なにやってるんだか

この国のコロナウイルスの感染者の実数は、いったいどれくらいだろうか。国は本気できちんと検査をしていないのだから、まるでわからない。「そのうち終息するだろう」という安易な考えで小手先のごまかしばかりをしているから、人々はよけいに不安になる。そしてその不安は、自分も罹患するかもしれないという怖れだけではない、どこかでだれかが見えない理不尽な力によって死んでいっている、ということに対する嘆きやかなしみや怖れでもある。その「どこかのだれか」を想う心が共有され、たちまち世界中に拡がっていった。一地域限定の災害と違って疫病は世界中に拡がってゆくし、今やインターネットも発達しているし、さらにはウイルスの正体や治療法もまだわかっていないという不安もある。すなわちその「不安」は「好奇心」でもあり、そうやって世界中に拡がっていった。

「わからない」からこそ、世界中がけんめいに対策を探究しているときに、この国の政府官僚ばかりが「放っておいてもそのうち終息する」と決めてかかって場当たり的な対応ですませてきた。そのために国民はますます疑心暗鬼が募り、そのあげくにトイレットペーパー騒ぎが起きたりする。

おそらくこの国のコロナウイルスのキャリアの数は、政府発表の10倍はいる、いや100倍はいるだろう、とだれもが思っている。

ここまでくればもう、今回の感染拡大に対してこの国の政府の考えていることややっていることがいかに場当たり的で支離滅裂かということは世界中に知れ渡り、当然のように批判されまくっている。彼らには、世界基準の「危機管理」とか「安全保障」のたしなみがまるで欠落している。そんなことでは世界としても大迷惑だし、また隙だらけだから抜け目のない国にかんたんにしてやられたりする。

ほんとにもう、世界中に恥をさらしまくっている。

 

 

この国の権力者ほど民衆の心から遊離してしまっている者たちもいない。そのことを、われわれはあらためて思い知らされた。彼らは伝統的に、民衆を強く支配しつつ、民衆から見放されてしまっている。つまり、両者のあいだに「契約」や「連携」の関係がないのがこの国の伝統なのだ。

日本列島では、権力社会から独立した民衆だけの自治の伝統がある。

とはいえ、このような事態になればとうぶん選挙はしないのだろうし、このままこの醜悪な政権が続いてゆくことになる。

また、選挙になったとしても、野党が勝てる可能性は低い。なぜなら、民衆の心を集めるスターがいないからだ。

山本太郎をリーダーに担ぎ上げて結束すれば風が吹く可能性もあるが、既存の野党どうしの駆け引きとか意地の張り合いとかで、いまのところそんなふうに動く気配はまるでなく、またまたみじめな敗北の選挙で終わることだろう。そんなことを、何度繰り返せば彼らは気がすむのか。まあそういう結果に終わっても、現在の政治家たちは政治家であり続けることができるし、枝野幸男玉木雄一郎は党首の座に座り続けることができる。

というわけでけっきょく、政治家たちは与党も野党もそれぞれの地位と既得権益は安泰のままで、末端の民衆だけがさらに窮迫してゆくことになる。

選挙に行かないサイレントマジョリティが立ち上がって選挙に行かなければ世の中は変わらないし、サイレントマジョリティの心を動かす可能性を持った政治家は、今のところ山本太郎以外には見当たらない。

しかし野党共闘をするといっても、山本太郎が他の野党の党首と互角に渡り合おうとするなら、れいわ新選組がもっと大きくなる必要がある。そのためには、今まで選挙に行かなかったサイレントマジョリティが大挙してれいわ新選組の活動に参加してゆくという現象が起きてこなければならないのだが、残念ながら今のところそうはなっていない。彼が街頭演説をすれば1000人も2000人も聴衆が集まってくるのだが、その熱気がそのまままれいわ新選組の人気になっていない。けっきょく彼が、仲間内の教祖様になっているだけで終わっている。

たぶん、れいわ新選組の名前を広げる戦略が決定的に間違っているのだ。

現在の山本太郎とそのまわりのスタッフたちは、れいわ新選組の地方組織は作らないというか党員は募集しないという方針を決めている。このことを「なぜか?」と問われて山本太郎は、「みなさんは<主体的>に立ち上がってみなさんの組織をつくり、その上でれいわ新選組と連携してゆきましょう。そういう<有象無象>の集団がいちばん強いのです」と答えている。

一見もっともらしい答えのようだが、じつはまったく薄っぺらな屁理屈である。

たしかに無主・無縁の「有象無象」の集まりこそもっとも人間的な集団であり、そういうかたちになってこそ、無限に広がり大きくなってゆくことができる。しかし、「主体的」に立ち上がった人々のことは、「有象無象」とは言わない。主体的ではない集まりのことを「有

象無象」というのだ。

近代合理主義に使い古された「主体」などという言葉=概念をありがたがっているのは今や時代遅れなのであり、そもそもあなたは「主体」という言葉の意味がちゃんと分かっているのか……と山本太郎に言いたい。

 

「主体的」であることの究極は、「今だけ金だけ自分だけ」という目的に執着している状態である。そうやって集団はきつく結束したり、またそれゆえに固定化されたまま大きくなってゆくことができなかったり、さらにはそうした自我(=主体)と自我(=主体)がぶつかり合って集団が空中分解してしまったりする。

主体的な集団は、内部で権力争いをし、外部とは戦争をする。したがってそこでは、ゆるく広くつながり合って連携してゆくという関係は生まれてこない。

主体的な集団の典型は、帝国主義国家である。それは「自我の確立」をスローガンとする近代合理主義とともに生まれてきた。そうやって明治維新から太平洋戦争の無残な敗戦に至る歴史を歩んだこの国は「国体」という名の「主体」を標榜してゆき、個人はその「国体」に憑依しながら「主体=自我」の確立を目指した。

「自我=主体」という概念は、近代合理主義のもとで育ってきた。しかしそれは日本列島の伝統にはないもので、だからこそこの国を席巻し、だからこそなんだかひねこびたかたちで定着していった。つまり、「自我=主体」を否定する文化の歴史を歩んできた者たちが、まるで新しい玩具に飛びつく子供のように夢中になっていったあげくに自家中毒を起こし、あの無残な敗戦へと突き進んでいった。

「無常」とか「あはれ・はかなし」という世界観や生命観で「自我=主体」を消してゆく文化が伝統の日本列島で「自我の確立」というスローガンを信じ込むと、ただの「自意識過剰」の「自家中毒」になってしまう。日本人が近代合理主義に洗脳されてしまうと、ろくなことにならない。

まあ、西洋には西洋の歴史があるし、日本列島には日本列島ならではの世界観や生命観の歴史がある。西洋の歴史は文明社会の病理を引きずりながらそれを克服しようとしてきたし、日本列島のそれは、原始社会の健康な集団性の文化を残しながら文明社会に対するあこがれを生きてきたことにある。だから、他愛なく文明社会の近代合理主義に洗脳されてしまったのだが、しかしそれは、原始性を色濃く残した日本人には消化しきれない思想だった。

 

人間は「自我=主体」を捨てて「有象無象」になれるからこそ、ゆるやかにつながり連携しながら無限に大きな集団になってゆくことができる。

だから、山本太郎の「有象無象の集団になってください」という主張は正しく普遍的である。しかし「有象無象」とは「主体的」になれない者たちのことであり、そこのところを彼はわかっていない。

「有象無象」の集まりであることこそ人類の普遍的な集団性であり、日本列島の伝統でもある。

もちろん「有象無象」ということには、ネガティブな面もあればポジティブな面もある。

あの極東裁判では、A級戦犯の者たちですら、戦争をしようとする意思の有無を問われたとき、だれもが一様に「あれは会議の<なりゆき>だったのであって自分が率先して主張したのではない」と答えている。この国の会議なんて、国会だろうと会社だろうと町内会だろうと、有象無象の集まりよろしくだらだらと続いて、なかなか決まらない。

「有象無象」とは主体的に立ち上がることをしない者たちであり、その代表が選挙に行かない者たちだ。山本太郎とそのまわりのスタッフたちはその「れいわ新選組」という名前を自分たちで独占しないで、いったん支持者のみんなに差し出す必要がある。差し出されてはじめて立ち上がるのが、「主体的」ではない存在である「有象無象」の習性なのだ。

山本太郎は、選挙に行かない50パーセントの人たちに「一緒にこの腐った世の中を変えていきましょう」と呼びかけたい、というが、このままでは彼ひとりが教祖様になるだけで、れいわ新選組の党勢が拡大してゆくことははなはだおぼつかない。

山本太郎の現在の人気からしたら、れいわ新選組の支持率だってとっくに10パーセントを超えていてもおかしくないのだが、依然として2パーセント前後を上下しているだけである。NHKや大手新聞に取り上げられないから、という言い訳は成り立たない。口コミだけでも日本列島を席巻することはできる。トイレットペーパーの騒ぎなど、一日で日本中を駆け巡ったではないか。それはまさに「有象無象」の連携によって生まれてきた現象なのだ。

人間性の自然・本質は「有象無象」であることにあり、それによって集団の活性化と拡大が起きる。

 

僕は山本太郎とれいわ新選組以外に現在のこの国における政治の希望はないと思っているひとりだが、彼らの組織運営に対しては「いきがって何をばかなことしてやがる」といいたくなることがいくらでもある。

「主体」などという言葉を振り回ししていきがっているんじゃいよ、ということ。

素粒子理論だか何だか知らないが、現在の物理学の最前線では、「すべての物質の内実はスカスカの空間である」という認識になっていて、だから量子がそこを突き抜けてゆくことができるらしい。つまり、物質の「主体」などというものはない、ということで、それを仏教では「色即是空・空即是色」という。そして現在の最先端の哲学でも、「自己=主体」などというものはない、という問題意識が主流になってきている。

科学においても哲学においても、「物質」とか「存在」とか「主体」とか「自己」とか、そういう問題設定が反省される時代に差し掛かっている。「非物質」とか「非存在」とか「空間」とか「客体」とか「他者」とか「受動性」とか、そういうアプローチをしないと解けない問題がさまざまに現れてきている。

「意識」の発生においては、最初に「他者」や「世界」が発見される。そしてそのあとにようやく「自己」の存在に気づく。

「意識」は、本質において「他者」や「世界」に気づく装置として生成している。そしてそのとき、「自己」の存在にはまだ気づいていない。「自己」などなくても「他者」に気づくことができるし、「自己」を忘れているときにこそ「他者」の存在に深く気づいている。

「意識はつねに何かについての意識である(現象学)」……ということはつまり、「意識」は「他者」と「自己」を同時に意識することはできない、ということだ。

人は、自分のことを忘れて他者にときめいている。だから、大きな集団をつくることができる。「主体的」であっては、大きな集団になることはできないのだ。

僕は、「主体的」という言葉を正義か真実であるかのようにして振り回されると、胸がむかむかする。れいわ新選組には大いに期待しているが、期待がかなうことにいささか悲観してもいる。

 

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蛇足の宣伝です

キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたものです。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

コロナウイルスは天使からの贈り物である

歳をとると、「可能性」のことよりも「不可能性」のことを想う。

ここでいう「どこかのだれか」とは、「いつかどこかで会うかもしれない相手」ではなく「永久に出会うことのない相手」のことだ。

どんなに若くて行動範囲や交際範囲が広い人でも、一生でこの地球上で出会える人はほんの一部でしかなく、出会うことのない人の方が圧倒的に多い。その、出会うことのない人に対する出会う人の割合は、だれにおいても限りなくゼロに近い。そういう意味では、すべての出会いが「奇跡」である、ともいえる。また、「どこかのだれか」を想うことは無限の人と出会うことでもある、ともいえる。

人の心は、「不可能性」を想う。そしてそれは、無限の「可能性」を想うことでもある。そうやって人は、「どこかのだれか」のことを想って生きている。

「人類みな兄弟」とか「地球はひとつ」といえば陳腐で臭いセリフだが、たしかに人類は、存在そのものにおいてすでに地球規模のネットワークを持っている。

人と人が出会って言葉を交わしたりセックスをしたりするその関係性は、地球の隅々まで広がってゆく。「あなた」の心は、地球の隅々まで伝播してゆくし、地球の隅々の心は「あなた」のところまで伝播してきている。アマゾンの一羽の蝶の羽ばたきからはじまる無限連鎖の果てに日本列島で大災害が起きた……ということはたしかにありうる。すべての存在は、地球規模、いや宇宙規模の関係性の中に置かれている。

 

たとえば、日本語はどこから伝わってきたかというようなことはなく、地球上のすべての人類が言葉を生み出すような集団性を共有していたのであり、すべての地域で独自に生まれてきたのだ。つまり地球上のすべての地域が関係し合いながら、すべての地域で言葉が生まれてくる集団性になっていったのだ。言葉が生まれてくるような集団性を持っていなければ、言葉を伝えることなんかできない。つまり、すでに言葉を持っている集団だから、言葉を伝えることができる。

言葉が中国から伝わったとか朝鮮から伝わったとかと問う以前に、言葉が生まれてくる関係性を持った集団はどのようにして生まれてくるか、という問題がある。

まあ「言葉の起源」はかんたんに語り切れないややこしい問題であるが、とにかく言葉は、「どこかのだれか」を想うようなメタフィジカルな思考がなければ生まれてこない。

「かなしい」という音声がどうして「かなしい」という感情をあらわしていると認識することができるのか。それは、思考における超越的な「飛躍」であり、音声は、異次元の世界から現れて、異次元の世界に消え去ってゆく。つまり人の心が音声に憑依することは「異次元の世界=どこかのだれか」に憑依することであり、そうやって人類は、地球上のすべての地域が「言葉が生まれてくる関係性=集団性」になっていった。

チンパンジーがいまだに言葉を話さないように、言葉は、言葉が生まれてくる「不可能性=超越性」の上に成り立っている。

 

「どこかのだれか」を想うことは、「不可能性」を想うことだ。そこに、人間性の自然がある。それは、「不可能を可能にする」ということではない。「不可能性を抱きすくめてゆく」ということ。その超越的な思考によってこの生が活性化し、人類の歴史は進化発展を遂げてきた。イノベーションとは、超越的な世界に向かって「飛躍」することだ。

「進化」とは、「可能なことを計画する」ことではない。「不可能性を抱きすくめて身もだえする」ことによって「進化=イノベーション」が生まれてくる。

現在のコロナウイルス肺炎のことが世界的に大騒ぎになっているのは、情報過多や情報隠蔽の疑いによって必要以上に人々の「不安や恐怖」が増幅されてしまっているからだ、といわれたりしているが、それだけの話ではない。もともと人類は、だれもがつねに「どこかのだれか」のことを想いつつ、地球規模で情報を共有してゆく生態を持った存在なのだ。原始時代はそのことに数万年の時間を要したが、現在では一瞬でそれが可能になっている。それだけのことで、本質的には同じなのだ。

