地理に対する「博物的知能」は絶対必要です。
アフリカにも、乾季と雨季はあります。しかし極寒の地で暮らす人々の、春や夏の暖かい日差しを待ち望む気持や、それをよろこぶ気持ほどの気候にたいする切実な思いは、アフリカにはないでしょう。気候や自然に対する「博物的知能」はそういう思いが育てるのであって、アフリカのホモ・サピエンスのほうがネアンデルタールよりもその知能において優れたものになる契機が、いったいどこにどれほどあったでしょう。
したがって南のホモ・サピエンスのほうが進んだ石器をもっていたということは、石器を作り出す能力はあまり「知能」とは関係ない、ということを意味するだけです。
ネアンデルタールは、魚なんか見向きもしなかった。ちまちま魚をとっているような暮らしをしていたら、北では生きてゆけない。寒いんだもの、体を動かす狩をしないではいられなかったし、そういう狩に骨で作った銛も薄片のもろい石器も必要なかった。狩の獲物に突き刺してかんたんに欠けてしまうような石器を使っていたら、自分の命に関わる。向こうだって、死に物狂いなのです。
とはいえ、そんな荒っぽい人種を、どうして南のホモ・サピエンスが追い払うことができるでしょう。戦えば、腕力においてもチームワークにおいてもファイティングスピリットにおいても、ネアンデルタールのほうが強いにきまっているのです。
すなわち、ホモ・サピエンスの遺伝子が北ヨーロッパに拡散していったことは、かならずしも南のホモ・サピエンスが直接ヨーロッパに遠征していったことを意味するのではない、ということです。
ネアンデルタールは、極寒の気候という世界との関係においても、寿命が短く乳幼児の死亡率も高いという条件によってもたらされる死に対する感受性というみずからの身体との関係においても、ホモ・サピエンスよりもはるかに深い「嘆き=ストレス」をかかえて生きていたはずです。「心」というなら、そういうことを問うべきでしょう。そしてそういう「心」の働きが、ネアンデルタールの脳を発達させたのでしょう。
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知能なんて、小学生でも、訓練しだいで、大人よりずっと高くなる。
しかし脳そのものは、大人のほうが発達しているでしょう。知能なんて、脳が発達しなくても持つことができるのです。
逆に、人づき合いの能力も思考力もしっかりした大人なのに、学校に行ったことがないために読み書きも計算もうまくできない、という人もいます。
脳を発達させるのは、けっして「知能」ではない。「心」によって発達するのだし、「心」と「知能」は違うのです。「知能」についてわかったようなことを言っても、「心」がわかっているとは言えない。
人間だって、生きものです。脳を含めたわれわれの身体は、生きてあるために必要な機能を身につけてゆくだけであって、もっといい暮らしをするためではない。
では、生きてあるために必要な脳の機能とは、どんなものか。
息苦しいとか空腹だとか、そんな身体の状態を知ること。そして暑いとか寒いというように、身体との関係として世界を知ること。まあ、そんなところでしょう。
息苦しいとか空腹だということは、身体の正常な状態に異変が起きていることです。意識は、そういう異変に対する「拒否反応」として発生する。
暑い寒いも、同じです。そういう世界の異変に対する「拒否反応」が、意識として浮かび上がってくる。
両方とも、いわば「ストレス」です。生きものは、世界や身体の異変を「ストレス」として察知しなければ生きてゆけない。すなわち「心」とは、「ストレス」のことです。
息苦しいという「ストレス」と感じなければ、息をしようとしない。それでは生きてゆけない。疲れるからこそ、死ぬまで走り続けるなんて馬鹿なことをしないで済んでいる。それが、生きるいとなみです。
空の青さがことのほか目にしみるとすれば、その青さは「世界の異変」であると同時に、身体が世界にうまくフィットしていないことから起きる感慨です。何も感じないのが、生きものにとっての常態です。息苦しさや空腹を感じないで済む状態が、いちばんスムースに生きていられる状態なのだから、空の青さを感じてしまうということは、そこに身体の「ストレス」が発生しているということです。脳が発達すれば「ストレス」が多くなるし、「ストレス」が脳を発達させる。
つまり、生きるいとなみとして、身体との関係で脳が発達するのです。身体とは無縁の「知能」が脳を発達させることは、論理的にありえない。脳は、身体をこの世界に存在させるためのはたらきであり、その必要の分だけ発達する。
極寒の地で身体に多大のストレスを受けていたネアンデルタールにとって、空の青さがどれほど目にも心にもしみることであったか。現代のヨーロッパ人が裸で日光浴をするのが大好きなのも、そういうネアンデルタールの伝統が彼らの中にあるからでしょう。

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