団塊世代とバラバラ殺人事件

団塊世代とバラバラ殺人事件」
ネアンデルタールのことを書くつもりだったのに、僕のブログは今、漂流しています。
今日は、最近の新聞を賑わした事件のことについて書きます。
東京幡ヶ谷の女子短大生バラバラ殺人事件。
犯人は、同じ家に住む兄。
冷酷残忍だから、こんなことをするのではない。体に対する感受性の問題です。体に対する思想の問題、と言い換えてもよい。
彼は、体が命を生成しているのだとは思っていない。命は、観念によってなされているのであり観念のものだ、と思っている。だから、体はあくまで「もの」である。女の体は、触って気持のいい「もの」である、と思っている。
なんだか、変身合体ロボットをいじっている子供を連想させます。それほど被害者の体をいいかげんに扱い、それほどに執着してもいた。たんなる「もの」として、しかしとても強く執着してしまっていた。
ようするに、近親相姦のたんなるバリエーションだ、ということ。
これは、「家族」の責任です。といっても「家族」とは、それを構成する一人一人のことではなく、あくまで「家族」という概念のこと、こいつの責任がいちばん大きい。一人一人の存在は、「家族」という概念のたんなる所有物にすぎない。
70年代以降、団塊世代を中心に起こってきた「ニューファミリー」という家族主義、おしゃれで仲がよい素敵な家族、それは、その中の一人一人が「家族」という概念に所有されてしまう思想です。
「家族」という概念こそが確かな存在実体であり、その中の一人一人はもう、「存在」ではなく、幸せとか素敵とかいうたんなる「気分」にすぎない。言い換えれば、体より「気分」のほうがずっと存在=命を認識する確かな根拠である、という思想。
加害者の兄も被害者の妹も、そういう思想によって育てられた。
あのふたりの親は、おおよそ団塊世代です。つまり、戦後の家族主義の高まりとともに、テレビのホームドラマを見ながら育ってきた世代です。
兄の中で性的な衝動が逆流するだろう条件は、じゅうぶんに整っていた。
しかし親は、ちっとも心配していなかったらしい。いや、心配はしていたらしいけど、仲の悪さに対してであって、彼らのあいだの近親相姦的な親密感にたいしてではない。、そりゃ誰だって気づかないだろうけど、やっぱりそういう心配をしていたとは思えない。
僕の息子だって、むかし、両親が出かけていたときに妹をぼこぼこに殴ってしまったたことがあった。たぶん、どこの家でもよくあることなのだろう。ひとごとではない、と思っている。家族、というのは、そういう怖い空間なのだ、ということです。
彼らは、「家族」の絆こそ体よりも確かな存在である、という信仰にどっぷり浸っていた。
かつての「妹よ」というフォークソングみたいな世界が出来ているとでも思っていたのですかね。あの歌だって、ちゃんと「父が死に母が死に・・・」と断っているじゃないですか。その条件だったら、そこで「家族」という性衝動を希薄にさせる世界をつくることもできる。あの兄妹には、あそこにしか「家族」がなかった。あの歌もまた、ニューファミリー世代による「家族主義」の歌なのです。
しかし、その日の幡ヶ谷の自宅も部屋は、二人だけだった。そこに、両親のいる「家族」から離れてつくられたところの、あくまで男と女が同棲する新しい空間がうまれた。かれらにとって「家族」とは、あくまで両親のいる世界として存在していた。二人きりは、もう「家族」ではないのです。そういうことを、あの事件が結果的に証明している。それほどに両親のいる「家族」には、確かな存在感があったし、それほどに一人一人になると、「家族」という意識から離れてしまっていた。
これは、そういう家族意識が強い韓国で近親相姦が多いことと似ています。
そのときあのふたりは、男と女として向き合っていた。兄だけでなく、妹だって、兄の性的な視線を意識しているようなことを言ったりしたりしたにちがいない。おまけに、妹はすでに男を知っている、と兄は思っていただろうから、そのセックスアピールにたいして彼の性衝動が逆流しないはずがない。
僕は、逆流したことや、死体をバラバラにしたことをどうこう言うつもりはない。両親の、ふてぶてしい家族主義のほうが、ずっと気持悪い。
事件が起きたその夜、父親は、何度も受験合宿の宿に戻った息子に「すぐ帰って来い」とメールしている。自分が行けばいいのに。はいそうですか、と息子が帰ってくると思う気が知れない。戻ってくるに決まっていると思えるほど、「家族」という絆が強いものだと信じて疑わなかったのだろう。
奥さんが、不安だから行かないでくれといったとしたら、彼女もまたそういう信仰があったからだろう。一人ひとりは「家族」という概念の所有物なのだから、その概念がその中の人間を動かせる、と思っていたらしい。
僕だったら、家族なんかほったらかして、すぐ息子のところに飛んで行く。そんなことをしてしまった息子が、どれほど混乱し、もしかしたら自殺してしまうかもしれないとか、そんなことばかりが気になるにちがいない。
つまりあの事件は、ニューファミリーというなにやら舌ざわりのいい言葉とともに団塊世代が先頭になってつくってきた「家族こそ正義であり人間の本質である」という迷信によって引き起こされた事件だ、ということが言いたいのです。