人の心はつねに「どこかのだれか」のことを想っている、ということ。たしかに現在は世界中に「不安と恐怖」が広がっているという事実はあるにせよ、世界中の人々が「どこかのだれか」のことを想いつつそうした「人恋しさ」を共有しているという人間性の本質もはたらいているのであり、だれもが「どこかのだれか」に対して「生きていてくれ」と願っているからこそ、世界中で協力してコロナウイルスを封じ込めようとするムーブメントになっている。

こんなにも大げさになっているのは、ただの「不安と恐怖」だけの話ではない。目の前の人間に「不安や恐怖」を刺激されるとしても、「どこかのだれか」はそのような対象ではなく、ひたすら「生きていてくれ」と願うことができる。人と人は、たがいにもっとも遠い存在になることによって、もっとも深く豊かに愛し合うことができる。愛は、愛の不可能性においてもっとも深く豊かになる。そうやって人は、他者の死に深く涙している。

この地球上ではいつもどこかでだれかが死んでいっているが、ふだんはだれもそんなことは意識しない。疫病や災害の情報があったときにはじめて意識し動揺する。とくに疫病は世界中に拡がってゆくから、よけいに不安が募るし、「生きていてくれ」という願いも切実になる。なんのかのといっても今回のコロナウイルス騒ぎによって、世界中がそういう願いを共有している。

 

そういうネットワークの意識を共有していないのはこの国の政府官僚たちばかりで、それが情けない。まあネトウヨたちが急に政府の場当たり的な対応を批判しはじめたことだってこの国が生き延びることだけが眼中にあって、世界のことなど何も心配していない。どっちもどっち、ということだろうか。どっちも自意識過剰で、「どこかのだれか」を想う心が著しく欠落している。

われわれは、自分が生き延びるために国のコロナウイルス対策を要望しているのではない、「どこかのだれか」が死んでいっていることに動揺しているからであり、「どこかのだれか」が生きていてくれることを願っているからだ。ここのところで権力社会とわれわれ民衆社会の意識に大きな乖離がある。この国には、両者のあいだに「契約関係」がないから、権力者は民衆の命や生活を守ろうという意識なんかほとんどない。それはもう、あの悲惨な戦争で思い知らされたはずだが、因果なことに忘れっぽい民族だから、権力社会にやりたい放題やられて、何度でも同じ目にあってしまう。

今回のコロナウイルス騒動は人々の「不安と恐怖」によって引き起こされている、というような上から目線の分析が多くの知識人のあいだで語られているが、それだけでは問題の本質を半分しか語っていない。

何はともあれ人々は「どこかのだれか」が死んでいったことに動揺しているのであり、それは自分が生き延びるための「不安と恐怖」というだけではすまない。

人が人を想うことは、すべからくひとつの「動揺」だともいえる。

他者を想うことは自分に貼りついている意識が引きはがされる体験であり、そのようにして「動揺」する。

「意識が自分に貼りついている」とは、自分の外のもうひとつの自分が自分を見ている状態であり、その「見ている自分」と「見られている自分」は、いったいどちらが「ほんとうの自分」であるのか?これは、大問題だ。しかし意識が自分から引きはがされて他者に憑依しているときにこそ二重に引き裂かれた自分が統一されているわけで、その「憑依している自分」こそ「ほんとうの自分=即自」だともいえる。

意識は、自分の頭の中ではたらいているのではなく、頭の外のどこか「異次元の空間」ではたらいているように感じられる。そのようにして自分は自分の外にあり、そのようにして人は「どこかのだれか」を想っている。

「動揺する心」こそもっとも人間的な心であり、そうやって人は、他者を想ってときめいたりかなしんだりしている。だから今回のコロナウイルス騒動のことを、単純に「不安と恐怖」という言葉だけで片づけてもらいたくない。

 

人が人を想うことは、いろいろとややこしい。近くにいれば鬱陶しくもなるし、近くにいても「どこかのだれか」を想うように「遠いあこがれ」を抱いて向き合っているならときめいていられる。人が人を想うことの根源本質は、「遠いあこがれ」の上に成り立っている。

だれの心=意識も自分の頭の外の「異次元の世界」ではたらいているのであり、そこにおいて心=意識はもっとも活性化するし、人が近くにいれば心=意識が自分に向かって逆流して自分に貼りつき、それで停滞し鬱陶しくなってしまう。

近くにいる他人が鬱陶しいということは、鬱陶しいと思っている自分が気になってしょうがない、ということだ。

心=意識を自分のもとから引きはがし、自分を忘れているときにこそ、心=意識は豊かにときめいたり深くかなしんだりする。

今回のコロナウイルス騒動でその「不安や恐怖」から他人や他民族を差別したり排除しようとしたりするのはひとつの自意識であり、それはきっと近代社会の意識であって、原初以来の普遍的な人間性だとはいえない。その「不安や恐怖による排他性=共同性」の奥に、普遍的な人間性としての「人恋しさ」がはたらいている。

現在のこの世界がコロナウイルス対策にがんばっているのは、ただ単に「自分が生き延びたいから」というだけの理由ではない。人類のだれもが心の奥で「どこかのだれか」に「生きていてくれ」と願っているからだ。

「大変だ」と騒ぐのも「たいしたことはない」と多寡をくくるのも違う。現在の世界で突然生まれたこのネットワークは人間性の自然であり、世界が新しい時代に漕ぎ出す契機になるかもしれない。

まあ今回のことによって、世界的にこれまで以上に極端な右傾化と新しい社会民主主義との両極の動きが加速してきているのかもしれないが、醜悪なヘイト右翼はもうこりごりだし、この国では総理大臣以下のそうした右翼が追い詰められている状況になってきたともいえる。今選挙をすれば、彼らは大負けするかもしれない。しかしとうぶん選挙はしないのだから、このままその醜悪な権力が延命してゆくのだろうか。

みんなで大騒ぎすればいい。これは「不安と恐怖」だけで起きているのではない。ひとつの「祭り賑わい」でもあり、人類滅亡はめでたいことだ。その「混沌」の中から異次元の「新しい時代」が生まれてくる。みんなが「どこかのだれか」のことを想っている「新しい時代」が生まれてくる。

 

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初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたものです。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

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どこかでだれかがコロナウイルスで苦しんでいる

この国の政府場当たり的による場当たり的なコロナウイルス対策のことで、欧米からのさまざまな批判を浴びているらしい。

そりゃあそうだろう、こんなにも愚劣で醜悪な政府や官僚がしていることだもの。彼らはもう、そういう「今だけ金だけ自分だけ」という路線を突っ走って後戻りできなくなってしまっている。

厚生省の橋本岳という副大臣は、ダイヤモンドプリンセス号に防疫体制が整っていないことに心配した感染症の専門家の大学教授が勝手に船に入ってきた、と言って怒っていた。いまは専門家を集めて対策を練らねばならないときのはずなのに、彼らにとっては政治家の「政治的な判断」によってあいまいなままごまかしてしまうことの方が大事だと考えているらしい。そうしてひとまず陰性だが潜在的には保菌者の可能性のある日本人乗客の500人を下船させ、そのまま横浜駅であっさり野に放ってしまった。

何をしているのだろう。今はまだ危機的な状況ではない、と思い込ませたいのだろうか。民衆をだまして上手に操ってゆくのが彼らにとっての「政治」というものであり、だましおおせているかぎり自分たちは安泰だと思っている。

現在の支配者たちやマスコミは、あの太平洋戦争の大惨敗にいたるまで突っ走っていった昭和前期とそっくりのていたらくだともいわれている。知識人や民衆だって、権力者の庇護を受けて右翼的な連中ばかりのさばっている。彼らは「日本人に生まれてよかった」と大合唱しながら自分たちがさも伝統主義者のようにふるまっているが、彼らほどこの国の真の伝統から外れている者たちもいない。日本の恥さらしだ。この国が彼らのような自意識過剰の差別主義者ばかりであるはずがないし、政府官僚のあのコロナウイルス対策のように彼らによってこの国が貶められている。

日本人は、「日本人に生まれてよかった」などとは思わない。そこが、アメリカ人やフランス人やイギリス人とは違う。

日本人にとっては「日本人」であることも「自分」であることも「あはれ・はかなし」でしかないのであり、そういう「心もとなさ」を抱きすくめてゆくとこに日本文化の伝統がある。

日本人が日本人であることや自分ということの意味や価値に執着するようになったのは、明治以降に欧米の近代合理主義に洗礼を受けてからのことだ。

もともと自意識の薄い民族で自意識の扱い方をよく知らないから、一度感染すると自意識だけで突っ走ってしまうことになるのかもしれない。

今やもう、総理大臣以下の政府官僚から下層のネトウヨにいたるまで、自意識に凝り固まったまま、客観的な思考がまるでできなくなってしまっている。こんな連中が、いったいどれほど適切なコロナウイルス対策ができるというのだろう。またもやあの太平洋戦争のときのような自滅への道に引きずり込まれてゆくのだろうか。

彼らはきっと、このまま何の心配もないような顔をしながらオリンピックの開催を迎えるつもりなのだろう。彼らにすれば、国民の100人1000人がコロナウイルスで死んでも痛くも痒くないことだし、1万人になってもまだ平気な顔をしていることだろう。何が何でもオリンピックのほうが大事で、オリンピックさえやれば自分たちの天下はまだまだ続くと思っている。世の中や民衆がどうなろうと知ったことではない。自分たちの天下が続くことが大事なのだ。

しかしこのまま国内の感染が拡大してゆけば、やがて世界中の国の選手団が「日本には怖くて行けない」というようなことになるかもしれない。そうなったほうがいいのだろうか。あの醜悪な連中による支配から解き放たれた新しい時代に分け入ってゆくためは、われわれはもうそれを祈るしかないのだろうか。

 

権力社会と民衆社会の乖離は、この国の伝統的な社会構造になっている。両者のあいだに西洋のような契約関係がないから、権力者の支配はつねに一方的で、民衆社会もまた自分たちの自治の流儀を持っている。権力たちは権力闘争に明け暮れ、平気で殺し合いもする。一方民衆社会では他愛なくときめき合い助け合う集団運営の作法を育ててきた。

人は、正義によって人を殺す。愛によっても殺す。そんな関係性の上に成り立っている権力社会に対して民衆社会では、ただ他愛なくときめき合っているだけだから、相手を縛る愛も相手を裁く正義も希薄なままで集団運営をしている。日本列島は両者のあいだには契約関係がないから、集団運営の作法がまるで違う歴史を歩んできた。

権力社会では愛や主従関係によってタイトに結束する集団がつくられるが、激しい殺し合いもする。

しかし民衆社会は、無主・無縁の「祭りの賑わい」を基礎としたゆるい関係で広くつながっている。

縄文時代はひとまず階層のないすべてが民衆の社会だったわけだが、日本列島全体がゆるく交流しながら同じ文化を共有していた。ネアンデルタール人がヨーロッパ中で同じ石器文化と身体形質を共有していたように、縄文時代の遺跡からもまた列島中で「土偶」が掘り出されているし、糸魚川のヒスイは列島中にばらまかれていた。縄文時代の日本列島は国家ではなかったが、まぎれもなく全体でひとつの集団であり民族だったといえる。

そのあと弥生時代以降に大陸文明の影響を受けながらいくつかの小国に分かれていったわけで、縄文時代の列島集団は国家共同体よりももっと大きな集団だったともいえる。そうしてそのあと列島を統一した大和朝廷は、奈良盆地というもっとも原始的でもっとも大きな都市集落から生まれてきたのであり、けっきょく「他愛なくときめき合い助け合う」という原始共産制の習俗を残した集団こそがもっとも大きな集団になることができるのだ。

日本列島の民衆社会は、権力闘争という対立分断が起こる権力社会とは別の原始共産制の習俗を残した集団性を伝統的に守ってきたし、そういう集団の方がじつはゆるくつながりながらもっと大きくなってゆくダイナミズムを持っているのだ。

だからまあ、時代の気分で列島中がひとつになって戦争に邁進してしまったという負の側面もあるわけだが、それ自体、現在のこの時代のような対立や分断が起きにくいということでもある。

「民衆」とは、基本的にひとりひとりが無主・無縁の「はぐれもの」であり、だからこそその「心もとなさ」を共有しながらゆるく広くつながってゆくことができる。「女、三界に家なし」とは、この国の「民衆」のことでもある。

この国の民衆社会の気分は、女がリードしている。

この国の政治は、女たちが立ち上がらなければ、民主主義の新しい時代に漕ぎ出してゆくことはできない。

 

この国においては、政治家であれ知識人であれ、どんなに優秀なエリートだろうと、近代合理主義に洗脳された思考では冷静で客観的な判断ができなくなってしまう。そして因果なことに民衆は、「エリートの考えることは正しい」と信じてしまう傾向がある。この国では、右翼であろうと左翼であろうと、近代合理主義に洗脳されるとただの自意識過剰の思考に変質してしまう。とくに戦後はだれもが他愛なく自意識過剰になってしまって、西洋人からは、日本人は近代合理主義の扱い方が幼稚すぎる、と批判されている。

男は、時代の空気や社会の制度に染められやすい。なぜなら、子供のときから「大人になったら世の中に出て働く」ということを前提に育てられるからだ。女だって、「世の中に出て働く」ことを目的に育ってくれば、近代合理主義に洗脳された思考になってゆく。

近代合理主義の行き着く果てに「新自由主義」や「グローバリズム」があるのだし、それは「自我の確立」とか「自己実現」というようなことにこだわって「客観的」な判断ができなくなっている思考の産物だ。「自我=自己」にこだわっていれば、とにかく他人より上の存在になりたいのだから、「他愛なくときめき合い助け合う」という「原始共産制=民主主義」の関係はつくれない。

今回の政府官僚のコロナウイルス対策だって、慌てふためいて手をこまねいているというのではなく、自意識過剰の当人たちは大まじめで正しく適切な対策を取っているつもりでいる。そこが怖いところだ。それはたぶん自分たちの既得権益を守るためには正しい政治判断で、感染拡大を防ぐためのものではない。民衆が1000人死のうと2000人死のうと、彼らにとってそれは単なる数字でしかない。

今や世界中の国や企業でものすごくえげつないレベルの政治経済的な駆け引きがなされ、民衆の切実な祈りも湧き起っているのだろうが、この国の政府官僚や資本家等の支配層は、いぜんとしてのうのうと「今だけ金だけ自分だけ」という既得権益の虎の穴に居座ることばかりに終始しているらしい。

国民に対して「がんばってやっている」といえば、がんばってやっているように思わせることができる、と彼らは思っている。国民とは支配し操る対象である、と思っているし、かんたんに支配し操ることができる、と思っている。支配し操っておけば自分たちの既得権益は安泰だ、と思っている。国民の幸せなんかどうでもいい、自分たちの幸せ=既得権益が大事だ。「自我の確立」と「命の尊厳」がスローガンの近代合理主義は、この国でそういう人間たちを生み出した。

自我が薄く命なんかあわれではかないものだと思っている日本人に、近代合理主義の「自我の確立」とか「命の尊厳」とかの概念を吹き込んで洗脳してゆくと、そういう「今だけ金だけ自分だけ」に人間が出来上がってしまう。

