ネアンデルタールの知能

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研究者たちがホモ・サピエンスの優れた知能について語るときの常套句は、「未来を見通す計画力」とか「新しいもの(石器やビーズのアクセサリー)を作り出す発明力」とか、まあそんなようなところです。
とりあえず、「未来を見通す計画力」なる概念について考えてみます。「発明力」といっても、つまりは「未来を見通す」観念行為のひとつであるわけで。
レインマン」という映画がありました。
ダスティン・ホフマントム・クルーズ自閉症でまったく社会的能力のない兄と一般健常者の弟との物語。
ダスティン・ホフマン扮する自閉症の兄は、自閉症ゆえに天才的な記憶力と計算能力を持っている。そこで二人はラスベガスの賭博場に乗り込み、さいころやカードの次の数を予測できる兄の天才を利用して大儲けする。
これは、「未来を見通す計画力」です。
では、兄は「知能」が高いのか。高いともいえるし、そうではないともいえる。また、誰の中にもそうした潜在能力はあるのだ、という証かもしれない。
つまり、誰だってアインシュタインになれる。アインシュタインアインシュタインになれたのは、すくなくともそういうひといちばい上等な脳を持っていたからではなく、そういう能力が生まれてくるような状況あるいは人生を生きたから、というだけのことかもしれない。
状況あるいは人生、すなわち「社会の構造」です。現代社会は、アインシュタインにそういう状況あるいは人生を歩ませるような構造を持っていた。
夏目漱石の脳が、特別上等なのではない。現代人の平均より少ない脳容量しか持っていないのにノーベル賞をもらった人は、いくらでもいる。
夏目漱石が生まれてくるような社会(の構造)があったのです。彼が別の家に生まれて別の人生を歩んだら、あんな聡明な人にはならなかったでしょう。彼が聡明なのは、彼の人生とそういう人生を歩ませた社会に構造の問題であって、彼の脳の問題でほとんどない。同じ時代に彼と同じような脳を持って生まれた人は、きっといくらでもいるはずです。しかし夏目漱石しか、夏目漱石にはなれなかった。
脳は、車のエンジンのようなものです。エンジンが働かなければ車は動かない、しかしエンジンが右に行ったり左に行ったりしているのではない。それをしているのは、エンジンではなく、車という「構造」です。エンジンは、そういう「構造」の中に置かれているにすぎない。
脳も同じです。われわれの脳は、それぞれの人生や社会という、ある「構造」の中に置かれて働いている。
2・・・・・・・・・・・・・・
三万年前のクロマニヨン以降におけるヨーロッパの歴史が飛躍的な発展を遂げ、同じ時代のアフリカが「暗黒大陸」と呼ばれねばならない停滞に沈んでいったのも、知能の差ではなく、そういう歴史を歩むべき「社会の構造」の違いがあった、というだけのことでしょう。
ジャングル奥地の未開人と文明人のあいだに知能の差はないんだ、ということは、実際にそこでフィールドワークを繰り返したレヴィ=ストロースが、口をすっぱくしていっていることです。違うのは社会の構造だけだ、と。どちらの社会が高度かではなく、「違う」のだ。彼らは彼らなりに、驚くほど高度で複雑な制度や社会意識を持っていることも多い、と。
知能という言葉など、あいまいなものです。知能なんて、自閉症の患者でも小学一年生でも、トレーニングすれば、一般成人のレベルをはるかに超えてしまう。
たとえば、未開のジャングルで生まれたばかりの赤ん坊を東大の先生が引き取って日本で育てれば、その子はきっと優等生になる。ネアンデルタールの子供を連れてきても、きっと同じでしょう。
知能は、脳が発達したことの「結果」であって、「原因」ではない。発達した脳さえ持っていれば、ネアンデルタールの子供だろうと、ジャングルの未開人だろうと、トレーニングしだいで東大に入れるのです。
では、何によって脳は発達するのか。
おそらく、ストレスです。
ストレスを処理するためにのみ、発達した脳が必要なのであって、知能を伸ばすためなんて、幼稚園生の脳でも間に合う。ホモ・サピエンスの石器を作る知能だって、まあそんなようなものでしょう。
人間の脳が発達したのは、生態が変化して、どんどんストレスをかかえこんでいったからでしょう。
3・・・・・・・・・・・・・・
アフリカの森で暮らしていた生き物が、サバンナに出てきて、さらには極寒の北ヨーロッパで暮らすようになった・・・そのつど新しい環境に対応してゆくためにどれだけストレスを抱え込まねばならなかったか。
サバンナにはサバンナのストレスがあったでしょう、しかし、極寒の地でたくさんの死者を出しながら寒さに震えて生きてゆくためには、どれだけのストレスを処理しなければならなかったか。ネアンデルタールの脳容量の多さはそのためのものでしょう。
そういう発達したストレスを処理する能力が、その後のヨーロッパの歴史がアフリカとのあいだに大きな格差をつくってゆく原動力になった。
ちなみに、クロマニヨンの壁画について、研究者は、象徴化の知能がどうとかといっているのだけれど、子供の絵を書く才能は、たとえばみんなとうまく遊べないとか、そういうある種のストレスから生まれてくるのであって、知能なんか関係ないですよ。ピカソゴッホも、そこからうまくなっていったのです。
すなわち、北の暮らしには、そういう絵が生まれてくるようなストレス(嘆き)があった。
嘆きがあるから、空の青さが目にしみ、花の色を愛でる。その表現として、絵の才能が育ってゆくのです。
そして、ホモ・サピエンスよりネアンデルタールのほうが、はるかに空の青さが目にしみるストレスを身体にかかえて暮らしていたのであり、そういう伝統の上にクロマニヨンの壁画が生まれてきた。
であれば、そういう伝統を持たないホモ・サピエンスが、いきなりヨーロッパに行って壁画を描きはじめるということなど、ありえないのです。赤色オーカーに幾何学模様を彫っていたから絵も描いただろうというような、そんな単純な問題じゃない。そういう幼稚な理屈は、絵を描くことがどういう行為かということを知らない連中の頭のなかでしか成り立たない。だったら、そのころアフリカでも同じように壁画を描いていたはずです。しかし、アフリカでそれらのモニュメントがあらわれてくるのは、ずっとずっとあとのことです。
クロマニヨンとは、ホモ・サピエンスの遺伝子が混じってしまったネアンデルタールのことです。だから、寒さにたいする耐久力が落ちたし、乳幼児の死亡率も格段に上がってしまった。そういう「嘆き=ストレス」が、壁画を描く感性を生んだのでしょう。
そしてそれはまた、そのときアフリカのホモ・サピエンスがヨーロッパに進出していって、直接ネアンデルタールと交配したのではないことを意味します。北アフリカから北ヨーロッパまで、すべての地域で近在の群れどうしの遺伝子の交換がなされていれば、ある条件が整うことによって南の遺伝子がリレー式に北にまで拡散してしまうことはあり得ることです。
その「ある条件」を問うことが、これからの古人類学の課題であろう、と僕は考えています。
とにかく、ネアンデルタールの伝統と文化を継承していなければクロマニヨンにはなれないし、現代のヨーロッパ人にもなれなかったはずです。

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