自殺の身体論Ⅱ

自殺することは、みずからの身体を支配して、人生の時間を切り落としてしまうことです。
自然死が身体において起こることだとすれば、自殺は、死ぬも生きるも観念が決定するのだという、身体に対する観念の優位性を証明している。
もともと人間は、他の動物以上に身体を支配しようとする傾向がつよい。なんといってもほんらいの四本足の姿勢を捨てて二本の足で立ち上がって歩き始めた生きものであるわけで、それはある意味で、無理やり自分の体にいうことを聞かせる姿勢だともいえる。
小学校の朝礼で、校長先生の話が長すぎると、子供たちがばたばた倒れてゆく。
二本の足で立っていることは、それほどに不自然で無理な姿勢だということでしょう。自分の体を支配し続けないと、できることではない。
共同体は、身体を支配することが好きです。つまり、身体に対する観念の優位性を、そのアイデンティティとしている。
体操や軍隊の整列は、身体を支配してゆくことの上に成り立っている。
そして自殺は、みずからの身体を支配する究極で最後の切り札である。
だから、「殉死」という制度が生まれてきた。
古代王朝の生贄の儀式は、いわば強制的な自殺であり、第二次大戦の特攻隊も、まあそんなようなものだといえる。
しかし、それによって共同体は救われ、栄える。
人は、どこかしらで自殺にヒロイックなイメージを抱いている。だから、その行為が甘美なものとして、恐怖を消してしまう。
自殺が増えるということは、わるい世の中になったということではない。それだけ人々の心が、共同体に取り込まれてしまっているからです。
わるい世の中だと自覚し反抗すれば、自殺なんかしない。
いい世の中だから、気持や考えることがやわになってしまっていて、ついふらふらっと自殺の誘惑に負けてしまう。
純粋に個人的な自殺といえるものがあるのでしょうか。まあ、あってもなくてもいいのだけれど、すくなくとも現代の自殺のほとんどは、身体を支配しようとする共同性の上に成り立っていると思えます。
現代ほど、人がみずからの身体を支配しようとしている時代もないのだから。
しかし、自殺について考えることは、やっかいだ。人々がそれほどに自殺の意欲をつよく持ち死んでゆけるからといって、死の恐怖がなくなったかといえば、中高年が病気を苦に自殺するのは死を怖がった結果だし、身体を支配しようとすることじたい死の恐怖がモチベーションになっているわけで、まったくこのあたりの逆説はじつにやっかいです。
死の恐怖から逃れるための最善の方法は自殺することである、という逆説、結論をいってしまえば、これが現代の自殺のかたちなのだろうと思えます。
現代社会に蔓延する死の恐怖、そしていい世の中だから、ちょっといやなことがあると、すぐ「死にたい」と思ってしまう。これが、多くの自殺を生む空気をつくっている。
爆笑問題」の太田氏は、そのとき死の誘惑から逃れる契機として、自分もまんざらではないと自覚できるちょっとした体験があればいいと語っていたのだが、死んでしまえる自分もまんざらではないですからね。そこがやっかいだ。ナルシズムを含まない自殺なんて、ないでしょう。
なんだかとりとめもなくなってきたから、今日はこのへんでやめます。