現在の政府や官僚のコロナウイルス対策はもう、「今だけ金だけ自分だけ」で客観的な思考を失ったまま完全にトチ狂っていて、世界中の国があきれ果てている。オリンピックも、どうなることやら。

 

主体性……自尊心……セルフリスペクト……僕は、今どきの世の中で合唱されているこういういかにもな正義の言葉が嫌いだ。

山本太郎は、困難な状況に置かれている下層の聴衆に向かって「生きててくれよ」と訴えつつ、その一方で「自分には生きている価値があると思ってください」ともいう。しかし後者のいい方は余計なお世話だ。

僕は、「自分は生きている値打ちなんか何もない人間のクズだ」と思っている。そう思って何が悪い?そういう思いは、だれにだってあるだろう。山本太郎だってそういう思いがあるからこそ、自分の命も人生も投げ打ってみんなを救いたいとがんばっているのだろう。

人間は「自分(の命)」を否定している存在であり、だからこそときには「もう死んでもいい」という勢いで他者に命を捧げてゆくこともできる。自分が生きてあることの根拠などない。「自分の命」は、他者が生きていることの上にしか成り立たない。だから、他者を生きさせようとする。人類史の集団は、そのような関係性によって無限に大きくなってきた。

生きることはひとつの「自傷行為」であり、人の心の「自己否定」を否定するべきではない。主体性も自尊心も持っていないのが人間性の自然なのだ。だからこそ人と人はわれを忘れて他愛なくときめき合い助け合う関係性の集団をつくることができる。人類の歴史は、そういう原始共産制的な関係性を根底のところで共有しているから、国家とか、さらには国家のレベルを超えた地球規模の無限に大きな集団をつくることができるようになってきたのだ。

より大きな集団になってゆくのが人間性で、より小さくて原始的な関係性の片隅の集団をつくるのもまた人間性の自然なのだ。

日本列島の歴史においては、たくさんの小さな国が分立していた弥生時代よりも、縄文時代のほうが列島全体でひとかたまりの集団社会になっていた。それは、支配と被支配の関係のない無主・無縁の社会だったからで、そうやってゆるく広くつながっている社会だった。

支配と被支配の関係のない無主・無縁の集団は社会の片隅で生成しているし、そういう関係性が豊かに生成している社会であるとき、はじめて無限に大きな集団になってゆくことができる。

そうやって今、世界中でコロナウイルス対策にがんばっているし、近代合理主義に洗脳されたこの国の政府官僚たちだけが「今だけ金だけ自分だけ」の無為無策でやり過ごそうとしている。

そんなに今が大事か、そんなに金が大事か、そんなに自分が大事か……ポストモダンの新しい時代はそこから解放されるところからはじまるし、だれの中にも「この生には何の意味も価値もない」という思いはある。だからこそ人はまわりの他者を生きさせようとするわけで、コロナウイルス対策の世界的な広がりは、まわりの他者を生きさせようとするムーブメントであって、自分が生き延びるためのものではない。そして人間にとっての「他者」とは見知らぬ「どこかのだれか」であって、自分や自分たちの既得権益の仲間のことではない。

なんのかのといっても人と人の関係は、根源的には支配と被支配のない無主・無縁の関係として広がり発展してゆくのだ。わかる相手と分かり合うのではなく、わからない相手に「なんだろう?」と問うてゆくことによって大きな広がりが生まれてくる。

 

現在のコロナウイルス肺炎は今までのインフルエンザ以上に怖いものでもないなどともいわれているが、だからといってもはや国内だけでやり過ごせるものではなく、世界中に広がってしまっている。

この国の政府官僚は、はたして世界基準の防疫対策をちゃんとやっているか?ちゃんとやらないと、この国だけでなく、アジア全体が幻滅され差別される。もはやこの国だけ良ければいいというわけにはいかない。

10万年前だろうと千年前だろうと現在だろうと、速度の違いはあっても人間のすることや考えることは地球全体に広がってゆく。それが、直立二足歩行の起源以来の人類の歴史だったのだ。

人は、「片隅」を生きながら、しかも「どこかのだれか」のことをつねに想っている。人類の思考と行動の「世界性=超越性」は、じつはそういうところにあるわけで、「片隅」を生きることは「世界」を生きることでもある。

僕は人類絶滅がべつに不幸なことだと思っていないし、現在のコロナウイルスの世界的な感染拡大に対してどうすればいいのかとかどうなるのかということもまったくわからないのだが、人間は世界的地球規模的な存在なのだなあということを改めて思い知らされた。

やっぱり人は、「どこかのだれか」を想っている存在なのだ。

「どこかのだれか」は、憎むことも殺すこともできないし、愛することも抱きしめることもできない。人の心は、その「不可能性」を想うことによって、世界に広がってゆく。

その「愛の不可能性」が愛なのだ。人は根源において、だれも愛することも憎むこともできない。ただもう、ひたすら「想う」ということをしているだけの存在なのだ。

「あなた」の何が好きかとか嫌いかとかということもない。ただもう、「あなた」がこの世に存在しているというそのことを大切に想っている。

今この瞬間においても、この世のどこかでだれかが生まれ、だれかが死んでいっている。それを想っただけで、心はときめいたり動揺したりしてしまう。この世の中の「どこかのだれか」がコロナウイルスで死んでゆこうと自分にとっては大した問題ではないはずなのに、それでも心は動揺してしまう。自分にもその危険が及びそうだからではない。人の心は、「自分」の中にではなく、「どこかのだれか」のもとにおいてはたらいているからだ。

人の「意識」は、自分の頭の中ではなく、頭の外の「どこか」ではたらいている。したがって「どこかのだれか」を想うことは、生きものとしての脳のはたらきの自然であり本質の問題なのだ。「意識」のはたらきは、「どこかのだれか」を想うようにできている。

そうやって今、世界中がコロナウイルス対策に励んでいる。韓国や中国だってそれなりに世界に対して仁義を果たそうとしているというのに、この国の政府官僚たちだけがのんきにやり過ごそうとしている。いや、必死になってできるだけ何もするまいとしている、ということだろうか。国民に何も考えさせないことが彼らの支配の流儀で、嘘の上塗りを重ねながらひたすら正義を装う。客観的に見れば、その態度は何から何まででたらめなのだけれど、当人たちは大まじめでそれが正義だと思っている。そうやって体裁ばかり繕っているわけで、そんな自意識過剰の「国体護持」という正義に邁進しているのだ。

この政治状況は、ある意味日本的であると同時に、日本的ではない。日本人が近代合理主義に洗脳されるとそういうことになってしまうわけで、そのはじまりは明治維新の「脱亜入欧」にあり、戦後の占領軍支配によってさらに加速したのかもしれない。

 

今どきは、多くの政治家や官僚が自意識過剰になってしまって客観的な判断ができなくなっている。いや、彼らだけでなく、日本人全体がそうなってしまったともいえる。とはいえそれはあくまで「政治的な状況」であって、その対極にある民衆社会の「生活感情」においては明治以前の遠い昔から引き継いできたものが今なお息づいているはずで、良くも悪くも日本人が日本人でなくなったわけではあるまい。

こんなふうにおかしくなってしまったのも日本人だからだろうし、日本人だからこそというか日本人としての解き放たれる道というのもあるにちがいない。

日本人の可能性と限界というのがあるし、それはもう世界中どこの国でもそうだろうし、「日本人に生まれてよかった」などというのはただの思考停止だ。そんな自意識過剰のことを合唱しながら、ろくなコロナウイルス対策もできない国になってしまったのだ。

「日本人に生まれてよかった」などということをいわないのが日本人なのだ。日本人にとっては自分も自分の国も「あはれ・はかなし」のものでしかないのであり、たしかな存在は「他者」であり「どこかのだれか」なのだ。いや、それはたぶん、日本人だけではない。そうやって人の心は、世界中に広がり繋がってゆく。その想いをもっとも豊かにそなえているのが日本列島の伝統であり、同時に、近代合理主義に洗脳されてその想いをもっとも忘れ果てているのが現在の日本人であるのかもしれない。

現在の政府官僚がコロナウイルス感染の実態をできるかぎり隠蔽してやり過ごそうとしているのは、オリンピックとかインバウンドの経済問題とかを考えた「政治的判断」であるのだろうし、彼らはそれをもっとも「合理的」だと信じている。それがもっとも「合理的」な「国体護持」の方策で、もっとも「合理的」な「既得権益の維持」の方策だ、ということだろうか。

今回のコロナウイルスの騒ぎは、彼らの目論見通りこの先の1~2か月で無事に終息するのだろうか。そうはいかないような気もするが、いずれにせよこの国の政府官僚の無為で不誠実な態度は、自国の民衆からも世界からも大いに幻滅されたにちがいない。

その対策をどれだけ厳密にするかということは、さまざまな意見があるのだろう。厳密にしなければいけないのか、しなくても大丈夫なのか、僕にはそういうことはよくわからない。そしてできるかぎり厳密にしようというのは必要以上に「不安」や「恐怖」に駆られているからだという意見もあるのだろうが、人間はもともと存在そのものに「不安」を負っている存在であり、できるかぎり厳密にしようとするのもひとつの人間性の自然だともいえる。

自分が生き延びるためではない、人間とは「どこかのだれか」を想っている存在であり、「どこかのだれか」を生かそうとしている。そうやって地球規模の防疫態勢の構想が共有されてゆくのは、現在のようなグローバル世界ならとうぜんの成り行きであるのかもしれない。

現代人は金のこととか人間関係とかさまざまな不安や不満を抱えて生きているからその「強迫観念」を水源にしてそうした必要以上の「不安や恐怖」が噴出しているのだというようなうがった意見もあるが、そういうこと以前のもっと根深く本質的な実存の問題がある。幸せでストレスなど何もない人だって地球規模の厳密な貿易体制を願っているし、だれよりも純粋で清らかな魂の持ち主の人ならなおのこと、「どこかのだれか」が死なないですむことを深く願わずにいられない。

良くも悪くも人の心は、地球規模に広がってゆく。地球規模で防疫体制を取ろうとするのは人間性の自然であり、この国の政府官僚ばかりが知らぬ半兵衛を決め込んで、世界からも国内からもひんしゅくと幻滅を買っている。

 

今回のコロナウイルスのことに関しては、現政権の身内である右翼の側からも批判の声が上がっている。それはまあ、自意識過剰で強迫観念の強い彼らの「不安と恐怖」を刺激しているからだろう。

しかし問題の本質はそのような強迫観念だけにあるのではない。

もしかしたら今回のことに対しては、世界中のだれもが漠然と「人類滅亡の危機」というような怖れを感じているのかもしれない。そこで「ノアの箱舟」の選民思想ではないが、一部の西洋人は東洋人排除の感情に走ったりしているし、この国の右翼だってますます中国人に対する憎悪を募らせている。それはきっと「不安と恐怖」から逃れようとする強迫観念にちがいない。

とはいえ人は、その一方で「不安と恐怖」を抱きすくめてゆく心も持っている。「人類滅亡」はめでたいことで、女のオルガスムスがそうであるように、快楽とは「滅亡=消失」の体験のことだ。

人と人は「不安と恐怖」を共有しながらつながってゆく。現在の世界のコロナウイルス対策は、なんのかのといっても、だれもが「どこかのだれか」を生きさせようとしてなされていることにちがいない。

北海道のだれかが死にそうだといっても、自分のこととは何の関係もないはずなのに、自分のことのような「不安と恐怖」を覚える。そのとき、自分が自分ではなくなって、自分が「北海道のだれか」になってしまっている。

「知らぬ間に広く伝染してゆく」とは、どういうことだろう?それは、「どこかのだれか」の心が自分に憑依し、自分の心が「どこかのだれか」に憑依してゆく、ということでもある。そのときだれもが、「どこかのだれか」のことを想っている。そして「どこかのだれか」とは、「死者」のことでもある。人は、「死者」のことを想うように「どこかのだれか」のことを想っている。

「疫病」は、人類最大の悲劇のひとつであると同時に、人類の集団性の本質がもっともあらわになる現象でもある。伝染すなわちネットワーク、人類は地球規模のネットワークを持っている。それはもう原始時代からそうだったのであり、今回のコロナウイルス問題であらためて思い知らされる。不安や恐怖がどうのということ以前に、人はつねに「どこかのだれか」のことを想っているということ。不安や恐怖が強いから広い範囲の防疫体制(ネットワーク)を取ろうとしている、というだけではすまない人間性の本質がある。なんのかのといっても心やさしい人ほど防疫に対する意識が高いのであり、それは彼らが心の中に「どこかのだれか」とのネットワークをより深く確かに持っているからだ。

そりゃあ、仲間内の既得権益のことばかり考えている現在のこの国の政府官僚たちが本気でやりたがらないのは当然のことで、いざとなったら彼らこそ人一倍大げさな「不安と恐怖」に駆られてうろたえるにちがいない。

「不安と恐怖」だけで感染防止ができるわけではない、それだけなら「パニック」を起こすだけなのだ。

「どこかのだれか」を想う心こそが、この事態を収束させる。

 

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蛇足の宣伝です

キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたものです。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

日本的で東洋的な現代貨幣理論

国会における「桜を見る会」の総理大臣の答弁はもはやあきれるほど下品で惨憺たるものだが、そのまわりに群がってやりたい放題に勝手なことをしている人間たちがたくさんいることも、ある意味でさらに不愉快なことだ。

個人的な感想を言わせていただくなら、いちばん不愉快なのは「電通」という広告会社の存在だろうか。自分たちの手は汚さないまま、舌先三寸でいいようにこの世の中を操っている。言葉で人をたぶらかすなんてろくなことじゃないし、たぶらかされてばかりいると、人間がどんどん凡庸で退屈になってゆく。

近代合理主義のコスパ主義の損得勘定の世の中だら、たぶらかされてしまうのだろうか。

損得勘定という名の欲望……欲望とは、いったい何だろう。

「生きたい」とか「幸せになりたい」とか思うのが人間性であるのではない。現代社会はだれもがそう思うようにさせられてしまう仕組みになっているが、それでも無意識のところでは、自分のことなど忘れて他者を「生きさせたい」とか「幸せにしたい」と願っているのであり、本質的にはそういう関係性の上に人間社会が成り立っている。

みんなひとりひとりが「生きたい」とか「幸せになりたい」と思うのなら、だれも他者に対して「生きていてくれ」とか「幸せになってくれ」と願う必要がない。論理的にはそういうことになる。他者に願ってもらわなくても、自分ですでにそう思っているのだもの、自分で生きようとするし幸せになろうとする。しかし人間にとっての「自分」は本質において「空っぽ」なのだから、他人が生きさせ幸せにしてやらないと、そうはなれないのだ。人間は本質において「自分」のことなど忘れて世界の輝きにときめき何かに熱中している存在であり、そのときこそもっとも人間が人間らしく生きている。

とにかく人間とは、他者を生きさせ幸せにしてやる存在なのだ。そうやって人類700万年の歴史を生き残ってきたのだし、そうやって関係性・集団性を進化発展させてきたのだ。

