ネアンデルタールの埋葬とスピリチュアル

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すくなくとも五万年前のネアンデルタールは、抱きしめることの愛や至福を知っていた。
彼らが、自分たちの住居である洞窟の土の下に死者を埋葬したことは、死者と抱きしめあい見つめ合おうとする観念行為だったはずです。せめて観念の中においてだけでも、抱きしめあい見つめあい語りあっていたかった。そのために、できるだけ近いところに死体を置いておこうとした。そしたらもう、洞窟の土の下しかなかった。彼らは、幼くして死んでいった子供は、とくに熱心にそういうかたちで埋葬していったのです。
ただ土に埋めるだけのことなら、外にいくらでも適当な場所はあったはずです。それを、なぜあえて自分たちのすみかの下に埋めたのか。このことの意味を、研究者たちは、まるで考えようとしない。それは、おかしい。
死者とそうやってかかわりあっていったのなら、霊魂を信じていたからだろう、と現代の「スピリチュアル」な人たちは言うのでしょうね。そして霊魂という概念を持っていたのなら、それは「象徴化の思考」だ、と研究者が言う。
そういう問題じゃない。
ネアンデルタールは、ひたすら死者と見つめあい語り合い抱きしめあっていたかっただけなのです。すくなくともその「起源」においては、あくまで直接的な契機しかないはずです。そういう埋葬を繰り返しているうちに霊魂という概念が生まれてきたのであって、そういう霊魂という「象徴化の思考」とやらを持ったから埋葬をはじめたのだというのは、倒錯した思考にすぎない。
歴史家はいつだって「結果」でしかないことを「原因」であるかのようにいいたがる、歴史に「原因」などというものはない、「結果」があるだけだ・・・とスピノザだって、「エチカ」のなかで、吐き捨てるように語っている。
生命というのは、身体が生まれてきて消えてゆくだけの現象であって、観念はその随伴者、あるいは身体が持っているたんなる作用のひとつにすぎない。
なのに彼らは、生命は観念(霊魂)のものだ、という。
たとえばチベットには、チベット人が住んでいる。しかしそこはひとまず中国の領土になっている。中国人がいなくても中国人のものなのだ、という思想。身体は観念のものなのだという思想も、これと同じです。
「所有」という観念のはたらき、ですね。命なんて身体にくっついているだけのものなのに、身体を所有しているのは観念なのだから、命も観念のものだ、という思想。
人類が「霊魂」という概念を発見したのは、その社会に「所有」という形態が生まれてきたことによる。マルクスの「下部構造決定論」にしたがえば、ひとまず「所有」の形態が先に生まれたのだ、ということになりますね。
そして現代ほど「所有」という観念が発達した社会もないのだから、古代人よりも現代人のほうがずっと「霊魂」という迷信に取り込まれているのもとうぜんのことだといえる。
こんなにも科学が発達した社会なのに、人々も当の科学者さえも霊魂の存在を疑えないのは、それじたい霊魂の存在を証明している・・・と彼らは言う。そうじゃない。この社会が人々の「所有欲」を煽り立てる構造になっているからだ、と思えます。
まあ「霊魂」などというものがあるのなら、さっさと死んでしまったほうがいいに決まっている。この社会がいい社会であろうとなかろうと、どうせみんな、老いさらばえていく身体に四苦八苦して付き合ってゆかなければならないのは確かなのだから。
ところで、五万年前に埋葬していたヨーロッパのネアンデルタールと、同じころにはまだ埋葬していなかったアフリカのホモ・サピエンスと、どちらが先に「霊魂」という概念を発見したかといえば、おそらく後者のほうでしょう。なぜなら、家族的小集団で移動生活をしていたホモ・サピエンスは、その家族間のネットワークで、石器やアクセサリーなどを交換していたらしいからです。つまりそれは、「所有」という概念をすでに持っていたことを意味します。
そして、身体の命も、観念が所有していると考えていった。アフリカは、伝統的にヨーロッパよりずっと「霊魂」の文化が多彩で充実している。
ヨーロッパ人は、いまだに観念が身体を所有しているというイメージ(心身一元論)をうまく持つことができない。だから、あの世に行く観念もただの「魂」というなにやらわけのわからないものだけで、「人格」をともなっていない。人格を持っていけないのなら、そうかんたんには死ねない部分もある。
ヨーロッパの霊魂思想は、アフリカに比べてずっと貧弱です。それは、ネアンデルタールがまったく「所有」という概念がはたらかない社会をつくっていたことの伝統であるのだろうと思えます。
すなわち「埋葬」したって、霊魂という概念が生まれるとはかぎらない。彼らが死者を洞窟の土の下に埋めたのは、死者の行く先の「あの世」というイメージがなかったからです。
たとえ魂はどこかにいってしまっても、死者(の身体)は今ここのわれわれと一緒にいる、という気持ちはヨーロッパ人に今でもあるらしく、ヨーロッパの寺院では、死者の骸骨をそのまま飾るということを平気でしている。
長くなりすぎたので、このへんでやめます。