ネアンデルタール私観

この世の中に、家族こそいちばん大切なものだと思っている人と、家族なんて鬱陶しいだけだと思っている人との割合は、いったいどれくらいなのでしょうかね。
しかしまあ、この社会は、家族こそ正義だ、人間性の本質が育つところだ、というスローガンの天下です。それに逆らったことを言っても、軽蔑されるか、けむたがられるだけでしょう。
ただ、素直に考えれば、家族の中で人間性がゆがんでしまう部分は、やっぱりあるのです。そういうときに、家族を持たないネアンデルタールがどう生きていたかということから学ぶことは、けっして少なくないはずです。
赤澤威先生も、家族愛こそ人間の高度な知能であり、人間性の本質だ、というようなことをおっしゃっていたけど、僕は、そんなことをいう人間の知性も品性も疑う。そういうせりふは、本気で家族というものと関わったことのない人間の言うことだ。この世の中には、家族という空間の鬱陶しさに追いつめられている若者がたくさんいるということに、何の想像力も持てない安っぽい知能が考えることだ。
家族は、大人にとって絶対であっても、そこから出て行こうとしている若者にとっても同じとはかぎらない。若者は、いったん「家族」を否定しなければならない宿命を背負って存在しているのですよ。そうでなければ、家族の外へ出てゆけないじゃないですか。
何が「家族愛」か。
人間が大きな群れを形成してゆくためには、家族というクッションがどうしても必要です。それがなければ、群れ(=共同体)は混乱してしまうでしょう。しかしそれはあくまで共同体の維持の問題であって、人間性の本質とはなんの関係もない。
男と女が出会うこと。出会ってときめくこと。むやみに死を怖がらないで、その日その日をときめいて生きてゆくこと。われわれ現代人のそういう願いを、ネアンデルタールは、しっかりと実現して生きていたのです。
何が「知能」か。
知能が発達することなんか、人間の高度な頭のはたらきでもなんでもないし、そんなものが人間の歴史をつくってきたのでもない。
人間だったら、どうやって生きてゆこうかとか、自分とはなんだろう、どうやって自分を表現してゆこうかとか、そんなことだって考えるでしょう。われわれはそんなことを考えながら生きているのであって、知能を発達させるためでもない。そしてそういう人生とか自己表現の問題にこそ頭を悩ませ、そこでこそもっとも高度な脳の働きが引き出されるのでしょう。
知能が発達して新しい石器を作り出したとか身体装飾を始めたとか、そんなことは知能が発達しなくても、そういう社会の構造があれば生まれてくるのです。アフリカのホモ・サピエンスの社会はそういう文化とやらが生まれてくる構造になっていたが、彼らが、ネアンデルタールを凌駕するほど知能が発達していたわけではない。
ネアンデルタールは、われわれ現代人が目指す「未来」の理想を、すでに実現していたのです。どうすれば「出会いのときめき」が豊かに体験できる社会が実現するのだろうか、とか、どうすれば「死」が怖くなくなるだろうか、とか、どうすれば一人一人が思う存分自分を表現し実現できる世界になるのだろうか、とか、そんな問題をネアンデルタールはぜんぶ解決していたのです。そういう高度な脳の働きをもっていたのです。
なにが「オーリニャック文化」か。あなたたちは、そんなレベルでしか文化を考えられないのか。

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