だれもが「生きたい」とか「幸せになりたい」と思っている社会は、他者を「生きさせたい」とか「幸せにしたい」という気持ちが強くわいてこない。そうして、人と人の関係も集団の動きも、どんどん痩せ細ってゆく。

「自分さがし」とか「自我の確立」などというのは、自分という存在の確かさにこだわった近代合理主義が生み出した制度的な観念にすぎない。この国の総理大臣は、この世でもっと自分という存在に執着し「生きたい」とか「幸せになりたい」と欲望している人間のひとりかもしれない。まあ、多かれ少なかれだれもがそういう部分を持たされているのかもしれない。いまだに近代合理主義に染められ、「新自由主義」とか「グローバリズム」とか「自己責任」という言葉が蔓延している世の中だから、多くの人々がどうしても自意識過剰になってしまう。自意識過剰になって競争し、「今だけ金だけ自分だけ」の損得勘定=コスパ主義に走ってしまう。そういう者たちばかりがわがもの顔でのさばっている世の中だが、そういう者たちだけの世の中になってしまうことはあり得ない。搾取されることを受け入れる者たちがいなければ、搾取する人間なんか存在しえない。

今や世界は1パーセントの富裕層と99パーセントの貧困層に分断されつつある、などといわれているが、だったら99パーセントの貧困層が立ち上がれば世界は変わる。しかしそのためにはリーダーがいなければならない。大きな集団であればあるほど、リーダーは必要だ。何しろ「自分=自我=主体性」のない者たちの集団なのだから、それをまとめる存在がいなければまとまらないし、他愛なくときめき盛り上がってゆくものたちでもある。

リーダーさえいれば……。

 

人類の関係性や集団性が進化発展してきたということは、その本質が他者を「生きさせたい」とか「幸せにしたい」と願う関係性の上に成り立っていることを意味する。そういう関係性がはたらいていないかぎり、進化発展するはずがない。そしてそういう関係性がはたらいているということは、だれにとっても「自分」などというものは「空っぽ」なものにすぎないことを意味している。さらにそれは、人はそれほどに自分を忘れて世界や他者の輝きにときめき熱中してゆく、ということでもある。

われわれはそういう関係性が主流の社会にすることができるだろうか。もともと人間の集団はそうやって活性化するのだし、民主主義とは民衆が権力を握ることではなく、民衆の集団性が社会の主流になってゆくのがよいという思想のことだ。

民衆がみずからリーダーを選んで民衆の集団性を反映させてゆくということ、それが原初以来の人類普遍の集団性の作法であり、そういうかたちで原始共産制が成り立っていたのだし、それが民主主義の未来でもあるにちがいない。社会民主主義というのだろうか、そういう社会のかたちを模索する動きが今、世界中で起きてきている。

人間は「ときめく」存在であり、「祀り上げる」存在であり、「捧げもの」をする存在である。したがってそういう対象となる魅力的なリーダーが登場してこなければ、新しい時代を切りひらく盛り上がりは生まれてこない。それは、計画と意志を持った主体的な運動ではなく、その場の空気に流されて他愛なくときめき合っているだけの有象無象による「祭りの賑わい」によって盛り上がってゆく。人類の集団は、そうやって猿のレベルを超えた規模の「むら」になり「まち」になり「国家」になっていったのだ。

だれにとっても集団の中に置かれるのは窮屈で鬱陶しいことだ。だから集団が大きくなってくると、混乱し空中分解してしまう。しかし、だから集団をつくらないほうがよい、というのではない。その混乱し空中分解してしまう危機を乗り越えていったのが人類の歴史なのだ。

チンパンジーは何百万年たっても100~150頭の規模を超えることはできないが、人類はその限界を超えていったわけで、それができたのは計画と意志を持ったのではない。他愛なくときめき合い助け合う「有象無象」のそのダイナミズムが起きていったからであり、それが「むら」になり「まち」になり「国家」になっていった。

「有象無象」という言葉はもともと否定的な意味に使われているが、だからこそ大きな集団になってゆくことができるわけで、ひとりひとりが「主体的」な意志と計画を持ったら必ず混乱し空中分解してしてしまう。

じつは人間よりも猿の集団のほうがずっと「主体的」なのだ。人間は、「主体=自分」であることを捨てて(=忘れて)「もう死んでもいい」という勢いで「祭りの賑わい」をつくってゆくことができる。そうやって「むら」になり「まち」になり「国家」になっていった。そしてその「祭りの賑わい」には、つねにみんなが祀り上げるリーダーがいた。ひとりひとりが「主体」ではないのだからみんなで祀り上げるリーダーがいなければその「賑わい」は起きないし、そのリーダーは、みんなの「想い」を象徴する存在であって、サル山のボスのようなみんなを支配し洗脳してゆく存在ではない。

みんなが「もう死んでもいい」という勢いで他愛なくときめき合い助け合ってゆこうという想いになってゆき、その想いを結集するリーダーが登場してくれば、「新しい時代」に向かって漕ぎ出してゆくことができるし、ほんらいの意味での人間的な「むら」になり「まち」になり「国家」になってゆくことができる。

人が「リーダーを祀り上げる」のは、自分を守ってほしいからではない。自分たちの「想い」を託すからであり、守ることは自分たちで助け合ってなんとかするというその「想い」を託しているのだ。なんのかのといっても人類の民衆社会はそうやって動いてきたのだし、その「想い」の帰結として民主主義の未来がある。

 

「金の世の中だ」というなら、貨幣は現代社会の神でありリーダーだ、ともいえる。なんのかのといってももともと貨幣は人の心の「ときめき」の形見である「捧げもの」として生まれてきたのであり、そういうことをせずにいられない人の心の普遍がある。そういう心で人は神やリーダーを祀り上げてゆく。神は存在するかと問うてもしょうがない、人は神を祀り上げてしまうような心の動きを持っている。神なんか存在しなくても、人は何かを祀り上げずにいられない存在なのだ。

だから、「貨幣の本質に意味も価値もない」などというべきではない。

この生に意味も価値もなくとも、貨幣には意味も価値もあるのだ。言い換えれば、この生に意味も価値もないことの代償として、人は貨幣に意味と価値を付与している。

この生に根拠などというものない。そういう心もとなさを抱えて人は生きている。猿はそんなものを問わないが、人の心はどうしても問うてしまう。問うても、答えなんかない。「根拠=意味や価値」をなんとかこねくり上げても、そんなものただの幻想であり、そう思いたいだけのこと、心の底の正直な部分では「そんなものはない」という「心もとなさ」を抱えて生きている。

そういう不安を抱えて生きているからこそ世界や他者の輝きにときめかずにいられないし、ときめけばこの生も自分のことも忘れていられる。その体験の形見として原始人は「きらきら光るもの」である貨幣が祀り上げていったのだし、今なおこの世に貨幣が存在することの根底にはそういう歴史の無意識がはたらいている。

人間は、ときめかずにいられない存在であり、祀り上げずにいられない存在だ。その根底には、この生に対する心もとなさやいたたまれなさがはたらいている。だから、この世に貨幣が存在する。そのへんの凡庸なインテリのように、「貨幣の本質に意味も価値もない」などとスノッブなことをいっている場合ではない。

世の中には貨幣を自由に操ってしこたま儲けている人間もいれば、貨幣に操られている名もない下層の庶民もいる。その両方を肯定しそういう現実を肯定したうえで、あらためて「貨幣とは何か」と問うていかなければならない。

「意味も価値もない」というのなら、この世のすべてのものに意味も価値もないさ。ただ、人は貨幣に意味や価値を付与している、という事実があるだけだ。

意味も価値もないから、意味や価値を見出してしまう。生きてあることの根拠としての意味や価値を欲しがってしまう。

世界や他者の輝きに意味や価値があるか?ありはしない。しかし、その輝きによって人が生かされている、という事実はある。生きものの命に意味も価値もありはしない。しかし、人はその命を慈しむ、という事実はある。自分の命に意味も価値もありはしないけど、他者の命は尊いと思ってしまう。世界の輝きに意味も価値もありはしないけど、人は世界の輝きにときめいてしまっている、という事実はある。貨幣には意味も価値もありはしないけど、人は貨幣には意味や価値があると認識している、という原初以来の事実がある。そのことは否定できない。

ほんとうに意味や価値があるかということなど問うてもしょうがない。人が生きてあるということに対する想いの問題だ。生きてあることは、心もとなくいたたまれないことだ。貨幣の意味と価値は、その事実の上に成り立っている。

 

MMTは貨幣に対する認識のコペルニクス的転回である、といわれている。だから、既存の経済学者の勢力から彼らの既得権益を侵す学説として迫害されねばならない。

両者の対立は、貨幣に対する根本的な認識の違いにある。「存在論」と「非存在論」、既存の経済学者たちは、貨幣は「交換の道具」としてあらかじめ「存在」するものであると認識しており、それに対してMMTでは、貨幣は「現れて消えてゆく」ところの「非存在」のたんなる現象にすぎないという。

われわれ民衆にわかるところでの対立は、「国債」を発行することは是か非か、ということにある。

反MMT陣営は、これ以上国債を発行すればハイパーインフレになって財政破綻する、という。それに対してMMT論者は、貨幣は「現れて消えてゆくもの」だから社会の供給体制が正常に機能しているかぎりそんなことにはならない、と説明している。物も貨幣も「消えてゆくもの」だから供給し続けねばならない、ということだろうか。国債は、本質的には国が社会に供給している貨幣であって「借金」ではないということ。

現在のこの世界における貨幣経済のややこしい仕組みのことはよくわからないが、その国債という貨幣もまた「捧げもの」であり「現れて消えてゆくもの」だということは、なんとなくうなずける。

ようするに、貧しい庶民の資産が増えて富裕層の資産が目減りする、というかたちに社会の構造を変えていったほうがよい、という思想なのだろう。貧しい庶民のところに貨幣があらわれて、そのぶん富裕層のところから消えてゆく、ということ。それは太陽が東から出て西に消えてゆくのと同じことだし、そこにこそ貨幣の本質がある。もともとその貨幣は、富裕層のところに現れて貧しい庶民のもとから消えていったものなのだ。だから元に戻すだけのことだし、そういうかたちにならないと社会の経済は活性化しない。

社会の経済の活性化は、貧しい者たちの「消費=捧げもの」の衝動の上に成り立っている。MMTで社会の経済が破綻するか活性化するかは、やってみないとわからないのかもしれない。しかしとにかく、人々の「捧げもの」の衝動を喚起しないことには経済は活性化しない。富裕層はそれをしたがらないし、貧しい庶民はしたくてもできない。貧しい庶民の「捧げもの」の行動が活発になるためには国が国債という名の「捧げもの」をする以外にない。もともと富裕層が搾取することばかりしてきたから、このような状況になっているのだ。富裕層がしないのなら、国がするしかないし、富裕層を野放しにしてグローバル化させてしまったのは国の責任だ。

グローバル企業は、国家を利用して民衆から搾取している。グローバル企業が国家の枠組みを超えているだなんて、大嘘だ。あちこちの国家に寄生して大儲けをしているだけのこと。

 

貨幣経済の「自由=活性化」は、がんばって稼ぐことではない、「捧げもの」が活発になることだ。たとえば「投資」すること、「国債」を発行すること、「募金」をすること、じつはそういう「捧げもの」によってこの社会の経済が活性化してゆく。

「捧げもの」をしようとする衝動は、貧しい者たちほど豊かにそなえている。だから現在の世界は、1パーセントの富裕層が世界の99パーセントの資産を所有する、という倒錯した事態になってしまっている。それは、貧しい者たちの「捧げもの」の衝動の上に積み上げられた資産なのだ。

そこでMMTは、国家が貧しい者たちに「国債」という名の「捧げもの」をせよ、と提唱する。富裕層がしたがらないのだから、そうするしかないではないか。MMTとは、そういう「社会民主主義」の経済理論であるらしい。

国家が経済市場に介入するべきではない、というが、では経済市場が国の政治に寄生して国を操るというようなことをしてもいいのか、という議論も成り立つ。現在のグローバル企業はすべてそのようにして肥え太っている。水道を民営化せよとか、健康保険を民営化せよとか、病院や学校の運営を企業に任せよとか……。

既存の経済学者たちはなぜ「そんなことをしたら社会の経済が破綻する」といいたがるのだろう。それは、近代合理主義の病だ。そんなことをいったって人間は不合理な生きものだし、人間の社会は「破綻=滅亡」に向かうような動きをするようにできているわけで、しかしそれによって活性化してゆくパラドキシカルな歴史を歩んできたのだ。

「破綻=滅亡」に向かうことを否定するべきではない。それは、息を吸うのと同じようなことで、息を使い果たしてしまうために息を吸う。息もまた「現れて消えてゆくもの」だ。

破綻に向かわない経済の活性化などない……それがMMTだ、ともいえる。人間とはそういう「不合理」な生きもので、その「もう死んでもいい」という勢いにこそ人間のいとなみのダイナミズムがある。

「自我の確立」とか「生命の尊厳」というような概念を提唱する近代合理主義は、「破綻=滅亡」に向かうことを嫌う。彼らは、そういう時代の価値観や思想に洗脳され踊らされて育ってきた者たちだし、今でもそれは「コスパ主義」などという損得勘定が蔓延する社会風潮として引き継がれている。

「破綻するからダメだ」などといって経済通や専門家やインテリを気取っても、今どきのコスパがどうのといいたがるいじけた若者たちと同じ人種なのだし、「日本人に生まれてよかった」と大合唱しているネトウヨたちとも大した違いはない。そういう者たちによって、この世界の停滞と衰弱がもたらされている。

「そんなことをしたらこの国の経済は破綻する」などという心配は、すでにもう終わっている問題なのだ。すでに破綻しているのに、今さら何を心配することがあるというのか。

新しい時代は、「日本終わった」と嘆いている者たちによってこそ切りひらかれる。

 

「破綻=滅亡」を怖れて経済の活性化はない。

「もう死んでもいい」という勢いで滅亡を抱きすくめてゆくことは日本列島の文化の伝統であると同時に、普遍的な人間性の自然でもある。原初の人類は、そうやって他愛なくときめき合い助け合いながら歴史を歩んできた。基本的にはだれもが自分の滅亡を引き換えにしてでも他者を生きさせようとするのが人間性の自然であり、そういう関係性を止揚しながら人類の集団は猿のレベルを超えて大きくなってきた。また、人類史の99・9パーセントの原始時代は、世界中どこでもそういう関係にならなければ生き延びることができないほどの脆弱で困窮した集団だったのだ。

民衆は生き延びる能力を持っていない。だからこそ豊かにときめき合い助け合って集団が活性化してゆく。これが普遍的な人類の集団性の自然であり、そこから人類史の最終的な集団のかたちとし「民主主義」が提唱されるようになってきた。

