現代の自殺・「死にたい」と思うこと

べつに自慢でも謙遜でもないが、娘から「お父さんの言うことは、爆笑問題の太田に似てるよ」とよく言われます。
「どこが」とは、聞きません。似ているのはしょうがないとしても、同じではありたくないから。
太田氏の言うように、死の誘惑から逃れる方法として、自分もまんざらではないとポジティブになることは有効だろうが、実際問題としては、それがないから自殺を実行に移してしまうのだろう。
だったらもう、死の誘惑それじたいを疑うしかない。
死んだこともない人間が「死にたい」と思うなんて、どこか変だ。われわれは、死んだらどうなるかということも、死ぬということそのものについても、何も知らないのだから。
人は、生きてゆかなきゃいけないということもないし、生きてゆかなきゃ、死にたどり着くこともない。死のことなんか、知らない、死は向こうからやって来るのであって、こちらから行く場所でも行ける場所でもない。
自殺する者たちは、この先に死があることをちゃんと知っている。そこが変だ。
「明日何が起こるかわかっていたら、誰が明日まで生きていてやるものですか」と、どこかの女が言ったらしい。
裏返せば、明日のことがわかっている者でなければ死ぬことはできない、ということです。ほんとうに追いつめられた者にとっては、明日こそいいことがある、という空々しい慰めよりも、明日のことは何もわからない、と悟ることのほうが救いになるのではないだろうか。じっさいわかるはずもないのだし。
自殺する者たちは、「明日」に幻滅している。「明日」なんてわかるはずもないのに、わかった気になっている。あるかどうかもわからないのに、ある、と決めてかかっている。
現代社会は、ある、という前提のスケジュールによって動いている。そういう世の中の動きが、人々の、明日のことばかり気にしてしまう強迫観念を生んでいる。
「死にたい」という思いは、明日があることをすでに前提にしているから生まれてくる。
つらい体験をしたということと、死にたいと思ったことがあるということとはまた別のことです。現代社会は「つらい体験」を少なくしたが、「死にたい気分」をより強くした。
つらいから自殺するのではない、「死にたい」と思うからだ。「死にたい」と思う気持の表現は、死ぬことしかない。
死ぬなんて身体のことなのに、観念が勝手に自分だけで生きているつもりになって、自分だけで決めてしまっている。
いつのまにかわれわれは、あたりまえのように身体を支配してしまっている。
極端にいえば、現代人は、観念だけで生きている。「死にたい」と思うとはそういうことなのだが、しかしこれは、考えるととても怖いことです。
現代文明の理想は、暑さ寒さも空腹も満腹もぜんぶなしにして、衣食住のすべてを観念だけの行為にしてしまうことらしい。観念は、身体から訴えかけてくることに耳を傾ける必要はまったくなく、ひたすら命令し支配しつづけるだけ。こんな退屈で不気味な状態が、はたして素敵なことなのでしょうか。素敵じゃなくても、身体を支配することにとりつかれてしまったら、もうそこまで行くしかない。誰も喜んでも満足しているわけでもないのに、そうしないともう人間が生きられなくなってしまっている世界。考えたら、怖いです、これは。
たとえば、飯を食わなくても、拒食症のように必要以上にやせ細っていかなくても済むサプリメント。食いすぎても太らない身体改造手術。そんなことちっとも素敵じゃないが、もうそうしないと生きられない人間がどんどん増えてくるとか。
人間のセックスは観念の行為だ、とよく言われますが、観念が命令して勃起させることはぜったいにできない。観念が世界=他者に反応した結果として、それが起こる。観念のほんらいの働きは、みずからの身体も含めた世界に「反応する」ことであって、支配したり命令したりすることではない。
われわれは、ふだん身体に命令して身体を動かしているつもりになりがちだが、じつは世界に反応した結果として、観念が命令するより先に動いている。観念が身体を動かすことなど不可能だし、身体はそんなふうにして動いているのではない。このあたりの事情については、養老先生がよくおっしゃっていることだから、これ以上くだくだしくは説明しません。
僕が言いたいことはつまり、「死にたい」と思うことは、それほどにけっこう不気味で倒錯した観念行為なのだ、ということだけです。