団塊世代とバラバラ殺人事件Ⅱ

団塊世代は今、大きな消費マーケットとして注目されているらしい。
しかし団塊世代もさまざまです。
息子が家のなかでバラバラ殺人事件を起こすところもあれば、退職金を手にして第二の青春を謳歌しているつもりの人たちもいるし、高度成長に巻き込まれて突っ走ってきたことの疲れがどっと出てくたびれ果てている人もいる。
そしてこの世代が社会に果たしてきた役割とか意義、さらにはこれからの生き方などがいろいろと語られている。
ただ、団塊世代の中から「団塊世代なんてろくなもんじゃない」という発言が、ネット上でも出版やテレビの世界でもほとんどないのが、僕はちょいと気に入らない。いや、大いに、というべきか。
われわれ団塊世代は、現代社会が手放しで賛美することもできない情況になっている部分において、懺悔するべきことが何かあるのではないか。
先日起きた「バラバラ殺人事件」は、そういうことをあぶり出すきっかけだと僕は考えています。
ようするに、戦後の日本でここまではびこってしまった「家族主義」の問題です。
親たちはそれでいいかもしれないし、いまさら改めたくもないだろうが、子供たちは、その社会挙げてのスローガンに、意識的にか無意識的にか、けっこうしんどい思いをしているのではないだろうか。
子供は、家族の外に出て行かないといけない存在です。いい家族がいい子を育てたからといって、それでいいってものでもない。
たとえば、父親に恋してしまって嫁にいけなくなった娘とか、女に母親の面影ばかり捜していつもふられている息子とか。彼らだっていい家族の犠牲者だといえなくもない。彼らの意識の底にも、きっと家族に対するルサンチマンはくすぶっている。
どんないい家族であっても、子供は、いったん家族を否定して家族から出てゆくのです。そして彼らの「否定」は、正当なのです。普遍的に正当なのです。
「家族」のがわに、普遍的な正当性とか本質などというものはないのです。
つまり、子供がある年になれば必ず抱くそういう普遍的な実感を、かなり乱暴に封じ込めてしまったのが戦後の家族主義であり、団塊世代は、いわばその先頭ランナーだった。
・・・・・・・・・・・・・・・・
団塊世代の子供であることは、けっこうしんどいことだと思います。
バラバラ殺人事件の被害者である妹は、歯科大学合格の見込みのなくなってしまった加害者の兄に対して、
「私はいろいろ将来の夢があるけど、お兄ちゃんには何にもないね」
といったのだとか。
受験を間近にひかえて追いつめられている三浪の彼に、そんなことをいったら、そりゃ殺されるかもしれない。
仲がわるかったらしいけど、この馴れ馴れしさは、いったいなんなのでしょう。
本当に仲が悪いのなら、口を聞かなければいいのに、「けんかするほど仲がいい」ということですかね。
女の「幻滅」という感情は、ときに男に対する性的な親密感からくる場合がある・・・世の中の夫婦なんてほとんどがこの真理の上に成り立っているわけで、上のせりふは、僕には夫婦の会話のようにも聞こえます。
とはいえ、よくそんなせりふが吐けるものだ、どういう育て方をしたんだ、といいたくなるのが、一般的な受け止め方でしょう。
だが、べつにそういうふうに育てたのではない。そのとき兄と妹のあいだに、そういう情況が生まれた。
人と人の関係が溶解する瞬間。
僕だって、人生のなかで、気を許してついそんな残酷で無神経なことを言ってしまった経験は何度でもある。気がついていないことも多いだろうが、きっと誰だってある。
ただ、このふたりの場合は、もっと日常的に関係が溶けてしまっていたのかもしれない。
なぜか。
いい家族だったからでしょう。そこはたぶん、精神的にも物質的にもぬくぬくと安心していられる空間だった。そういうふうにして育ってきたのに、ある日妹は、親から、お兄ちゃんにそんなことを言っちゃいけない、と叱られた。それは、彼女にとって大問題だった。家族は安心できる空間ではない、といわれたも同じだった。
だから、その安心の気分を守ろうとして、なお兄に対して馴れ馴れしく挑発的になっていったのかもしれない。