民衆の集団性の自然・本質は、「もう死んでもいい」という勢いの「祭りの賑わい」にある。そこに立てば、MMTは納得できる。そこに立てなければ、どんなに思慮深い経済学者だろうと納得することはできない。彼らはつねに「そんなことをしたら経済破綻する」と叫びだす。それは「自我の確立」という近代合理主義のスローガンに洗脳された者たちの自意識過剰のたんなる強迫神経で、彼らの予言が当たったためしはない。すべてのことはやってみないとわからないし、やるしかないことはやるしかない。滅びることを覚悟でやるしかないときはある。そういう覚悟とともに人類の歴史は進化発展してきた。

「捧げものをする」とは「滅んでゆく」ということだ。「捧げもの」の衝動が豊かに生成している社会でなければ、経済の活性化はない。貨幣とは、この社会にあらかじめ存在している「実体=物質」ではなく、現れて消えてゆく「現象=概念」である。

人の「命」というものだって、べつに「実体=物質」ではなく、あくまで「概念」であり、生きて死んでゆくという「現象」にほかならない。

貨幣がこの世界に普遍的に存在し続けるということは、人の命のはたらきの生きて死んでゆくという「現象」の反映であるのだろう。また、世界中の民族が使っている言葉という音声もまた「現れて消えてゆくもの」であるし、さらにはセックスのエクスタシーにしてもまさしく「現れて消えてゆくもの」にちがいない。

人は、生きることそれ自体を目的にすることはできない。生きることには、なんの意味も価値もない。人は、生きてあることの根拠を喪失したまま生きている。それでも生きている。根拠を喪失しているという、その不安やいたたまれなさからの「解放=忘却」として世界の輝きに対する「ときめき」が生まれる。それは、生きてあることを忘れている状態であり、ひとつの「滅び」の体験でもある。人間にとって「快楽」とは「滅びる=消えてゆく」ことであり、その体験が生きてあることの「根拠=確認」になっている。

つまり、生きることはひとつの「自傷行為」なのだ。

 

人を根源において生きさせているのは、水でも空気でも食糧でもない。何か嫌なことがあればすぐに「生きることなんか面倒くさい」とか「死にたい」と思ってしまうのが人間であり、「生きることを目的に生きる」ということは原理的に成り立たない。

生きることを忘れることの「ときめき」や「快楽」が人を生きさせている。近代合理主義においては「生命の尊厳」などというが、人はそんなことを思って生きているのではない。「私」の命には何の意味も価値もない、面倒くさいだけの命だ。であれば、生きることを忘れることが生きることの目的にならなければ、生きていられない。

「生きることなんか面倒くさい」とか「死にたい」という気持ちを否定するべきではない。そう思ってしまうのが人間性の自然なのだ。

少なくとも「自己」の範疇においては、「生きることには意味や価値がある」とか「生きようとするのが人間および生きものの本能だ」というような論理は、哲学的にも生物学的にも成り立たない。それは、「自我の確立」とか「生命の尊厳」という倒錯したスローガンに縛られた近代合理主義の、たんなる制度的な観念にすぎない。

人は生きようとするのではない。人間であれ他の生きものであれ、「すでに生きている」という状態において意識が発生するのだから、原理的に「生きようとする」ことは成り立たない。

意識が発生し、「生きてある」ことに気づいた意識は、「いったいこれはなんという事態だ?」と驚き戸惑う。そうやって生まれ出たばかりの赤ん坊は、「おぎゃあ、おぎゃあ」と泣くのだろう。

われわれは、自分が存在しなかった永遠の過去からこの世に現れ出てきて、自分が存在しない永遠の未来に向かって消えてゆく。すなわちわれわれは、「存在しない」ことを「喪失」してこの世に出現するのであり、意識はそういう「喪失感」として発生する。そしてその後もそういう「喪失感」とともに生きてゆくのであり、生きてあることは不安でいたたまれないことだ。したがってわれわれの意識は根源において「存在しないこと=非存在」の世界に対する遠いあこがれを抱いており、「快楽」は「非存在の世界に超出してゆく(=消えてゆく)ことの解放感」として体験される。すなわち「生きてあることの根拠は生きてあることからの解放として確認される」ということ。

光は、「非存在の世界」から現れ出てきて、「非存在の世界」に向かって消えてゆく。そういう現象に対する「ときめき」とともに貨幣が生まれてきた。「きらきら光るもの」としての貨幣は、人の心が根源において抱いている「非存在の世界に対する遠いあこがれ」の形見として原始時代に生まれ、今なお存在し機能し続けている、ということだ。

生きるための形見として貨幣が生まれてきたのではない、生きてあることからの解放の形見として貨幣が生まれてきた。

この生は、この生からの解放として活性化する。貨幣経済もまた、貨幣経済からの解放として活性化する。

「解放」とは「滅んでゆく=消えてゆく」こと。国債を発行すれば貨幣経済が破綻するというのなら、その「破綻する=滅んでゆく=消えてゆく」ためにこそ発行する必要があるのであり、その「破綻する=滅んでゆく=消えてゆく」ことそれ自体が貨幣経済の活性化の証しなのだ。

 

人が生きることは、ひとつの「自傷行為」である。

原初の人類が二本の足で立ち上がったこと自体が、ひとつの「自傷行為」だった。それは、とても危険で不安定で、しかも身体により大きな負荷がかかり、生きることがしんどくなるだけの姿勢だった。それでも彼らは、二本の足で立ち上がった。それでもそこには「生きてあることからの解放」があったからで、そうやって彼らは猿であることから決別した。まあこの話をはじめると長くなってしまうのだが、とにかくそういうことだ。

生きてあることには何の意味も価値もなく、不安でいたたまれないばかりだ。だから人は生きてあることからの解放を願っている。この生には、なんの根拠もない。それでも世界は輝いており、そのことに促されながらすでに生きてしまっている。世界の輝きが自分を生かしている。世界の輝きが、この生の根拠だ。世界の輝き、すなわち他者が生きて存在しているというそのことが、自分が生きてあることの根拠になっている。他者が生きていてくれないことには、自分は生きてあることの根拠を失ってしまう。そうやって人は、葬式のときにおいおい泣く。われを忘れて、おいおい泣いている。人は「われを忘れて」ときめいたりかなしんだりする。そうやって「われ=この生」からの解放を体験している。「われを忘れる」ことは、この世界や他者の輝きが出現することにときめくことであり、この世界や他者の輝きがが消えてゆくことにかなしむことだ。

世界の輝きの消失……あの大震災に遭遇して生き残った人々は、たくさんの他者の死とともにみずから生の根拠が深く決定的に失われたことを実感した。そうやって鬱になったり、孤独死したり、幽霊を見たり、ときには糸の切れた凧のような心になって補償金を使い果たしてしまったりもした。

まあ補償金を使い果たしてしまうこともひとつの「自傷行為」であり、そうやって「自分=この生」が「消えてゆく」ことを「自分=この生」の根拠にするしかなかった。ある哲学者は、「生きることは<小さな死>を繰り返してゆくことだ」といっている。一般の人々はそういう「自傷行為」を緩やかに繰り返しながら生きているわけだが、彼らはもう、そこまで徹底しないと生きてあることができないところに追い詰められていった。また、だからこそ心にしみるような助け合う関係も生まれていったわけで、そこにこそ人と人の関係の根源的なかたちがあるともいえる。

ぼんやり生きていれば、そういう根源的本質的なことにはなかなか気づかない。そうして「自我の確立」だの「生命の尊厳」だのと、死が怖いだけのくせにそうした虫のいい屁理屈を捏ね上げるのだが、人は根源において死に対する親密さを抱きすくめて生きている存在なのだ。

ほんとうの「生きた心地」は「滅びる=消えてゆく」ことにしかない。生きることは「自傷行為」なのだ。生きてあることに追い詰められていないわれわれ凡人が、追い詰められている人の「自傷行為」を否定することはできない。それこそがもっとも本質的なこの生のいとなみであり、人は根源において生と死のはざまを生きている。だれの生だって、じつはビルの屋上のフェンスの上をふらつきながら歩いているようなものなのだ。

 

お金は大切なものだ。大切なものだから「捧げもの」になるし、そうやってお金が消えてゆく体験はひとつの「自傷行為」になっている。

国による国債の発行も、「自傷行為」以外の何ものでもない。

自傷行為」をうながすのが、貨幣の本質的な機能だ。

生きることなんか、ろくなものじゃない。

さっさと死んでしまいたいという気分がないわけではないが、それでもなんとか生きているし、すでに生きてしまっている。

世界は輝いている。それに促されて生きてしまっている。

自分のまわりがどんなにくすんでいても、この世界のどこかに輝きがあることを感じる。心が染みるほどに輝いている人がどこかにいる。そういう人がどこかで生きていてくれ、と願っている。人間は、だれかに対して生きていてくれと願わずにいられない存在である。

あなたが生きていてくれないことには私の生きてある根拠が消えてなくなってしまう……何はともあれそういう想いの集積として人の世が成り立っている。

だから人は「捧げもの」をする。だれかのことを想い、だれかを祀り上げ、だれかに「捧げもの」をすることによって、自分が生きてあることの根拠が見出せないことのその喪失感を埋めようとする。

人は、だれのことを想い、だれを祀り上げ、だれに「捧げもの」をするのだろう。だれも愛さない人が、もっとも誰かのことを想っていたりする。すでに見知らぬ誰かにときめいてしまっているから、だれも愛さない。まあ、わがままで愛想のない「処女=思春期の少女」というのは、あんがいそういう存在であるのかもしれないし、たいていの女にそういう部分があるのかもしれない。そうやってどこかの捨て猫を拾ってきたりする。

女は、男なんか愛していない。いつも、もっと遠いだれかのことを想っている。そしてそれこそがもっとも人間的な「想い」のかたちなのだ。

家族であれ、親族であれ、「まち」であれ、人間の集団は、基本的には見知らぬ者どうしの関係として成り立っており、見知らぬ者どうしの遠い関係だからときめき合うことができる。人の「あこがれ」と「ときめき」は、遠い遠い「異次元の世界」に向いている。光が、そこからやってきてそこに消えてゆくように。遠いからあこがれるし、「もう死んでもいい」という勢いでその無限の隔たりを飛び越えてときめきもする。

そういう遠い「あこがれ」と「ときめき」の形見として、「貨幣の超越性」がこの世界で機能している。

 

10

したり顔して「国債を発行すれば経済が破綻する」などと、いじましいことをいっていてもしょうがない。その「破綻=滅亡」の向こう側で活性化してゆくのが「貨幣の超越性」なのだ。

経済市場はある程度までコントロールすることができるが、コントロールしきれるわけではない。すべての経済政策はやってみないとわからないことだし、するしかないことはするしかないのだ。

貨幣の「超越性」と「現れて消えてゆくもの」だということを納得できないのであれば、MMTを肯定することはできない。

おそらく現在のこの国で国債を発行しても経済破綻なんかしないのだろうが、ここで問題にしたいのはそういうことではない。たとえ破綻するかもしれないとしても、人間のすることは本質において「自傷行為」なのだということ。国債という名の「捧げもの」の発行は、「自傷=自滅行為」だからこそ、人間性の本質にも貨幣の本質にもかなっている。そうやって人のいとなみも貨幣の流通も活性化してゆくのだろう。

「捧げものをする」という「自傷行為」……たとえば祭りのときや観光地で物の値段が高くなるのは、そこが「もう死んでもいい」という勢いの「捧げもの=自傷行為」の衝動が豊かに起きてくる場だからだ。生きてあることなんかただのお祭りだし、経済の活性化だってひとつの「祭りの賑わい」にちがいない。

1パーセントの富裕層と99パーセントの貧困層というかたちで社会が停滞し安定する社会と、格差のない混沌とした「祭りの賑わい」が生成する社会と、いったいどちらがいいのか。言い換えれば現在は、「遊び」や「祭りの賑わい」が1パーセントの富裕層に独占されて、99パーセントの貧困層は生きることに汲々としている、ということだろうか。「生きるため」とか「食うため」というセリフが正義になるなんて、何か不健康だ。それはきわめて合理的な論理だが、合理的だから不健康なのだ。人間はそんなことを目的にして生きているのではない。

みんな人間なのだから、不合理で混沌とした「祭りの賑わい」を広く豊かに盛り上げてゆかねばない。人は「祭りの賑わい」に引き寄せられてゆく生きものだ。もともと人の世はそのようにして成り立っているのであり、人は人のことを想って生きているのであって、食うため生きるために生きているのではない。

だれが好きとか嫌いとかと選別しているのではない。そんなことを超えて、どこかのだれかのことを想っている。その「遠いあこがれ」と「ときめき」とともに人は生きている。どこかでだれかが生きていてくれることを願って生きている。人間ではない犬や猫に対してだって、生きていてくれと願ってしまう。

自分が生きてあることの根拠などどこにもない。それでもどこかでだれかが生きていることを願っている。この世界のこの宇宙のどこかでだれかが生きていることを知らず知らず願ってしまっているし、自分もまた「どこかのだれか」にとっての「どこかのだれか」であることはたしかなのだ。

まあだれだって生きてある意味も価値もない存在にちがいないが、それでも他者に対しては「生きていてくれ」と願わずにいられない。「意味も価値もない」からこそ、「生きていてくれ」と願わずにいられない。意味も価値もあるのなら、願わなくてもみんな勝手に生きようとしている。

生きてあることの根拠を持っているらしい近代合理主義に洗脳された者たちは、好きとか嫌いとか賢いとか馬鹿だとか経済破綻するとかしないとか、あれこれ選別して生きてゆけるだろう。しかし一方では生きてあることの根拠を持てない者たちがどんどん増えていっているのが「ポストモダン」といわれる現在の世界であり、現在の最先端の科学も哲学ももはや「自己」とか「存在」とか「物質」という問題設定が成り立たなくなってきている。MMTも、まさしくそうした状況から提唱されているのではないだろうか。

 

11

人は「自傷行為」をする存在であり、この世界の「どこかのだれか」が生きてあることを願っている。それは、人間性の自然=本質としての「死」すなわち「異次元=非存在の世界」に対する遠いあこがれに由来している。

80年代のニューアカデミズムのブームのころに「もっとも本質的な他者とはだれか?」というような問題が哲学や思想の世界でよく議論され、それは「神」であるとか「死者」であるとかという問題設定が一般的になっていたわけだが、ここでは、それは「どこかのだれか」という「異次元=非存在の世界」の人のことだ、といいたい。「どこかのだれか」とは、「どこかにいる」と同時に「どこにもいない」人のことである。

「死を想え」ではない、すでにだれもが死を想って生きているわけで、その想い方が人さまざまだということだろう。つまり、死者や神だって「どこかのだれか」なのだし、原始時代に神という概念など存在しなかったが、人類は二本の足で立ち上がったときからすでに「どこかのだれかを想う」存在になっていた、ということ。そういう「メタ(超越)思考」に、人間性の基礎・本質がある。

人類は「どこかのだれか」を思う存在だから、一か所にたくさんの見知らぬ人たちが集まってきて「むら」とか「まち」とか「国家」というような猿のレベルを超えた大きな集団になっていったのだし、根源的には「自分」という存在もまた「自分=主体」を持たない空虚な「どこかのだれか」にすぎない。

