ネアンデルタールは家を作る能力がなかったから洞窟に住んでいた、というような言い方をしたがる人もいる。
そういう問題じゃない。クロマニヨンだって、洞窟に住んでいた。そしてもちろんそれは、ネアンデルタールとクロマニヨンの連続性を意味する。ネアンデルタールがクロマニヨンに変わっただけ。
寒い風をよけたりする保温効果は、洞窟がいちばんでしょう。
また、ネアンデルタールの生活を再現しようとすると、一般的にはすぐ洞窟の家族を描きたがるが、彼らに家族という単位はなかった。
おそらく、もっとたくさんの人たちが、そこに集まって暮らしていた。
ひとつの洞窟にひとつの家族というような使い方をしていたら、いくつ洞窟があっても足りない。
寒冷地で夜を過ごすためには、火は欠かせない。
洞窟で焚き火をして、そこに人が集まってくる。狭い洞窟でも、おそらく10人20人と集まってきて、火を囲んだ。狭い洞窟のほうが暖房効果は大きい。そうしてさまざまなことを語り合ったのでしょう。
人類の言葉はそうやって充実してきたのであって、べつに石器とビーズのアクセサリーを交換するためでもないはずです。そんなことは、言葉なんかなくても、身振り手振りですむ。現にかつてのヨーロッパ人は、言葉の通じない未開の地に行って、胡椒などを手に入れていた。
言葉は、一人から生まれてくるのではない。二人から、でもない。
その社会の共通の表現として生まれ、そこから二人の対話にも使われるようになってゆく。
二人だけで通用したって、だめなのです。二人だけにしか通用しないということは、社会では通用しないということです。
二人の関係の本質は、語り合うことにあるのではない。見つめあい、抱きしめあうことにある。二人からは、言葉は生まれてこない。逆に言えば、言葉がなくても成立する関係である、ということです。だから、身振り手振りだけで、交易ができてしまう。
考古人類学ではよく、群れどうしのネットワークを持ったり交易したりすることを言葉が発達していたことの証拠に上げたがるが、そんなことは言葉が発達していなくてもできることなのです。言葉の本質を知らないから、そういう短絡的な解釈ができる。
言葉は、一人が「りんご」と言って、それを聞いた大勢のものが、ああ赤い木の実だと了解する機能として生まれてくる。
それは、集団の中で生まれる。集団が認知してして、はじめて言葉になる。みんなで語り合う場から生まれ、充実してくる。
そしてその場は、アフリカのホモ・サピエンスには決定的に欠落していたものであり、それはまた、その後の国家を建設できなかった悲惨な歴史にもつながっているはずです。
べつに国家をつくれることが偉いとも思わないが、そういう歴史は、たしかにあるのではないでしょうか。
ネアンデルタールの洞窟には、みんなで語り合う場があった。
すかなくとも5万年前の地球上で、もっとも言葉が発達していたのは、ネアンデルタールであったはずです。なぜなら彼らは、もっとも寒い地で身を寄せ合って生きていたからです。
洞窟内で火を囲み、彼らは、いったい何を語り合っていたのでしょう。
それが、次回のテーマです。

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