団塊世代は権力をめざした

七十年代初頭に流行した、西田佐知子の「アカシヤの雨がやむ時」という、ちょっとけだるく「このまま死んでしまいたい」と歌う歌は、全共闘運動に明け暮れてきた者たちの挫折感を象徴している、といわれました。
ビートルズも解散してしまったし、確かにそんな気分は漂っていたのかもしれない。
僕のまわりでも、同棲していた女から、あるいは結婚してもすぐ女から捨てられるという元活動家の男たちが、けっこういました。当事者の女たちからすると、お祭り騒ぎの外に出てみれば、あの人もただの臆病で無気力なだけの男でしかなかった、ということらしい。
女が男を捨てるというスタイルが一般化していったのも、このころからだった。
元気になったのは、同世代でも全共闘運動とは無縁だった者たちです。だいたい運動に参加していったのは、この世代全体の一割弱だっただけですからね。運動が盛り上がっているときは肩身の狭い思いをしていた者たちが、がぜん息を吹き返してきた。彼らは、「前科」のある連中と違っていい就職にもありつけたし、たぶんこのグループが中心になって「ニューファミリー」ブームを盛り上げていったのでしょう。
とはいえ、若者全体に、ある種の喪失感は漂ってはいたのかもしれない。何しろ、大人たちに負けてしまったのですからね。
では、彼らが失ったものとは、何か。
権力、というか社会を動かす主導権。そういうものを奪いにいって、はね返された。
彼らにとって大人になるとは、権力を持つことだった。
俺は、そうじゃなかった・・・彼らのほとんどは、きっとそういうでしょう。そりゃそういうだろうが、そのあと「ニューファミリー」という家族をつくりたがったということは、つまるところ権力を欲しがった、ということです。
彼女とやりまくりたい一心でそれをつくっていったわけではない。
だいたい女が男を捨てる風潮が生まれてきたということだって、女が「権力」に目覚めたからだ、と解釈することもできる。
個人的な感想なのですが、僕は、男よりも女のほうが権力志向の傾向がつよい、というか自分が行使している権力に無自覚でありがちなものだ、と思っている。
愛されたいと願うこと、それじたい権力を志向している観念かもしれない。
愛されたい、となんか願ってはいけない。たとえ夫婦であろうと、恋人どうしであろうと、親子であろうと、そんなことは相手の勝手なのです。愛されたい、なんて、相手の気持を支配しようとする権力欲です。
まわりの男のだれかれかまわずいい顔して気を引こうとしたがる女がいますよね。男にちやほやされたがる、というか。まさにこれは権力欲だと思えます。
気がついたら愛されていた、という立場になればいいだけのこと。
「権力とは、影響力のことである」、と言った人がいます。魅力的な人間は、それだけで権力をもってしまうのです。けっして権力を欲しがらない。欲しがる必要がない。
自分のことを棚にあげて言えば、ですけどね。
人の親になるとは、権力をもつということです。親は、存在それじたいが権力です。どんなに友達みたいな顔をして見せても、子供にとっては権力そのものとしてたちはだかっている存在なのです。小さい子であればあるほど、親を愛さないと生きてゆけないのです。
子供の、親を愛するほかないことの悲劇・・・そういうことを、団塊世代の親たちは、ほとんど自覚していない。
上手に育てた、と自信満々の人は、掃いて捨てるほどいるけど。
彼らは、家族の再生をけんめいに念じて戦争から帰ってきた親たちに大事に育てられながら、その「親という権力」にみずからも目覚めていった。
親が権力であることのありがたさと鬱陶しさを両方感じながら育ち、鬱陶しさを晴らすことは、全共闘運動のお祭り騒ぎや、ビートルズ・ブームをはじめとする時代の熱狂や昂揚感として、すでに誰もが体験していましたからね。鬱陶しさは、それでチャラになった。というか、そんなものは、自分が親になれば自然に消える。
とにかく彼らは、家族という空間や親という存在を、けっして否定することなく、積極的に止揚していった。そういう時代だったといえばそうなのだけれど、それによってその後の家族が、子供にとってどんなにやっかいなものになっていったことか。いや子供だけでなく、核家族化した家族が確かで幸せな空間になってゆくことによって、社会全体の無意識の部分がどんどんゆがんでいった。
ひとまず意識の表面では、誰もが幸せになろうと思えばそうなれる社会になったといえるのかもしれないが、誰もが無意識の部分で家族から傷を負っている。だから、ニートや自殺や認知症鬱病が増える。
現代社会に、傷を負っていない美しい無意識を持った人間なんかひとりもいない・・・いちおうそう思っておいたほうがいいのではないでしょうか。
現代は、誰もが、「家族」という権力構造から傷を負いながら生きている。
団塊世代が先頭になって盛り上げた「ニューファミリー」ブームのころから、この国では、ことに家族の権力構造が強化されていった。家族が仲良く愛し合うこと、それじたいが権力構造の上に成り立っているのであり、仲良く愛し合いながら権力に目覚めてゆくのです。
人と人の関係は、愛し合いながらおかしくなっていったほうが、傷は深い。まあ、そんなようなことです。