われわれは、生きてあることの「根拠」すなわち「意味や価値」など持っていない。そういう空虚な存在だからこそ、西洋の近代合理主義においては「根拠=意味や価値」を持とうとしたし、この国の伝統においては、その「根拠=意味や価値がない」ということそれ自体抱きすくめてゆく文化を育ててきた。そしてそれは原始時代の文化をそのまま洗練させてきたということだし、またこの国だけではなく「色即是空」という仏教概念に象徴される「東洋的=アジア的」な文化風土ともいえる。

だから、「貨幣は<現れて消えてゆくもの>である」というMMTは日本人の思考や感性に受け入れやすい、ともいえる。西洋の近代合理主義に洗脳されていなければ……。

 

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『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたものです。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

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彼らはなぜMMTを忌み嫌うのか

 

 

「日本終わってる」……の大合唱が起こりはじめている。

貧富の格差はどんどん進んでゆくし、ヘイトや差別や分断やハラスメントやメンヘラが蔓延していて、こんな国で暮らしてゆくのは地獄だ、と思う人はたくさんいる。

しかしそれでも世界は輝いていて、そういう心の底の「ときめき」によって生きることを余儀なくさせられている。死んでしまえばいいだけなのに、それでもまだ生きている。

「生命の尊厳」などといっても、それは自分の命のことではなく、他者の命のことだ。そうやって他者に「生きていてくれ」と願い、親しい他者が死ねばおいおい泣く。

人は、自分が生き延びるために生きているのではない、世界が輝いているからであり、他者が生き延びるための手助けをしたいからだ。そうやって子供を育て、老人の介護や病人の介護をする。

自分が生きていることに意味も価値もありはしない。意味や価値は、自分や自分の命にではなく、この世界や他者の輝きのもとにある……それが人類の普遍的な無意識であり、そこから「貨幣」が生まれてきた。

「貨幣」は、「世界の輝き」の形見(アイコン)なのだ。だから、貨幣には意味も価値もある。

貨幣は、大切なものだ。だから、大切に扱わねばならない。

貨幣をむしり取ることは、貨幣を捨てることと同じだ。大切に扱っていない。大切なものだから、奪っても捨ててもならない。大切なものだからこそ、それは「捧げもの」の形見になる。貨幣の本質は、「捧げもの」であることにある。

原価100円の商品を1000円で買えば、900円は「捧げもの」である。「捧げもの」でなければ貨幣ではない。「捧げもの」をするのが人間の本能なのだ。まあ商人はそこに付け込んで金儲けをするわけだが、そこに人間性の本質があるのではない。金儲けをさせてしまうところに、人間の本能というか人間性の自然がはたらいている。

人の世は、貨幣を「捧げもの」として流通させている。お金が入れば使いたくなる。それは、商品が欲しいとかということ以前に、お金を使うということそれ自体がしたいのだ。だから、人におごってやりたくなったりする。

世界は輝いている。だから、「捧げもの」をしたくなる。

自分のこの命は、他者が生きてあるために存在している。だから、親しい他者が死んだときは、おいおい泣いてしまう。それは、自分が生きてあることの根拠を喪失してしまう体験なのだ。

とはいえ人は、他者を生きさせてやることなんかできない。生きることは、その人自身のいとなみだ。「馬を水辺に連れてくることはできるが、馬に水を飲ませることはできない」ということわざがあるように、人は他者との関係を願いつつ、他者との関係の根源的な不可能性を負って生きている。生きてあることそれ自体に「喪失感」と「無力感」がともなっている。人が生きてあることには、つねに「生きてあることの根拠が持てない」という喪失感と無力感がついて回っている。その「いたたまれなさ」を埋めるための形見として、人類の歴史に「貨幣」が生まれ、「祭り」がにぎやかになってきた。

 

日本が「終わっている」のは、総理大臣をはじめとしてだれもが「捧げもの」の精神を失っているからだろう。

自我を確立して「自分には生きる価値がある」と思うのなら、「捧げもの」をする必要なんかない。

政治家や官僚はいくらでも民衆から税金を搾り取ればいいと思っているし、資本家は労働者を安い給料でこき使うことに何のためらいもない。彼らは、民衆の「捧げもの」の本能に付け込んで徹底的に搾り取ろうとしてくる。悪いのは彼らだといっても、民衆の中の本能的な「捧げもの」の衝動がそれを許してしまっているわけで、われわれ人類はこの構造を克服することができるだろうか。1パーセントの富裕層と99パーセントの貧しい民の群れ、まるで女王蜂のいる蜂の社会のような仕組みではないか。

世界中で、新自由主義の不健全な両極化が進んでいる。それを克服しようとして提唱されてきたのがMMTらしい。経済政策は小さな政府で市場の自由な動きに任せるのがよいという新自由主義思想に対してMMTでは、大きな政府で国家が国債を発行しながら民衆の経済活動を援助してゆくべきだ、と提唱している。

まあ現在の世界経済は新自由主義によってここまでひどい状態になってしまったのだから、その反省はあってしかるべきなのだが、それでも国家が市場経済に介入することは共産主義化やファシズム化につながるという警戒感があるらしい。

しかし現在は、資本家=企業が国家を利用しながら民衆を抑圧しコントロールしているのだから、もうじゅうぶん国家主義的な体制になってしまっている。そりゃあ、企業が国家の仕事の肩代わりをしているのだから「小さな政府」になるに決まっている。民衆が消費した貨幣は、まるで税金を徴収するように、どんどん金融市場に吸い上げられてゆく。「小さな政府」になってさらに国家主義的支配が強まっている。

あの太平洋戦争のさなかだって、政府の機能のほとんどは軍部に乗っ取られていたのだから、やっぱり「小さな政府」だったわけで、「小さな政府」ほど国家主義ファシズムになりやすい。「市場経済の自由な動きに任せる」といっても、市場が国家支配を肩代わりしているだけなのだ。そうやってアメリカでは医療費がバカ高いものになってしまっているし、この国でもやがてそのようになってゆくらしい。

民主主義では、国家は民衆に奉仕する機関である、という認識なっている。だから、それでも支配しようとすると、「小さな政府」になって市場に支配を肩代わりさせてゆく。というか、市場と結託して支配を見えにくいものにしてしまおうとする。そうやって民衆は、真綿で首を締めるように支配されてゆく。

MMTの論者たちは、「大きな政府」になって民衆に奉仕せよ、という。民衆への「捧げもの」として国債を発行せよ、という。

国債を発行することが国家主義だと考えるのは短絡的過ぎる。国債こそ、民主主義のための大切なカードなのだ。であれば、「市場に任せる」ことが民主主義だともいえないわけで、そのことが国家支配の免罪符になっていたりする。

この2~30年を新自由主義で歩んできたこの国は、市場に任せようとした結果として、終わりつつあるのか、それともすでに終わっているのか。

 

彼らは、何ゆえそんなにもMMTを毛嫌いするのか?

それはたぶん、政治の問題ではなく、人間観とか世界観とか生命観とかの問題ではないだろうかと思う。もともと自民党に批判的な左翼系の政治家や知識人でも頭ごなしに否定していたりする。インテリにはわかるけど無知な庶民には理解できない、というようなことではない。無知な庶民でも、わかりやすく説明されれば、ああなるほど、と納得することなのに、彼らはかたくなにそれを拒否する。それを認めれば、彼らが信じている人間観や世界観や生命観が根こそぎ崩れてしまうらしい。

近代合理主義とは何かということの定義はいろいろややこしいのだろうが、戦後のこの国はそういう思想に洗脳されて歴史を歩んできた。おそらくMMTは、近代合理主義にそぐわないのだろう。

近代合理主義といえば、「自我の確立」とか「生命の尊厳」というような合言葉がまず浮かぶ。ヨーロッパの近代は、科学と経済の革命的な進化発展とともに国家主義の戦争による大量虐殺がどんどんエスカレートしてゆく時代だった。そういう時代の流れに対する抵抗の精神として近代合理主義が生まれてきたのだとしたらそれはそれで大きな意義のあることだったのかもしれないが、それが人間性の本質にかなっているかどうかということとはまた別の問題だ。

ヨーロッパの近代がそういう時代だったとしても、人類700万年の普遍的な歴史に照らしてそういうことがいえるのかどうかは極めて疑わしい。欧米人はいまだに「文明」とか「宗教」に縛られた範疇で人間や世界や生命について考えている傾向がある。「文明」や「宗教」という名の合理主義……。人間性の本質を考えようとするなら、ひとまずそのことは除外しなければならない。人類700万年の歴史の99・9パーセントは、文明国家も貨幣経済も宗教もなかったのだから。

 

MMTは、近代合理主義ではなく、原始思考なのだ。原始思考だからこそ普遍的で未来的である、ともいえる。

「原始宗教」などという。これだって近代合理主義的思考で、原始時代に宗教などなかったのだ。国家もなかったし、貨幣はあっても、貨幣によって商品と交換するという「貨幣経済」はなかった。

「きらきら光るもの」としての原始時代の貨幣は、「交換の道具」ではなく、あくまで一方的な「捧げもの」だった。

そうしてMMTの論者たちは、貨幣を「捧げもの」として流通させることによって社会の経済は活性化する、と提唱している。

「捧げもの」は自分のもとから「消えてなくなるもの」であり、代わりに得られるものもない。そうやって「消えてゆく」ことのカタルシスを抱きすくめてゆくのが人間性の本質であり、そこにこそもっとも深く豊かな人間的な「快楽」のかたちがある。

これは東洋的な「空」の思想であり、それに対して近代合理主義においては「存在」の本質と価値を問うており、そこから「自我の確立」やら「生命の尊厳」というテーゼが生まれてくるし、貨幣だって「交換の道具」としてあらかじめ「存在」するものだという認識になる。

存在論」にこだわるのが近代合理主義だとすれば、「ポストモダン」としての現在の最先端の科学や哲学は「空=非存在」を積極的に問うようになってきている。

貨幣はあらかじめ「存在」するものではなく、「現れて消えてゆくもの」である……それがMMTだ。

「貨幣はしだいに市場から消えてゆくものである」という認識は、経済学者なら誰でも知っている。そこで彼らは「だから貨幣の本質においては意味も価値もない」という。しかしそういう認識の仕方をするところが「存在論」にこだわる近代合理主義の限界であり、「消えてゆくものである」というそのことにこそさらに深い意味や価値がある。

右翼であれ左翼であれ、この国の戦後教育は、近代合理主義にすっかり染められてしまっている。「自我の確立」は、作為的な新自由主義に向かう。現在のこの状況は戦後教育の必然的な帰結であり、そうやって戦後教育の洗礼を受けた自意識過剰の者たちが、自意識を捨てて原始共産制の精神を呼び戻そうとするMMTを忌み嫌っている。官僚とか大学教授とかインテリジャーナリストとか立憲民主党枝野幸男とか、みんな戦後教育の優等生で、彼らはどこかしらでそれを認めることを怖がっている。おそらく、認めれば自我の崩壊の危機を感じるからだろう。

「自我=自分」とは、銅銭の四角い穴と同様に、たんなる「空虚な中心」にすぎないのであって、「存在」ではない。そしてそれは、現在の世界のもっとも先端的な科学や哲学の問題でもある。

「自我=自分とはたんなる空虚な中心である」ということが人類の共通認識になれば、いずれ「私有財産」が否定される時代が来るかもしれない。そういう意味で原始共産制は、究極の未来の社会像でもある。

ポストモダン」の時代は目の前にあるのか。それともはるか遠い未来のことなのか。

 

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それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたものです。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

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沈黙交易と、等価交換という幻想と、現代貨幣理論

原始時代のきらきら光る貝殻や石粒の貨幣は、「交換の道具」ではなく、「贈与=捧げもの」の形見だった。

それは、衣食住のものよりももっと大切なものだった。というか、大切さの質が決定的に違っていた。前者は異次元的超越的な存在で、後者は現世的地上的な存在だった。だから「交換」の道具にはならなかったが、だからこそ「贈与=捧げもの」の形見としてはとても有効だった。だれも、ダイヤモンドとリンゴを交換しないだろう。それは、価値の大きさだけの問題ではない。価値の質が違うのだ。原始人にとっての貨幣は、あくまで天上的で異次元的で超越的な存在だった。

そもそも「交換」という行為自体が、一般的に考えられているほどかんたんなことではない。猿は、けっしてそんなことはしない。原始人だって自給自足が基本の暮らしをしていたから、「交換」というような発想は生まれてこない。自給自足が基本だからこそ、持たない者には無償で分け与えていた。みんなぎりぎりのところで生きていたのだから、「交換」をする余裕なんかなかった。親から食料を与えられる子供には、「交換」できる品物など何も持っていない。

大震災ときの現場に「交換」という行為などなかった。みんなが生きられるように工夫していただけだ。生きられないものを生きさせようとするのは生きものの本能であり、人間はとくにそういうことをする。原始時代なんて毎日が災害現場の体育館のようなレベルの暮らしだったのだし、それでも生き残ってきたのは、生きられない弱いものをけんめいに生かそうとしてきたからだ。

生きられない弱い者は、「死」のそばに立っている。「死」のそばに立っている者ほど尊い存在はない。人は、「死」のそばに立っている者を祀り上げようとする。そうやって介護や看護や子育てをする。生きられない弱いものはこの世界の「生贄」であり、神にもっとも近い存在なのだ。もちろん原始時代に「神」などという概念はなかったが、なんとなくの「崇高」とか「聖性」とか「超越性」というような気配は感じていたはずだ。おそらく人類は、原初の二本の足で立ち上がったときから超越的異次元的な世界に対する視線に目覚めていた。そういう「メタ思考」こそ人が人であることの証しであり、その「超越的異次元的な世界」に対する遠いあこがれとともに「きらきら光るもの」にときめき、貨幣を生み出していった。

貨幣は、交換できないものを交換させてしまうというひとつの「飛躍」をもたらす道具であり、そういう「異次元性=超越性」を持っている。

人類の歴史には、たくさんの「飛躍」がある。それは一瞬で起きることもあれば、長い長い歴史の時間を要することもあれば、「今ここ」が永遠に続く「飛躍の過程」だということもある。まあ、現れ出たものが消えてゆくということがひとつの「飛躍」であり、われわれは生まれ出て死んでゆくという「飛躍の過程」を生きている。

人類の歴史だって、最終的には「滅亡」する。それがいつになるかわからないが、とにかくわれわれは「滅亡の過程」を生きているのだし、「もう死んでもいい」という勢いの「滅亡=飛躍の過程」を生きることがこの生やこの社会やこの世界の活性化になっている。

 

現在のこの世界は、貨幣と商品というもともと交換できるはずのない二つのものを交換させながら動いており、貨幣の「超越性=異次元性」がそれを成り立たせている。

とすれば、起源について考えようとするわれわれにとってここで問題になるのは、貨幣による交換と「物々交換」とではどちらが先にはじまったのかということである。

原始人は「交換」などしなかった。それでも貝殻や石粒などの「きらきら光るもの」である起源としての貨幣は存在した。そしてそれは一方的な「贈与=捧げもの」の形見として機能していたし、衣食住のものだって、持たない者すなわち生きられない弱い者に贈与し捧げていた。

