祭りのあとのかなしみと現代貨幣理論

 

 

京都市長選で、福山和人候補が負けてしまった。あんなにも盛り上がっていたのに、応援していた人たちはそうとうなショックだったにちがいなく、悶々として眠られぬ一夜になったことだろう。

今回は、権力者である現職の候補と反権力の市民派二人の三つ巴の選挙になったわけで、そうなったら市民派の票が割れて現職が勝つに決まっている。市民派二人の思想が右寄りか左よりかということは、あまり関係なかった。現職候補の票が21万で福山氏は16万、そして3番手である右寄りの市民派候補も10万票を集めてしまい、けっきょく市長候補の票が割れるということはあまりなかった。もしもこの3番手の人が立候補しなければ福山氏に圧倒的な反市長の票が集まったにちがいない。まったくおじゃま虫そのものだったわけだが、まだ若くて野心満々というか自己顕示欲旺盛の人だから、そんなことは知ったことではなく、4年後8年後12年後の地固めをしているつもりなのだろう。右傾化した時代に踊らされている若者たちから一定の票を集めたこの候補にこんなふうに引っ掻き回されているかぎり、とうぶんは京都で市民派の候補が勝つことはないにちがいない。

京都の「町衆」の文化は、いったいどこに行ってしまうのだろうか。

いや、時代の右傾化の傾向が後退してくれば、この目立ちたがり屋の3番手の候補の人気も、やがてはN国党のようにしぼんでゆくのかもしれない。

京都は伝統的に共産党が強い土地柄だが、今回の敗因にはその神通力にも陰りが見えてきたということもあるのだろうか。反市長の票を集めきれなくて、かなり3番手の候補に持っていかれてしまった。つまり共産党は、支持者の老齢化が進んで、若い層の支持があまり増えていない。とくに男は老人ばかりで、そんな人たちが街頭演説をする福山氏の横に並んでも、さっぱり見栄えがしない。女たちは若い層も頑張っているのだが、男の年寄りたちがそれを押しのけて前に出てこようとする。これは、左翼全体の傾向かもしれない。団塊世代を中心とするオールド左翼というのは、やっかいな人たちが多い。まあ右翼の年寄りだって同じだが、40代以下の若い主婦やOLや女子大生などがもっと目立たなければ「祭りの賑わい」は盛り上がらない。

では、今回自民党と手を組んで現市長を応援した立憲民主党や国民民主党は面目を保ったといえるだろうか。今回は全国的に注目された選挙である。そこで、党利党略のためには自民党とも手を組むという姑息な姿を日本中にさらしたわけで、なまじ勝ったからこそ、よけいに野党の支持者たちの幻滅は深い。あの連中はもういらない、と思った者たちがたくさんいる。党利党略がいちばんで「民衆の心の寄り添う」というのは二の次、政治家なんてそんな人種か、と思われてしまった。立憲民主党の支持者の4割くらいは福山氏に投票した、といわれている。そうして現市長の得票数は、投票率が5パーセント上がったにもかかわらず、前回よりも4万票くらい減らしている。

京都市民はもとより全国の人々だって、現在の市政はひどいもので現市長よりも福山氏のほうが圧倒的に人格も見識も優れている、と思っているのに、それでも既得権益者たちの組織票によって負けてしまった。

京都は終わった……日本の政治はすでに終わっている……という声が全国に広がっている。

僕も今度こそはおもしろいものが見られそうだと期待したが、そうはならず、大いにがっかりした。ほんとにもう、この国は二度と立ち上がれないのか、とも思った。

なぜ期待したのかといえば、「つなぐ京都2020」という女たちの市民グループが活発に動いていたからだが、いかんせん時間が足りなかった、ということだろうか。その2か月ちょっとの活動で前回35パーセントだった投票率を40パーセントに上げたのだからそれなりの成果はあったのだが、反市長の側が二つに分かれた三つ巴の戦いを制するためにはあと10パーセント上げる必要があり、そのためにはさらにもう半年くらい早く候補者を決めて運動をはじめていないと間に合わなかったのだろう。

彼女らは、くじけないでこの運動をつないでゆくことができるだろうか。そうでないと、ほんとうに京都もこの国も終わってしまう。

この国が「新しい時代」に分け入ってゆくためには、女たちの市民グループが組織されることこそ希望になる。運動には「華=祭りの賑わい」が必要だ。貧相なオールド左翼のじじいたちはあまりしゃしゃり出てきてほしくない。やつらを置き去りにして盛り上がっていってほしい。願わくば、ここから漕ぎ出していってほしい。

 

