バラバラ殺人事件についての感想

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こんな小うるさいことばかり書いていても、誰と共感し合えるとも思えないのだけれど、幕を下ろすきっかけがうまくつかめない。 だから、また性懲りもなく書いてしまいます。
バラバラ殺人事件が二つも重なり、ワイドショーは、なんだか大はしゃぎですね。しかし、それを「残忍非道」という前提で社会正義を語るのも、マニアックに「最高のエクスタシー」とカッコつけて言うのも、なんかぴんとこない。
それがどうして「エクスタシー」になってしまうのか、という問題はあるが、それが人間の本質である、と済ませられるとも思えない。そりゃあ、ある種の人にとっては、気持いいことでしょう。社会正義を踏みにじる行為なんだもの、社会に恨みがあるぶんだけ気持いいにちがいない。しかし恨みがあるということは、それだけ意識が社会にくっついてしまっているということです。それは、「反社会(共同体)的」であっても、「非社会(共同体)的」ではない。
ようするに、幼児が抱かれた母親の体を叩いて駄々をこねているだけのようなものです。そういう社会や親や家族などの既成のものにたいする恨みがましいルサンチマンを持っていて、はじめて死体をバラバラにすることにエクスタシーがやってくる。
つまり、「残忍非道」だと正義ぶるのも、「エクスタシー」だとカッコつけるのも、しょせんは同じ人種だ、ということ。
自分たちじゃすごい興奮のつもりだろうが、そんなものは、そのへんの平凡な主婦が体験するオルガスムスの百分の一もあるかどうか、知れたものではない。死体を切り刻むのが「エクスタシー」になってしまうのは、一種の不感症なのだ。すごいことをすればすごい興奮があるなんて、僕は思わない。そんな思い込みは、ただの形式主義だ。「エクスタシー」は、形式じゃない。枯れススキを見て驚き震える人もいれば、ナチ収容所の死体の山を、収穫されたジャガイモのように眺めている人もいる。
だいいち、死体を切り刻むことなんか、すごいことでもなんでもないのです。
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あの兄にしても、あの主婦にしても、べつに「エクスタシー」があったのでもそれを求めたのでもない。そうする「必要と意味」をつよく感じたからでしょう。
医者や解剖学者だって、「必要と意味」を自覚して、平気でやっている。「必要と意味」さえ自覚すれば、誰だってあんなことは平気なのです。べつに残忍でもなんでもない。
われわれは「残忍である」という社会正義(共同幻想)にとらわれてしまっているし、「必要と意味」も持っていないからできないだけです。そういうしがらみから解き放たれて「必要と意味」さえ強く自覚すれば、誰だって平気でできることです。
人を殺してしまった、ということは、すでに社会(共同体)の外に立たされている、ということです。あなたも殺人犯になってみればいい。「必要と意味」さえ強く自覚すれば、気持悪さなんか忘れて、必死にその行為を遂行してゆくにちがいない。
人間は、「必要と意味」さえ自覚したら、なんでもやってしまう生き物です。死体をバラバラにすることなんか、なんでもない。つまり、そういう意味や必要=価値をつよく認識するという「観念」を持ったから、ここまで飛躍的に文明を発展させてきた。「必要と意味」を意識すれば何でもやってしまう生き物になったから、地球の隅々まで拡散していったのです。
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それともうひとつ、観念によって身体を支配しながら生きてゆく、という現代人の生態とも関係があると思えます。
「身体なき観念は存在しうるか」・・・こんなことを人類の理想あるいは最先端の問題として大真面目に問うている人たちがいるのだとか。そういう世の中であれば、人々が感じる身体のリアリティなんか、どんどん薄れてゆくにちがいない。
これは、「家族主義」という現代社会のスローガンに根を持っていると思えるのだが、とにかく身体が生々しい生命そのものであるよりも、たんなる「物」になってしまうことを理想とする社会になっている。