「捧げもの」をすることはいわば人類の本能であり、そうかんたんには「交換」という関係は起きてこない。一方的な「捧げもの」をするのが嫌だから「交換」ということをするのだろう。したがってその関係は、人類が余剰のものを持って搾取とか収奪というようなことをするようになってから生まれてきた。つまり「物々交換」は、原始時代にはなく、文明国家において生まれてきた習俗なのだ。搾取や収奪はしないという約束として、そういう関係が生まれてきた。

最初は「捧げもの」ばかりの社会だったから、そこに付け込んで搾取・収奪の関係が生まれてきた。その後に、その関係を消去しようとして「交換」が生まれてきた。人間性の基礎は「捧げもの」にあるから、消去しようとする。搾取・収奪の関係を知らなければ、それを消去しようとする「交換」などという関係は生まれてこない。

搾取・収奪の関係を知らない者たちが「交換」をしようとすると、「捧げ合う」という関係になる。

はじめに「捧げもの」としての「貨幣」があった。「捧げもの」をするのが本能である人類はそうかんたんに「物々交換」などできない歴史を歩んできたのであり、文明国家における物々交換は、おそらく両方をいったん貨幣価値に換算してなされていたのだろう。そしてこの習俗=観念が貨幣を持たない地域に伝播してゆく過程において、物々交換ともいえないような物々交換としての「沈黙交易」が生まれてきた。

それは、たとえば海の民が山の村に行っていくぶんかの魚を黙って村の入り口に置いて帰ってゆく。そして次の日そこに行くと、魚が消えて代わりにいくぶんかの木の実が置いてあり、海の民はそれを黙って持ち帰ってゆく。

これは、「交換」といえるだろうか。少なくとも、魚と木の実が「等価」であるという確認合意はまったくしていない。どちらも一方的な「贈与=捧げもの」をしただけではないのか。

貨幣が存在しない社会には、「等価」ということを認識する観念のはたらきがない。したがって、「交換」することができない。だから、そういうまだるっこしいことをして「交換」する。

文明国家の人間が文明社会の製品を手土産に未開の地にやってきて、未開人の「捧げもの」をもらって帰ってゆく。未開人からしたらそれは、おたがいに「捧げもの」を差し出し合っただけの体験であるが、「自給自足」の外に一歩踏み出す体験でもあった。そのとき彼らは、「等価交換」を知らないまま「交易=交換」ということを知った。

交換という手続きのない交換……たがいに一方的に「捧げもの」を差し出し合う……それが「沈黙交易」だ。このことは、原始人は「捧げ合う」ということはしても「交換」はしなかった、ということを意味している。

貨幣を知らない未開人の地域では、現在でも「沈黙交易」がなされていたりするらしい。それは、物々交換のように見えるが、厳密には物々交換ではない。人類にとって、物々交換はけっしてかんたんな行為ではないし、原始時代は「捧げ合う」関係が豊かに機能していたから、物々交換は存在しなかった。そういう意味で「沈黙交易」をする未開人は、原始人であると同時に文明人でもある。「贈与=捧げもの」によって動いている原始社会に「交換」という文明が持ち込まれることによって、そういう変則的な経済形態が生まれてきた。

 

日本列島でも、明治のころまでは、村と村の境界である「峠」の茶店や神社などを介して「沈黙交易」がなされていたらしい。それは「交換」ができない者たちによる「交換」であり、彼らには「貨幣」を「交換の道具」として使いたくないという無意識があった。彼らにとって貨幣は、あくまで「捧げもの=浄財」として使うものであった。

「捧げもの」は人類の本能というか歴史の無意識であり、現在の貨幣だってそこを基礎=本質にして流通している。

「捧げもの」をすることは「消えてゆく」ことであり、そういう「喪失感」を抱きすくめてゆくことによって「快楽」が汲み上げられる。「消えてゆく」ことは「滅んでゆく」こと、人類の歴史は「人類滅亡」に向かう「飛躍」の過程として動いている。

「消えてゆく」ことはひとつの「飛躍」であり、そのようにして貨幣の「超越性=異次元性」が成り立っている。

貨幣は、もっとも「大切なもの」であるがゆえに、もっとも鮮やかに「消えてゆくもの」でもある。「消えてゆく」とは「終わる」こと、終わらなければはじまらない。はじまるということが、世界が続いてゆくということであり、人生が続いてゆくということだ。

朝目覚めるということは、この生がはじまるということであり、そうやって人は「おはよう」という。続くとは、はじまり続けることだ。命のはたらきはそのように続いているのであって、飴の棒のように切れ目なく伸びていっているのではない。言い換えれば、生きるとは終わり続けることであり滅び続けることだ。

「捧げる」ことは「消えてゆく=滅びる」こと。沈黙交易は、文明社会の制度としての「等価交換」になじめない者たちによって続けられてきた。貨幣やこの生のはたらきの本質が「捧げる=消えてゆく=滅びる」ことにあるかぎり、おそらくこの先もずっと続いてゆくにちがいない。

ギャンブルは、勝てば突然お金が膨れ上がって、負ければすっからかんになる。人間の社会は、どうしてこんなことを続けているのだろう。沈黙交易だって、ひとつのギャンブルである。そこに魚を置いておけば、魚が消えて突然木の実が現れ出る。彼らは「等価交換」を知らないが、貨幣の本質はよく知っている。彼らは、現代の文明人よりももっとラディカルに貨幣の本質に殉じている。沈黙交易は、もっとも原始的な交換であると同時に、もっとも未来的な交換でもある。

給料が銀行に振り込まれ、キャッシュカードでそれを引き出す。これだってまあ、沈黙交易のようなものかもしれない。「沈黙」もまた、貨幣の属性のひとつかもしれない。沈黙の上に関係を成り立たせるという「超越性」……権力者の支配は民衆の沈黙によって強化されてゆくし、恋人どうしは抱き合う前に一瞬の沈黙が流れる。沈黙には、「飛躍」を生む超越的な力がある。人は「もう死んでもいい」という勢いで飛躍し成長してゆく存在で、それは「沈黙」と「かなしみ」から生まれてくる。

向き合い言葉を交わして交換をすれば、駆け引きが生まれる。等価交換をするということは、「飛躍」がない、ということだ。それに対して沈黙交易は、けっして後ろ向きの停滞した習俗ではない。魚を受け取った山の民は、魚の価値に見合う木の実を返したのではない。彼らは、等価交換など知らない。というか、交換することそれ自体を知らない。ときには、村にありったけの木の実を差し出した。そこには「もう死んでもいい」という勢いで「飛躍」してゆく関係のダイナミズムがはたらいている。

 

貨幣が「交換の道具」として流通するようになった契機は、おそらく「文明国家」の発祥にある。

人がたくさん集まってきて、都市になる。その都市が「国家」になっていった。

人は、集落をつくる。人恋しさで一か所に集まってくる。べつに衣食住の便利のために集まってくるのではない。その便利はあくまで「結果」のことであり、「原因」は「人恋しさ」なのだ。

9000年前のメソポタミアには、8000人の大集落があった。これが人類最初の都市であるのかもしれない。そこは全体が平屋建ての巨大な集合住宅になっていて、みんなは屋上から出入りをしていた。つまり家は私有財産ではなかったということで、おそらく原始共産制の社会だった。したがってこれは「都市」ではあったが、支配者のいる「国家」ではなかった。

自分ひとり生きてゆくためなら、それほどあくせく働く必要はない。しかしそこには女も子供も老人も病人も障害者もたくさんいるのだから、働ける者はたくさん働かなければならない。それでも、そこで暮らしたかった。なぜならそこには、生きてあることの深いカタルシス=快楽があったからだ。それを求める「人恋しさ」で集まってきたのだ。衣食住のために集まってきたのではないし、衣食住のために働いたのではない。生きられない弱いもののために働いたのだし、その「捧げもの」の行為に深いカタルシス=快楽があった。

そこには人と人が他愛なくときめき合い助け合って生きることのカタルシス=快楽があったし、貨幣はもともとそのカタルシス=快楽の形見として生まれてきたのだ。

貨幣は生きるための衣食住のものよりも価値があるからこそ「交換の道具」になっていった。そのカタルシス=快楽は、「もう死んでもいい」という勢いとともに生まれてくる。すなわち彼らは「もう死んでもいい」という勢いで都市に集まってきたのであり、人類が地球の隅々まで拡散していったのもつまりはそういうことであって、けっして衣食住のためであったのではない。

この命には、意味も価値もない。貨幣にこそ、意味も価値もある。かつて貨幣は、すべて「捧げもの=浄財」であった。

人は生きるために生きているのではない。世界や他者が輝いているから、「結果」として生きているだけだ。貨幣は、その「輝き」の形見なのだ。

 

原始社会に、余剰の食糧などなかった。みんなかつかつで生きていた。だから、みんなで分け合っていた。それが原始共産制であり、やがて人がたくさん集まってきて都市という大集落が形成されると、分け合ってもまだ足りない事態が起きてきたために農業が発達し、余剰の食糧が生産できるようになっていった。

その余剰の食糧を吸い上げる装置として文明国家が生まれてきた。そうして、弱いものに対する「捧げもの」の分まで吸い上げていった。そしてその吸い上げるために有効な道具だったのが因果なことに「貨幣」だったのであり、貨幣と物を交換するという習俗は、文明国家とともにはじまった。

農業が発達して余剰の食糧が生産されるようになったとき、その余剰の食糧は、貨幣と交換されていった。

6~7千年前ころのメソポタミアは、チグリス・ユーフラテス川の北側は砂漠化が進み、南側は肥沃な穀倉地帯だった。しかし大きな都市集落は、北側に多く点在していた。なぜならそこには銀の鉱山があり、銀の精錬技術が発達していたからだ。それを求めて、あちこちから人が集まってきた。すなわち銀の「貨幣」によって、人も物もどんどんそこに集められていった。

メソポタミアの都市のほとんどは砂漠につくられている。それは、人が衣食住のために都市に集まってくるわけではないことを意味している。

川の南側の穀倉地帯の民は衣食住のさまざまなものを持って北側の都市国家に行き、それをきらきら光る銀に代えて持ち帰ったり、あるいは都市の賑わいの中の娼婦や音楽やギャンブル等のさまざまな娯楽に溺れて銀=貨幣を使い果たし、すっからかんになって帰って行ったり、そこに住み着いて自分も銀で商売をしようと志したりする。都市の経済的な仕組みはまあ、現在と大して変わりはない。良くも悪くも人間にとっての貨幣は、衣食住のものより価値があるのだ。

人は、生きるために生きるのではない。

都市は、人と人が出会ってときめき合う場所だ。それがあれば人は生きられるし、それがなければ生きられない。衣食住は必要だが、衣食住が最終的な目的になるわけではない。人によっては貨幣が最終的な目的になりうるのは、それが衣食住と交換できる道具だからではなく、貨幣であることそれ自体がこの生のよりどころになりえているからだ。

貨幣の本質は「捧げるもの」であることにあり、資本家は、「投資」という名の「捧げもの」によって「利潤」を吸い上げることの免罪符にしている。そういうややこしい貨幣経済のシステムは、メソポタミア都市国家の発生のときからすでにはじまっている。そのときから貨幣は、純粋な「捧げもの」であることに加えて「搾取・収奪」という機能も持つようになった。

 

ともあれ貨幣について考えることは、「都市=まち」について考えることでもある。

文明国家の出現によって、「都市=まち」も「貨幣」も変質していった。「支配=被支配」の関係性や「私有財産」という観念が生まれてきたからだろう。

「都市=まち」が変質したから、「貨幣」も変質していったのだろうか。それは、人と人の関係が変わっていった、ということだ。助け合わないと集団が維持できないのなら助け合うだろうが、助け合ってがんばった結果として余剰の生産物が生まれてくれば、それに対する奪い合いも起きてくるし、助けようとするモチベーションも落ちてくる。また、外部からそれを奪いに来る集団もやってくる。そうして人々のあいだに不安が広がってくれば、それに乗じて軍隊を組織したり呪術を生み出したりして、みんなを支配し搾取・収奪するものが現れてくる。

みんなが他愛なくときめき合い助け合っている社会であるのなら、たとえ貧しくても不安は生まれてこないし、死の恐怖も和らげられる。人と人の関係が不安定だから不安になるし、死の恐怖も肥大化する。

「搾取・収奪」する関係も「交換」する関係も根は同じで、人と人の関係に対する不安や死に対する恐怖があるからだ。

「等価交換」という観念の上に成り立った物々交換や貨幣経済は、文明国家における不安と恐怖から生まれてきたのであり、とくにメソポタミア地方は世界中のどの地域よりも早く文明国家を生み出したそのぶんだけ、そうした観念に染まりやすい風土なのだろう。だから、その後は停滞した歴史を歩むほかなかった。そのとき社会は、「等価交換」の観念によって原始的な「捧げもの」の習俗が失われていった。

現在であれ古代であれ原始時代であれ、「捧げもの」こそが人間社会の活性化を担保している。

ヨーロッパであれ日本列島であれ、「捧げもの」という原始的な関係性や集団性を残しながら文明国家へと移行していったから進化発展してくることができた。

「等価交換」というたてまえの損得勘定ばかりしていたら、人と人の関係も社会も停滞していってしまう。中東地域の女たちが黒い布で顔を隠している風俗はおそらくその象徴であり、そういう社会には「飛躍=イノベーション」がない。

 

いつの時代も貨幣とは「等価交換の道具」ではなく、「等価交換を超えてゆく道具」なのだ。そういうかたちで人は「捧げもの」をするのだし、100円のものを1000円で売ったりもする。

社会の経済は、「捧げもの」というかたちで貨幣が「消えてゆく」現象を組み込みながら活性化してゆく。「等価交換」ばかりしていたら、社会は停滞してゆく。終わらなければ始まらない。人類の歴史もこの生も、「もう死んでもいい」という勢いで終わり続け始まり続けることによって進化発展するのだし、成長もする。

現在においても、「等価交換」という旧来の認識にこだわる経済政策においては、「プライマリー・バランス」などといって税収の範囲内で予算を組もうとし、「もう死んでもいい」という勢いで国債発行してゆくことをとても嫌がる。

国債発行をすれば国の経済が破綻するというのなら、そういう可能性がないともいえない。しかしそれでも「もう死んでもいい」という勢いで発行してゆかなければ社会の経済は活性化しないのだ。

生きることは死に続けることであり、そうやってたえず「生きはじめる」ということを繰り返してゆくことだ。そうやって朝に目覚めれば「おはよう」という。終わらなければ、何もはじまらないし、続いてゆくこともない。

