団塊世代の女は、男を捨てる

しかし僕の団塊世代の女にたいする悪口も、いまいち具体性がなく、面白みも説得力もないですよね。
かといって、自分の知っている女のことを取り上げていってみても普遍性にはならないし、たくさん知っているわけでもない。というか、女のことはよくわからない、といつも思っています。
自信を持っていえることは、団塊世代になって自分から男を捨てることのできる女が増えた、ということくらいです。だから、今回は、このことにしぼって考えてみます。
で、どんな男が捨てられるか。
金を稼がない男。
家庭を大事にしない男。
バカな男。
おおよそ、こんなところでしょうか。
考えたら、僕なんか、ぜんぶ当てはまる。もう、いつ捨てられてもいい、まさに粗大ゴミ状態です。
それはともかく、若いときと熟年離婚とでは、理由はちょっと違うでしょうね。
若いときは、家庭を大事にしない男がいちばんの理由になるし、熟年離婚の場合は、金を稼がない男とバカな男が捨てられる。
なんといっても、若いころは「ニューファミリー」のブームだったから、家庭を大事にしないのは、許しがたい罪だった。
いまはもう、子供は独立しているか独立しかかっているから、半分家庭のかたちを成していない。そうして女だって、家庭の外で楽しみを見つけている。
が、若いころは、そうじゃなかった。
女は、男なんかいなくても、子供さえいれば生きられる。そういう話は、むかしよくあちこちで聞かされました。
つまり、女にとって大切なのは、家庭であって、男ではない。じつは、これこそが、「ニューファミリー」のファーストコンセプトだったのです。
だからかんたんに男が捨てられていったのであり、怖いといえば、男として足もとの力が抜けてゆくくらい怖いことです。
団塊世代の女にとって大切なものは、男ではなく、家庭だった。いや、もしかしたら女というのはむかしからそういう生きものだったのかもしれないけど、そういうことがはっきりと自覚された時代だった、ということでしょうかね。
そして社会が豊かになって、そういう母子家庭でもなんとか生きてゆける時代になったし、生きてゆけなければ、また別の男を捜せばよい。
男は、往々にして自分の性的能力を自慢したがったり、コンプレックスを抱いたりするのだけれど、女にとってはたいした問題ではないらしい。セックスがへただから女に捨てられた、という話は、すくなくともあのころはなかった。
快感があるかどうかということより、セックスをするということそれじたいにたいする満足が、女にはある。団塊世代の女は、セックスのへたな男は捨てなかったけど、セックスをしない男は捨てた。つまり彼女らにとって大切なのは、セックスをする「満足」であって、「エクスタシー」ではなかった。
団塊世代の女にかぎったことではないのかもしれないけど、団塊世代の女は、ことにそういう傾向が顕著だった、といえそうな気がします。
なにしろ「ニューファミリー」ブームの先頭を走っていたくらいですからね、「家族」という単位にたいする特別な執着というか、偏狂ともいえるほどの信仰のようなものが、彼女らにはあった。
なぜか。
おそらく、幼児体験としてそういう熱く確かな満足の漂う家族に育てられたか、家族とはそういうものだという社会的な合意のある環境に浸されて育ったか、まあそういうことが考えられます。
終戦直後というのは、貧しくても、平和のありがたさをしみじみとかみ締めながら、そういう切ない思いに満ちた時代だったのです。
だから、自分がそういう家族を体験できたにせよ、できなかったにせよ、結婚適齢期を迎えた団塊世代の女はみんな、家族にたいする強い愛着を抱いていた。
団塊世代の思春期のころは、テレビから発信されるのどかなホームドラマが全盛だったのですが、それ以前の幼少期のころは、せつなく貧しい母子家庭ものの映画がホームドラマの主流でした。男を捨てる団塊世代の女たちには、そういう記憶がトラウマとしてあったのでしょうかね。