上のせりふは、「今すぐ私を押し倒してやっちまってくれ」と言っているようにも、僕には受け取れる。
つまり彼女は、そこで家を出ようとしたのではなく、もっと深く家族という空間にもぐりこもうとした。たとえ一人暮らしを計画していたとしても、精神的には、「家族」というアイデンティティは手放したくなかった。
まあね、「医者のお嬢様」というレッテルは、ひとつのブランドですからね。もちろんそれだけでなく、とにかく「家族」という概念にきつく取り込まれ、意識がなかばそこに溶けてしまっていた。
兄だって、すでに長男が親の跡を継ぐ道を進んでいるというのに、三浪までして同じ道を歩もうなんて、涙が出るほど親孝行ですよね。つまり、それほどに「家族」という幸せな空間に囲い込まれてしまっていた。
彼には、歯科医師になる道以外の人生のイメージが湧いてこなかった。親がなんと教育したか知らないが、彼にとっては、大げさに言えば歯科医師以外は人間じゃない、というくらいの気分があったのかもしれない。それほどに、親も、家族という空間も、素敵で確かなものだった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
そこでもうひとつの問題として、この兄妹は、夢だのなんだのと将来のことばかり考えて、「今ここ」に対する反応を喪失してしまっている、ということがあります。
兄は、自分が今何をしたいかとか、自分が今この世界の何を見つめているのかという自覚がなかった。死体をバラバラにしたことにしても、「今ここ」のリアリティに対する感覚が、そのときなくなっていたのだろうと想像できます
彼にとって歯科医師になることは、「歯」というものに対する興味だったのか。おそらくそうじゃないでしょう。将来の安定した暮らしとか社会的地位とか、そんなものを得るための、たんなる手段だったはずです。
明日交通事故で死ぬかもしれないのに、です。現に、殺人犯になって将来を台無しにしてしまったじゃないですか。みんなそういうことは自分には関係ないと思って生きているけど、誰にだってそういうことは起こり得るし、そうやって明日のことばかり考えて、「今ここ」を空っぽにしながら生きてゆくことがそんなすばらしいことかという問題もある。
そんなのごめんだ、というのがほんらいの若者の態度だろうし、だから明日のことばかり考えている大人との対立が生まれる。
あのふたりがなぜ将来のことばかり考えるかというと、幸せで立派な親のイメージに頭の中が占拠されてしまっているからでしょう。将来という親、親という将来のイメージ、に。
どうせオフィシャルなページじゃないんだからいっちゃいますけどね、そんなひどいことを言われた兄は、押し倒してやっちまえばよかったのかもしれない。やっちまうことは「今ここ」の衝動だけど、殺すというのはもう、死という未来を目指していることですからね。
けっきょくこの兄妹は、何かにつけても未来のことしか頭に浮かんでこないような観念にされてしまっていたのですね、「家族」という奇怪な空間に。
若者が将来のことばかり考えていちゃだめですよ。それは、大人たちの陰謀なのだから。
将来のことを考えるから、大人を肯定できるのであって、考えなきゃ、大人なんて邪魔で不細工なだけの存在だちゃんと見えてくる。
大人たちはみな、この世で若者が一番美しいし、できればそのころに戻りたいと考えているだけなのだから。
大人は、若者に将来のことを考えさせることによって自分の現在を正当化し、慰めているだけなのです。そして、家族とはまさに、若者をそのように洗脳してしまうための空間にほかならないのです。
「家族」という空間に、「今ここ」はない。子供たちはつねに、親という未来、未来という親と向き合っていなければならない。
で、団塊世代は、「ニューファミリー」のムーブメントを起こし、家族という美名のもとに自分の子供を洗脳してゆくことに先頭切って熱中していった世代なのです。
彼らが先頭になって築き上げてきた日本の「家族主義」、この迷信から起こってくることは、「バラバラ殺人事件」だけですまないはずです。