国債はまあ、本質的には国民に対するひとつの「浄財=捧げもの」であり、民衆だって大震災のときなどには「募金」という名の「浄財=捧げもの」をする。

たとえ現代であろうと、原始的な「捧げもの」の習俗が豊かに生成している社会でなければ人と人の関係も貨幣経済も活性化しない。

「捧げもの」の関係は、親が子育てをするように、恋人どうしがプレゼントを差し出し合うように、社会の片隅においてもっとも活性化している。その「片隅」が集まって「まち」になり、「まち」の外縁が国家の権力社会と民衆社会の境界になっている。「まち」は、国家に支配されつつ、国家から独立した治外法権の社会集団でもある。

しかし現在は、「まち」も「家族」も国家権力の制度に洗脳されすぎている。いまや「等価交換」の幻想は、「コスパ主義」というかたちで個人の心の中にも及んでいる。そうやって「まち」のいとなみが停滞してしまっている。

「まち」は、「もう死んでもいい」という勢いで他愛なくときめき合い助け合ってゆく「お祭り」によって活性化してゆく。

 

「まち」に「お祭り」を……上述の「沈黙交易」だって、見知らぬ土地から捧げられた「新しいもの」との出会いのときめきの形見として村の木の実を捧げ返したのであって、彼らの暮らしに魚が必要だったのではない。したがって魚の価値など測りようがないわけで、それは「等価交換」ではなかった。

沈黙交易」は、経済活動というより、たんなる「お祭り」なのだ。だからこそそれが大切な生のいとなみなっていた。なんのかのといってもこの習俗は、文明国家の歴史と同じだけ何千年も続いてきたのだ。

死者が生き残った者に何かを遺す。遺言は、なぜ死んだ後にしか見ることができないのか。生き残った者たちは死者の棺にさまざまな副葬品を捧げる。そしておいおい泣いて涙を捧げる……これらのことだってまぎれもなく「沈黙交易」なのだ。

人の世は「もう死んでもいい」という勢いで「等価交換」を超えてゆく……そこにこそMMTの思考の基礎があるのだろうし、人と人の関係や人類の集団性の本質がある。人類は根源において「死(=沈黙)に対する親密さ」を共有している。「消えてゆく」ことのカタルシス、メタ思考……現実的な経済の動きがどうのこうのとえらそげに御高説を垂れている現在の経済学者よりも、「沈黙交易」をしていた未開人のほうがずっと高度でアクロバティックな思考をしている。

昔の中国の銅銭は、真ん中の四角い穴が現実の世界で、本体の部分は超越的な天上世界をあらわしていた。つまり彼らは、現実の世界なんてただの虚無だという認識というか感慨があった。現実の世界を語っているだけでは貨幣経済の謎は解けない。人は、天上世界に対する遠いあこがれを生きている。自分もこの生も現実の世界もたんなる虚無で、天上世界だけがリアルな存在だ。色即是空……東洋思想は、だいたいそのような認識になっているし、「虚無=非存在」を認識することこそが現在の世界の最先端の哲学や物理学の潮流でもある。MMTだって、そういう時代意識を背負って登場してきた。

人は、自分の生を否定しつつ、他者の生存を願っている。他者だけが確かな存在なのだ。自分の生は、他者の生が前提になければ成り立たない。人類の集団性は、そうやってときめき合い助け合ってゆくことによって進化発展してきた。

「自我の尊重」や「生命賛歌」が叫ばれる時代だが、そんなところに人間性の自然・本質があるのではない。それは、近代合理主義の大きな誤謬だ。そんな愚にもつかないことを合唱しながら現在のこの世界は、さまざまな混乱や理不尽を引き起こしている。

自分や自分の命を否定することを否定するべきではない。生きてあることのいたたまれなさは、だれの中にも疼いている。何か嫌なことがあると人は、すぐに「生きることなんか面倒くさい」とか「死んでしまいたい」などと思ってしまう。「死」を知ってしまった存在である人類の集団は、そういう死に対する親密さを共有しながら活性化してゆく。そうやって「もう死んでもいい」という勢いの「祭りの賑わい」が生まれてくる。

自己否定しつつ「消えてゆく」カタルシスを抱きすくめてゆくということ、そこにこそこの生のダイナミズムがあり、おそらくそうやって人は死んでゆく。そういう原初以来の普遍的な生のサイクルの上に「貨幣」が成り立っている。

僕は、「幸せ」というのがどんなものであるかということはよくわからない。しかし、この世に生まれ出てきて死んでゆくこの過程が「祭りの賑わい」であればと願っている。この社会この「まち」が、だれもが他愛なくときめき合い助け合ってゆく集団=場であるということ……「一期は夢よ、ただ狂え」……それが日本列島の民衆社会の伝統であり、原初以来の人類の歴史でもあるのではないだろうか。

 

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『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたものです。

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初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。

世界は輝いているか……ここだけの現代貨幣理論

承前

貨幣の起源と本質について考えてゆくと、MMTがそれと矛盾していないことがわかる。

ips細胞だって、細胞の起源と本質にかなっているから実現したのだろう。

人間社会の多くの問題は、とりあえず起源のところまでさかのぼって考えてみないと解決の糸口が見えてこないという側面があるし、それが究極の未来のかたちでもある。

起源=本質を突き止めることによってイノベーションが起きてくる、ともいえる。

現在のこの国の政治はそうした基礎研究に投資することを削って、上滑りしながら「今ここ」の損得勘定に上に成り立つ実学ばかりを奨励しているらしい。そういう風潮だから、MMTの理論も既存の経済学者たちから毛嫌いされてしまう。

MMTは、「貨幣は<交換>の道具である」というこれまでの常識には当てはまらない。だから「天動説に対する地動説である」といわれたりするわけだが、その認識の根本は「貨幣の本質は<交換の不可能性>に上に成り立っており、それは<現れて消えてゆくもの>である」ということにある。

銀行が貸した貨幣は、そこに書き込まれた数字として出現したものであって、顧客から預かっている預金を流用しているのではない。そして、借主がそれを返せば、その金額はこの世から消えてしまう。そのようにして、この世の貨幣はすべて「現れて消えてゆくもの」として成り立っている。

商品を買うことは、自分の財布から貨幣が消えてなくなることである。そのとき買い手は、その「喪失感」を抱きすくめるようにして貨幣を支払っている。そして売り手は、そこに貨幣が出現したことにときめいている。

その「喪失感」のカタルシスにこそ、人としての「快楽」の本質が宿っているのであり、そこに付け込んで「商品を売る」という行為が成り立っている。商品は最初からその金額の価値があるのではない。売れることによって、はじめてそこに価値=金額が出現するのであり、売れなければそれは1円の価値もない。売買が成立するとき、その1円の価値もないものをきっかけにしてそこに1000円が出現するのであって、1000円のものを1000円で売って「等価交換」しているのではない。とにかく、売れなければ1円の価値もないものなのだ。最初から1000円の価値を持っているのではない。1000円の価値は、売れたときにはじめて「出現」する。そして、買い手の財布から1000円が消えてゆく。

貨幣は「現れて消えてゆくもの」としてこの世界を駆け巡っている。

貨幣だって、生まれてきて死んでゆくものなのだ。人はこの生を思い死を思う存在だから、貨幣を生み出した。

MMTは、モダン=現代だけの貨幣理論ではない。貨幣はもう、きらきら光る貝殻や石粒だった起源のときからそういうものだったのだ。

 

この世界のすべての神羅万象が「現れて消えてゆくもの」であり、そういう現象に対してときめいたりかなしんだりしながら人類の歴史が進化発展してきた。

言葉=音声だって、現れて消えてゆくものだろう。そのことの不思議に関心を深くしながら、しだいに「言葉」というかたちになっていった。

人類はもともとさまざまな音声を発する猿だった。さまざまな心模様を持っていて、さまざまな音声を発する。しかし、人の心なんかわからない。わかるのは、音声が心をあらわしているということであり、聞くものは音声を心として受け止める。音声が心なのだ。心と心が通じ合うことなんか不可能だからこそ、音声があらわす心模様を共有してゆこうとする。

心に価値があるのではない、音声そのものに価値がある。音声は、光の輝きと同じように、「異次元の世界」からやってきて、またそこに向かって消えてゆくものである。

まあ原始社会はだれもが他愛なくときめき合い助け合っていたから、他者の心がわからなくても、他者の心を疑うということはしなかった、だから、言葉があらわしている心を信じることができた。心そのものを信じたのではない、言葉を信じたのだ。

現在でも、人は言葉=音声を信じている。だから、だまされたりする。

人は、他者の発した言葉を、自分の言葉として受け止める。他者が「リンゴ」というとき、他者にとっての「リンゴ」の意味と自分にとっての「リンゴ」の意味が同じかどうかはわからない。しかし、「リンゴ」という言葉そのものは信じている。

商品の1000円という価格=価値はお金を払う買う側の者にとっての価値であって、売る側の者にとっての価値ではない。まあ売る側は、おおむね700円か800円の価値しか見ていない。「等価交換の不可能性」、その「交換=売買」は、買う側の勝手な商品の価値に対する信憑と貨幣を喪失することのカタルシスの上に成り立っている。

言葉だって「伝達の不可能性」を負っているのだが、それでも言葉そのものは信じられている。その「伝達」は、聞く者の勝手な言葉に対する信憑の上に成り立っている。そして人の言葉に対する信憑は、言葉=音声が「現れて消えてゆくもの」であるこことの、その「超越性=異次元性」に対する遠いあこがれの上に成り立っている。

言葉だって、光の輝きと同様に、「異次元の世界」からの贈りものであって、自分の脳の中に収められてあるのではない。脳の外のどこかから脳の中に入り込んでくるかたちで言葉を浮かべている。人は、言葉を脳の中に記憶しているのではない、そのつど「思い出す」のだ。言葉で思考しているのではない、思考の結果として言葉が下りてくる。

人類は、二本の足で立ち上がることによって「異次元の世界」を見つけてしまった。それは、宇宙の果てであると同時に、「今ここ」の裂け目の向こう側にある。そうしてそれはまた、「死者」の世界でもある。死を思え、死者のことを思え……その「異次元の世界」に対する遠いあこがれ、すなわちそういう「メタ思考」とともに貨幣や言葉が生み出されてきたわけで、「メタ思考」は人間が人間であることの証しであり、それがなければ人類史のイノベーションや進化発展はなかった。

 

言葉の起源は、「やあ」とか「おい」とか「ねえ」とか、そのような他者への「捧げもの」であったはずだ。その延長として「おはよう」とか「さようなら」とか「ありがとう」というような言葉が生まれてきた。貨幣の本質が「浄財」であることにあるように、言葉の基礎と本質もまた、他者への「捧げもの」であることにある。

人間とは、「捧げもの」をする存在である。それによって「原始共産制」が成り立っていたのだし、それゆえにこそ猿のレベルを超えた際限もなく大きな集団をいとなむことができるようになっていった。

人類の集団というか社会は、「捧げもの」の関係が豊かに生成することによって活性化してゆく。「捧げものをする」とは、「自分の大切なものを失う」ということであり、「大切なもの」の究極・根源は「自分」であり「自分の命」であるのだろう。人が「捧げものをする」とき、心の底において「自分」および「自分の命」を差し出そうとする衝動がはたらいている。

「自分」および「自分の命」が「消えてゆく」ことのカタルシスというものがある。そうやって人は、「われを忘れて」何かにときめき熱中し感動してゆく。だれにとってもこの生は本質的根源的には「悲劇」であり、だからそうしたことが起きるのだし、そこにカタルシス=快楽を覚える。「捧げもの」の関係が豊かに生成している集団=社会とは、「豊かにときめき合い助け合っている」ということだ。

だれもが「自分」および「自分の命」を守ろうとしているのなら、「他者」および「他者の命」を守ろうとする必要なんかない。意識が自分に向いているということは、他者に向いていないということだ。そうやってときめき合い助け合う関係が希薄になっている集団は、停滞し縮小してゆくほかない。それはまさに、現在のこの国の状況だろう。

この停滞と縮小から脱出する方法はあるのか?われわれはそれを、貨幣や言葉の起源と本質から学ぶことができる。

 

MMTの理論は「貨幣は本質において<現れて消えてゆくもの>である」という認識の上に成り立っている。つまり、現在の資本主義社会において貨幣を介在して生み出されむさぼり取られている「利潤」は、貨幣の「現れて消えてゆくもの」という本質によって無効化することができる、といっている。

貨幣は、商品の売買の際に「交換の道具」として先験的に存在しているものではない。商品の売買の結果として「現れて消えてゆくもの」なのだ。1000円の値札が付いているから、1000円の紙幣が財布から現れ、そして買い手のもとから消えてゆく。買わなければ、財布の中の1000円なんかただの紙切れだし、売れなければその商品に1円の値打ちもない。

貨幣は、先験的に存在する「交換の道具」ではない。言葉のように、その瞬間に「現れて消えてゆくもの」なのだ。MMTの理論には、そういう認識がある。だから、とても魅力的だし、本質的でもある。しかしどんなに高名な経済学者だろうと、貨幣が「交換の道具」として先験的に存在するという前提で考えているかぎり、この理論を理解するのはとても困難なことであるらしい。彼らは、MMTのいう「消えてゆく・消すことができる」という認識が癇にさわるのだとしたら、それは彼らの潜在意識としての「死の恐怖」からくるのかもしれない。もしくは「生命賛歌」「等価交換」「平等」等々、そういういわば近代合理主義の前提をひっくり返されることが気に入らない。

「生命賛歌」は現在の世界の「正義」である。そういう「正義」に縛られている者たちはMMTを理解できない。彼らは善人で、われわれは人間のクズだ。

自分なんか生きてる値打ちもない人間のクズだ、と思って何が悪い?だからこそ、まわりの人たちには「生きていてほしい」と願う。まわりの人たちが生きていてくれなければ、自分は生きていられない。

今や「自己肯定感」とやらが素晴らしいとされている世の中だが、人が人であることの自然・本質は「自己否定」することにあり、それを否定するべきではない。その「自己否定」の気持ちに寄り添うということが、なぜできないのか。

だれもが「自分には生きる価値がある、生きていたい」と思っているのなら、だれも他者に対して「生きていてほしい」と願う必要がない。それでいいのか?そういう社会は、停滞し、衰弱してゆく。それが現在の世界だろう。

人間は、「生きてることなんか面倒くさい、生きていたくない」という思いが起きてくるような存在の仕方をしている。

しかしそれでも世界は輝いている。

人が生きているのは、「生きていたい」と思うからでも「生きることには価値がある」と思うからでもない。われわれは、「世界の輝き」によって生かされてある。

人類にとって貨幣や言葉は「世界の輝き」の形見であり、「世界の輝き」は「現れて消えてゆくもの」である。

「みんな死んでゆく」ということは、とりあえず「みんな生きている」ということでもあり、死に対する親密さの上にこの生が成り立っている。この生を否定することは、死に対する親密さの上に成り立ったこの生を肯定することでもある。この生のはたらきは、「消えてゆく」ことのカタルシスとともに活性化してゆく。貨幣が「消えてゆくもの」であるということは、この生が死に対する親密さの上に成り立っているということでもある。貨幣が「現れて消えてゆくもの」であるということには、彼らが考えているよりももっと深い意味がある。

 

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