スピリチュアルな自殺

若者たちの自殺は、「スピリチュアル」な世界が共有されているのだとか。つまり、観念の世界における死。霊魂とか来世とか・・・現代では、大人も若者も、そういう概念をいじくりまわすのが好きらしい。
そんなもの、あるはずないじゃないですか。生きて死んでゆくのは、あくまで身体において起こっていることです。
観念が、飯食ったり糞したりするのか、心臓停止になるのか。
観念は死なない。ゆえに死後の世界ともなんのかかわりもない。
観念なんて、脳の蛋白質の作用がなければ生まれようもない、ただの働きに過ぎない。
観念は、生きている身体で起こっているひとつの「生成」であって、「存在」ではない。
いや、こんなことを言っても、誰に届くはずもない。
けっきょく、信じるか、信じないか、という問題なのだから。
「スピリチュアル」な世界を信じれば、死ぬのが怖くないし、自殺することも実行に移しやすい。
そんなの、ずるい、と思う。
死ぬのが怖いということを引き受けることができない自分を正当化するために、そういう世界観にとびつく。
どうせこんな世界なんてろくなものじゃないのだから、死にたければ死ねばいいけど、死んだことがない身なんだから、死後の世界なんか死んでみなければわからない、という覚悟で死んでゆくべきだ。
いや、死んだやつが勝ち、かな。
どうせ、死後の世界も死後の観念もないのだから、こんなはずじゃなかった、と後悔することもない。
だったらもう、ほかの者を道ずれにするのはやめろよ、といいたいところだけれど、因果なことに、ひとりじゃ信じられないことも、三人一緒なら信じられてくる。宗教というのは、だいたいそういうものだ。
そして、どうせ死ぬのなら、早ければ早いほどいい、若ければ若いほどいい。
なぜなら、死ぬことの怖さとか、自分のみじめさとかずるさとかかっこ悪さとか、そんなものを引き受けたくなくて引き受けることができなくて自分をごまかして死んでゆくのだから、それに気づく年齢になるまえに死んでいったほうがいい。
気づいてからでは、けっこうしんどい。
たいていの人は、老人になって、もうごまかしようもなくなってから自分のみじめさや死の恐怖と戦い、一敗地にまみれて荒れ狂ったりしょげ返ったり認知症になったりしなければならない。
そういう人たちを笑いながら、さっさと死んでゆく、ということか。つまり、自分たちも長く生きていればあんなになるしかない、と思うのだろうか。
生意気なんだよ・・・君たちに、自分の未来の何ほどが見通せるというのか。若者に、未来などないのだ。未来など見通すことのできないその未熟さこそ、若者の特権なのだ。
でも、この世に引き受けることができないほどのみじめさやかっこ悪さなどというものは、何もない。あるなんて言ったら、へレン・ケラーやアフリカの飢餓地帯の子供に笑われる。
レーニングさえすりゃ、人間ていどのみじめさなど、誰にでも引き受けることができる。
ちょっとだけ、マゾヒスティックになればいいだけのことだし、そういうじわっとくる快感もある。
しかし彼らは、あの世で何を楽しむんだろう。体をともなっていない快感なんて、あるのかしらん。体あってこその快感=スピリチュアルだと思う。
体がなければ、それこそ「鳥肌が立つ」という感激も体験できない。
「心が震える」というけど、体がなければ、心だって震えないのだ。
だいいち、熱くたぎる恋も感激もしたことないやつが、あの世に行って、どれほどの体験ができるというのか。
スピリチュアルな至福だとか愛だとか、笑わせるんじゃない。生身の体を抱きしめること以上に、愛も至福もあるものか。