自殺に関する身体論Ⅰ

正月早々「自殺」をテーマにするなんて、よく考えたら不謹慎だったかもしれない。
しかし、読みたくない人は読まなければいいだけだから・・・
このブログをはじめてひと月、なんだか余計なことばかりしたり考えたりするようになり、このままでは人格まで変わってしまいそうな気がしてきて、もっと本格的に頭を冷やす必要がある、と考えました。
そういう自虐の意味もあって、悪いけど「自殺」について考えたことを発信させてもらいます。
ネアンデルタール問題は、しばらく休業です。
こんなことばかり書いていたら、せっかく読み始めてもらえた人類学ファンから見捨てられるに決まっているけど、仕方ないとあきらめて、しばらくこのテーマを考えてみることにします。
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生きてゆこうとする意欲も、自殺しようとする意欲も、人が生きてあることから生まれてくる、この生のエネルギーであることには変わりない。
生きようとする意欲は正しくて、死のうとする意欲は間違っている・・・僕は、そうは思わない。
問題は、そういう「意欲」がどこから生まれてくるかにある。
生きるとか死ぬということは、身体において起こることです。ほんらいそれは、意識がどうがんばっても何とかなることではない。
それを、意識(観念)で決着をつけてしまうこと、それが自殺です。
だったら、意識(観念)で生きてゆこうとすることだって、同じ穴のムジナに決まっている。
どちらも、意識(観念)で身体を支配しようとしている。どちらも、そういう「意欲」の表現です。
そしてそういう意欲そのものをみんなが強く持っている社会(時代)であれば、それを死ぬことに使う人だって出てくる。
「意欲」を持つなんていやだ、ぐたーっと生きていたい・・・そう思って、若者がニートになる。いいのか悪いのかは知らないが、これは、そういう社会の風潮に対する反動であり、カウンター・カルチャーだと思えます。
この根は、決して浅くないかもしれない。そういうカウンター・カルチャーが生まれてくるような、日本文化の伝統があるのではないか。
たとえば、ニートの若い男女が、アパートの部屋でエッチすること以外何もないような状態でぐたーっと一日過ごすことと、中世の隠遁者による方丈の思想と、僕はまんざら無縁ではないような気がします。
孔子は、「馬鹿が暇をもてあますとろくなことをしない」といったが(村上龍ニートに関してそういっている)、「意欲」をたぎらせて忙しく動き回ることにしり込みしてしまう気分は、はっきり言って日本文化ですよ。そしてそんな怠惰な暮らしをしていれば、こんなことばかりしていて俺たちいったいどうなっちまうのだろう、と考え、ふと「死」というものを意識する。それは、あながち悪いことではないでしょう。なんたって、伝統文化なんだもの。
無常ということ、ですね。
「命を大切にする」といえば聞こえはよいが、それは、生きていることばかりにしがみついて、死ぬことを考えまいとしている、ということかもしれない。
死ぬことなんて身体の勝手なのに、意識(観念)が管理支配しようなんて、傲慢な越権行為なのではないか。
命を大切にして死ぬことを「今ここ」から消してしまうことも、「今ここ」をを死ぬことにしてしまうことも、意識(観念)が身体を支配することに変わりはない。
現代人は、身体を支配しようとする意識(観念)が、ことに強い。そうやって遺伝子を操作し、臓器を移植し、アンチ・エイジングのサプリメントに大勢が飛びついている。
僕は、自殺することがいいか悪いかというようなことは、よくわからない。しかし、「命を大切にする」というような言説空間そのものが自殺を頻発させる土壌になっている、ということは、言えなくもないように思える。
若者が自殺するなんて、うわさを聞くだけでもやっぱり悲しいし、つらい。しかし「命を大切に」というスローガンを正義にすれば解決するとも思えないし、むしろそういうことを言いたがる社会の空気こそが、若者にせよ病気を苦にしたり鬱病になったりする中高年にせよ、彼らの自殺への意欲をかきたてるジャンピングボードになっているのではないだろうか。