ジム・ジャームッシュ・自殺の身体

映画を、映画館で見るのと、自分の部屋で寝転がって見るのとどこが違うかといえば、映画館には、体ごと画面と向き合っている醍醐味があるように思えます。
自分の部屋が日常であるのにたいして、映画館の中は非日常の空間であり、そのことにいやでも体が反応してしまう。気持より先に体が反応しているという体験は、貴重です。なぜななら、それこそがほんらいの「生」のいとなみであって、観念が先行してしまう普段の状態こそひとつの倒錯なのだから。
ジム・ジャームッシュは好きです。彼が描く欠陥人間たちは、みなどこかしらキュートな実在感があり、この世界がまんざらでもないものに見えてくる。
自殺する人たちには、ジム・ジャームッシュのそういう視線が欠けているのだと思えます。彼らにとってこの世界は、生きるに値しないくらいよそよそしいものになってしまっている。
不気味であることと、よそよそしいこととは違う。不気味であることは、それもこの世界の確かな手触りのひとつだが、よそよそしさはそれがないということです。
「ナイト・オン・ザ・プラネット」は、世界の夜の、タクシーの運転手と客とのやり取りをオムニバスでつづった映画です。
パリのタクシーの章は、ついてない夜だとちょっとむしゃくしゃしている黒人の運転手と、めくらのくせに妙に生意気で騒々しい白人女の客の話。このめくら女は、白目をむいた目をパッチリ開いている。こんな人間にふだん道端で出会ったら、きっと誰だってギョッとしてしまうでしょう。しかし意地悪なことを聞いてくるタクシーの運転手にたいする生意気な態度がなかなか痛快で、しだいに愛らしく見えてくる。運転手が「サングラスしないの?」と聞けば、「見えないのに、どうしてそんなものが必要なのよ」と挑戦的に吐き捨てる。で、しまいには、美人にさえ見えてくる。
つまりこの場面で、われわれ観客は、いやでも「身体」というものとかかわってゆくことを余儀なくさせられるわけです。そうして、知らない間にその異形の身体と和解させられてしまう。和解させられることの心地よさ。
たぶん、自殺をする人たちには、こういう体験がないのでしょう。観念が身体から影響を受けるということを、認めない。身体は、あくまで観念によって支配される対象であらねばならない。彼らは、身体や世界にたいして、気味悪いとあまり思わないか、もしくは気味悪ければ目を背けてしまう。だからこそ、和解することもない。
逆にいえば、いじめられている子供が自殺してしまうのは、身体とかかわりを持たされてしまうことに耐えられないからでしょう。そしていじめるがわは、身体にたいする感情そのものが希薄だから、後ろめたさがわいてこない。極端なときは、目障りな身体は抹殺してしまってもいいとさえ思っている。身体に対する残酷さと、身体とかかわることのこらえ性のなさ、この裏表。いじめるがわもいじめられるがわも、世界や身体のよそよそしさにはめこまれてしまっている。
あの酒鬼薔薇事件にせよ、長崎の女子児童が同級生をかみそりでめった切りにしてしまった事件にせよ、その残酷さにたいする感覚の欠如は、肥大化してしまった観念優位の意識による身体軽視と同時に、そのまま世界そのものが空々しいものに映ってしまっていることの証しであろうと思えます。
現代文明は、暖冷房を整え、防寒着もさまざまに、徹底して身体を支配してゆく。身体を快適に保つということは、その生成が阻害されているということでもあります。だから、身体に対する意識が平板になってしまい、鬱陶しさなどの違和感に耐えられない。そうしてしまいには、身体が生成することじたいが耐えがたいものになってゆく。自殺をうながす契機のひとつに、もしかしたらそんな潜在意識もはたらいているのかもしれない。
見た目にせよ、体感そのもにせよ、身体や世界の違和感と和解してゆく体験はきっと必要だし、ジム・ジャームッシュのキュートなオムニバス映画には、そういう体験へと知らぬ間に誘ってくれる魅力があるように思えます。