女たちの井戸端会議を成り立たせているのは、共通の集団に属しているという連帯感です。
しかしその集団の規模は、「日本」じゃ広すぎて、「家族」じゃ狭すぎて、おしゃべりのダイナミズムが生まれない。
「町内会」くらいの規模と連帯感が、ちょうどよい。
学校のクラスや同学年どうしの集団。子供を遊園地で遊ばせている主婦グループ、少年サッカークラブの母親グループ、狭い村落、会社のパート仲間・・・そういう町内会レベルの規模の集団の中から、井戸端会議が生まれてくる。
したがって、家族的小集団で移動生活をしていたアフリカのホモ・サピエンスには井戸端会議の文化は育たなかっただろうし、ネアンデルタールの100人から150人の群れは、まさに女たちの井戸端会議が生まれてくるのに、うってつけの規模の集団だったはずです。
ちなみに、欧米人がパーティーを開くときも、そのネットワークはおよそ100人前後だろうといわれています。
ネアンデルタールにそんな言葉を話す能力はなかった、と研究者たちは言うのでしょうね。しかし研究者が説く言葉の起源とか能力なんて、じつにいいかげんなものばかりです。
人類は、すでに百万年前から言葉を話せる喉の構造を持っていた、といいます。だったらそのときから、言葉を話していたのでしょう。言葉を話していたから、そういう喉の構造になっていたのかもしれない。
厳密にいえば、言葉は、直立二足歩行をはじめたときからすでに始まっている。まあこの話は長くなるからこれ以上はいいませんが、原初的なうなり声の交換から「おはよう」という言葉にいたるまでの、ここから言葉でそれ以前は言葉ではないというような境界線は、誰にもつけられないはずです。
言葉を話していたかどうかは、言葉が生まれてくるような社会を人間がいつどの時点で持ったか、という問題です。
喉の構造がどうとかという問題ではない。しゃべるくらい、オウムだってできる。
言葉は社会に(共同体)に属し、社会が(共同体)が生み出す。
人間の知能が生み出すのではない。
結果的に人間は知能が発達しているにせよ、言葉を持たないチンパンジーとの決定的な違いは、言葉が生まれてくるような社会を持っているかいないかにある。そして、そういう社会に属しているのが人間であり、チンパンジーの知能では、人間の社会に属することができない。
言い換えれば、喉の構造がどんなにちゃんとしていても、言葉が生まれてくるような社会に属する知能を持っていなければ、言葉を持つことはできない。すくなくともネアンデルタールは、そういう社会も知能も持っていた。
十万年も井戸端会議でペチャクチャやっていれば、それなりのかたちを持った言葉になってくるでしょう。
仲間どうしのおしゃべりでいちばん盛り上がるのは、噂話と下ネタ。ネアンデルタールの社会は、その両方が豊かにおおらかに生まれてくる構造を持っていた。
「神話」だってそういう状況から生まれてくるのであって、あるとき知能指数の高いやつが突然語りだすのではない。知能指数が高くなったから神話を生み出すようになったのではなく、人々が寄り集まって語り合う状況から生まれてきたのです。そしてネアンデルタールにはそういう状況が豊かにあったし、アフリカのホモ・サピエンスにはなかった。これは、どうしようもなくはっきりしていることでしょう。
言葉について語るときの研究者の常套句は、「象徴機能」がどうとかこうとか。そういうしゃらくさい言葉でカッコつけるのはやめてくれよ、といいたい。
言葉の「象徴機能」は「社会の構造」が持っているのであって、人間の知能ではない。
われわれが「おはよう」というのは、すでにその言葉に朝の挨拶が象徴されているからであって、われわれが象徴させているのではない。象徴させているのは「社会の構造」であって、われわれの「知能」ではない。
われわれの「知能」は、そういう「社会の構造」に属する能力として働いている。
井戸端会議を馬鹿にしちゃあいけない。すくなくともそれは、「赤色オーカーの幾何学模様」がどうとかということより、言葉が充実してゆくためのはるかに重要な契機だったはずです。

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