現代の自殺と死に対する感受性

年末に、あるブログ(たしか「町田の独り言」というタイトルだった)で、映画「ブレード・ランナー」についてコメントされていた。
人間と、人間そのままの体を持ったレプリカント(サイボーグ)との対決、というストーリー。映画ファンなら誰でも見ている、というSF映画の名作です。
ようするに「異人種」との出会い、というモチーフですね。それじたい普遍的なひとつのジャンルであるといえるくらい、昔から現在まで、さまざまに変奏してつくられ続けられている。(つまり、たぶん欧米人は、それほどに人種問題が気になっている、ということなんでしょうね)
だから、4万年前にアフリカのホモ・サピエンスがヨーロッパに上陸していってネアンデルタールと出会った、などというとんでもない空(妄)想が、かんたんに信じられてしまうことにもなる。
ボーイ・ミーツ・ガール・・・これだって、本質的には、「差異」がテーマであるはずです。
そして、この世とあの世・・・この対比にも、同じ本質的普遍的な問題が含まれている。
相手が白人にたいする黒人であれ、人間にたいするレプリカントであれ、この世にたいするあの世であれ、かんたんに相手の気持ちなんか決め付けられないし、この世と同じようにあの世でも暮らしてゆけると考えることはできない、ということを、われわれはもう少し深く肝に銘じておく必要があるのではないでしょうか。
現在の地球上には、いまなお飢餓に苦しんでいる地域が、アジアやアフリカの一部にある。
それにたいして、先進国の人間はたらふく食いまくっているばかりでけしからん、といってもしようがない。たらふく食いたがる人間ばかりになってしまうような社会の構造になっているのだから、そう叫んだだけで改善されるものでもないでしょう。それは、いいことでもわるいこととでもない。ようするに、北の先進国ではそういう生態になっている、と認識するほかない。南とは、生態が違う。同じ人間だから、というような安直なヒューマニズムを語られても、いまいちぴんとこない。
食うことに対するモチベーションは、南より北のほうが、はるかに高い。寒いんだもの、食わなきゃやってられない。このことは、原初の人類がはじめて北ヨーロッパに住みついて以来、50万年の歴史がある。良くも悪くも「北の飽食」は、そういう長い時間蓄積されてきた伝統でもあるのです。
そうして、餓えている当の地域の人たちにたいしてだって、だったらそうむやみに子供をつくるなよ、という意見もとうぜん出てくる。しかしとくに娯楽施設もなくそんなにつらい生きかたをしていれば、セックスせずにいられない衝動は、先進国の人間以上に切実でしょう。
いずれにせよ南では、本気でそうした対策に取り組むほど、あるいははたで気の毒がるほどには追い詰められていない、という面もある。
たいして悲惨でもない、というのではない。ものすごく悲惨であることは確かだけど、それでも、彼らには彼らなりの生の充足がある。
先進国の人間は、つよい死の恐怖を抱えている。それが、経済の豊かさを生む。そしてそうした先進国の人間の目から飢餓地域を見れば、よく絶望も狂いもせずに生きていられるものだと思えてくる。
飢餓地域の人たちに、先進国ほどの死の恐怖はない。あれば、こんなになっていないし、日本ほど自殺が頻発しているわけでもない。生きることの苦しみはかならずしも自殺の主たる契機にはならない、ということを、彼らが教えてくれている。
苦しいから自殺するのではない。先進国では、「死にたい」と思ってみずから死を選ぶ。
飢餓地域の人たちは、どんなに苦しくとも、「死にたい」とは思わない。とくに子供たちに、そんなすれっからしの知恵はない。
子供は、その人生の初めに、餓えの嘆きを「泣く」というかたちで表現し、母親のおっぱいを吸って生き返る、という体験をする。彼に残っているのはその記憶だけで、餓えが修復されないまま死んでゆくという体験は、生きていればとうぜんしたことがない。
論理的には、死んだことがない人間に「死にたい」というイメージが湧いてくることはないはずです。
彼らの「泣く」という餓えの表現はとても切実で、おっぱいで生き返った喜びは、とても深い。
そうして飢餓地帯であれば、空腹でもないのに食いたがるという体験がない。
身体をほったらかしにして、観念だけで食いたがる・・・そういう体験の蓄積の上に、現代の文明人は、しだいに観念が身体を支配するという詐術を覚えてゆく。
で、ちょいとつらいことがあると、「死にたい」と思う。
ほんらいなら、ものすごくつらいことに遭遇したとしても、身体によって生きてある者が「死にたい」なんて思いようがないことのはずです。
現代の先進国では、死を意識するようになった年代にたくさんの「認知症」を生み出しているが、飢餓地帯で餓えて死んでゆく人は、ほとんど誰も発狂しない。
人間が発狂しないで死んでゆくことができるなんて、すごいことだと思います。それは、われわれの希望です。それこそが、われわれの生きてあることに深い慰めを与えてくれる。
「生命の尊厳」というのなら、そういうことにこそある。それこそが、人間が観念というものを持っていることの尊厳でしょう。