夏になったら、汗スプレーなんかを使って、汗の匂いのしない体にしてしまう。これは、よくもわるくも身体のリアリティを薄めて、ただの「物」にしてしまう行為です。
うんちを生の手で触れと言われたら、そりゃあ誰だっていやです。しかしそれが、ただのプラスチックのレプリカであるのなら、それほど抵抗はない。汗スプレーは、大げさに言えばこれと同じで、身体をプラスチックのうんちに変えてしまう道具です。
そして死体は、すでに完全に「生命」とは無縁のものだと認識できれば、それだって、プラスチックのうんちと同じでしょう。プラスチックのうんちをバラバラにするくらい、なんでもない。
あの妹を殺した兄が、乳房と性器だけ切り取って別にしたのは、それだけはまだ何かしらの「生々しさ」を感じたのかもしれない。もしそうであれば、その気持は、男としてわからなくもない。
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僕は、家族など必要ない、といっているのではない。家族は、「すでにある」のだ。そのことは、ひとまず肯定する。ただ、それが正義だ本質だと決めつけるのはやめてくれ、と言っているだけなのです。
幸せで愛し合う家族でも、そこで「バラバラ殺人事件」が起きたりするのです。あんなに仲のよかった兄妹にも、そんな結末がやってくるのです。
仲がよくてもわるくても、愛し合っても憎み合ってもいけない。どちらも、関係が近すぎるからです。関係は、くっついてしまっても、離れてしまってもいけない。「出会いのときめき」が生まれる距離を持っていなければならない。すでに愛し合っているのではなく、出会い続けねばならない。言い換えれば、出会い続けることによって、はじめて愛し続けることができるのです。
「愛している」という「状態」には、「愛する」という「現在」がない。「意識」は、たえず「生まれ続けている」はたらきであって、飴のように延びた「状態」ではないのです。そういう意味で「愛している」ことなんか不可能なのです。「愛する」ことができるだけです。
人と人がすでに一緒にいてしまっている家族には、「出会い」という「現在」はない。
太宰治は、「家族こそ諸悪の根源だ」と言ったが、家族は、けっしてハッピーエンドの物語ではない、「悲劇」であり「不条理劇」なのだ。
家族は、すでに「愛している」からこそ、もはや「愛する」ことができなくなってしまっている空間なのです。それは、まさに「悲劇」であり「不条理劇」であるはずです。そしてそういうことを自覚することによって、はじめて家族が肯定されるのではないでしょうか。
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あの兄が、妹を殺してしまったということは、妹に対して性的な欲望はあったが、勃起はしなかった、ということかもしれない。つまり、「愛している」状態ではあったが、「愛する」というときめきはなかった。
夫婦だって、関係が近すぎる状態になってくると、かえってセックスレスになり、やがてEDになってしまう。それは、もはや「出会いのときめき」がないからであり、勃起とは、「出会いのときめき」なのです。
彼は、「現在」において関係が成りたたないことに苛立った。だから、「現在」を抹殺し、死という未来で妹の肉体を獲得した。死体になってはじめて乳房と性器に「生々しさ」を感じたのかもしれない。
彼は、木刀で妹の頭を叩き割ってから首を締めて死なせるまでの一時間、妹と話していた、と供述しているのだとか。これが事実であれ、彼の妄想であれ、それほどに近すぎる関係になってしまっていた、ということです。彼らは、今起きている「殺す=殺される」の関係に対する認識を喪失して、なおも、すでに愛してしまっている関係=状態の中に漂っていた。まさにこれこそ、すでに愛し合ってしまっている関係の、「悲劇」であり、「不条理」なのではないでしょうか。
現代人は、身体という「現在」を感じるまい、関わるまいとして生きている。そして過去から未来に延びた観念という」状態」に執着してゆく。その生態はおそらく、「愛している」状態だけがあって「愛する」という生成を失っている家族という空間で生産されているのだと思えます。