貨幣の話に戻ろう

MMTでよくいわれる「万年筆マネー」とは、「銀行が貸すお金はそこに万年筆で金額を記入することによって発生しているのであって、預金としてお客から集めたお金を貸しているのではない」というようなことらしい。そうして借りた者がそれを返せば、この世からその金額が消えてなくなる。このことは、太陽や月が現れて消えてゆくことや人の命が現れて消えてゆくことと、とてもよく似ている。貨幣とは、出現して消えてゆくものだ。出現して消えてゆくことはこの宇宙の摂理であり、人の命もそこから逃れられない。

起源としての貨幣が「きらきら光るもの」であったということは、それが「出現して消えてゆく宇宙の摂理」の形見として生まれてきたということを意味している。太陽や月がそうであるように、この世のすべての「きらきら光るもの」のその「輝き」は「出現して消えてゆくもの」にほかならない。

人の心は、「きらきら光るもの」にときめき感動する。それは、空の彼方の「異次元の世界」からやってきて、またそこに帰ってゆく。人の心の「きらきら光るもの」に対するときめきは、空の彼方の「異次元の世界」に対する遠いあこがれであり、またそこは、「今ここ」の裂け目の向こう側に横たわっている「死者」の行く世界でもある。

地上のこの世界において「きらきら光るもの」は、「死者の世界」から現れ出てきてまたそこに向かって消えてゆく。起源の「きらきら光るもの」としての貨幣は、「死者の世界」からの「贈り物」であると同時に、「死者」の世界に対する「捧げもの」でもあった。そしてその本質は、現在でも葬式のときの「香典」として残されている。

人類の「香典」は、2万年前の原始人が死者の棺におびただしい数のきらきら光るビーズの玉を捧げたところからはじまっている。

今どきは「香典なんか無駄な儀礼だ」という言説も飛び交っているらしいが、そうではない。それは、死者を失った「かなしみ」の形見であり、死者への「捧げもの」である。べつに、生き残った家族に差し出しているのではない。つまりそれは、人間存在の根源および貨幣の本質が現れて消えてゆくものであるということと深く通底している。

貨幣は、人間にとってもっとも大切なものであると同時に、それゆえにこそ必ず消えてゆくものでもある。

この命がそうであるように、人にとってもっとも大切なものは、消えてゆくものでもある。

自国通貨建ての国債は、必要とあればいつでも消してしまうことができる……というMMTの説明は、おそらく貨幣の本質にかなっている。

貨幣は本質において「消えてゆくもの」だから、作り続けねばならないのだ。国債は、発行し続けねばならないのだ。

現れて消えてゆくものであるという貨幣の本質が現在ほどダイナミックに機能している時代もないともいえる。おそらく貨幣は、人が存在するかぎり永遠に「現れて消えてゆくもの」であり続けることだろう。いつの時代も貨幣の意味と価値はそうした人間存在の普遍的な無意識の上に成り立っているのであり、知ったかぶりをして「貨幣の本質には意味も価値もない」というようなスノッブなことをいっていても、この社会のシステムを根本的に変えてゆく説得力にはならない。

 

僕は、現在の貨幣経済についての具体的なことなど何も知らないし、この先どうなってゆけばいいのかということもさらにわからない。知りたいのはあくまで「貨幣の起源と本質」についてであり、それはまた「人間とは何か」という問題でもある。

この世に流通している貨幣の本質は「人間とは何か」という問題の上に成り立っているわけで、「資本主義社会とは何か」という問題設定だけでは見誤ることもあるにちがいない。

とはいえ僕は、「資本主義社会とは何か」ということもよくわからない。まあ資本主義社会とはこの世界の政治経済の支配層によってつくられたシステムであり、民衆社会の伝統=本質の上に成り立っているのではない。この世界の片隅として民衆社会は、その「片隅」の度合いが濃くなればなるほど、権力社会とはまったく違う関係の集団性になってゆく。そこでは、「私有財産制の上に成り立った資本義的な契約関係の集団性」とは別の次元の、「他愛なくときめき合い助け合う原始共産制的な関係の集団性」が息づいており、それをどのように社会全体の動きに反映させてゆくことができるかというのが、人類の集団性の究極の課題であるのかもしれない。

まあいつの時代も人の世は「憂き世」であるわけで、だからこそ足の引っ張り合いも起きれば、他愛なくときめき合い助け合いもするし、権力社会の権力闘争のような足の引っ張り合いばかりの世の中になったら生きていられない。

この国の民衆は、つねに権力社会とは別の次元の集団性を持っている。この国の伝統においては、権力社会と民衆社会のあいだに「契約関係」がない。だから権力社会は好き勝手なことをするし、民衆社会は自分たちだけの集団性を大切に守り育ててきた。

日本人は普段の生活の場で政治の話をしないからダメだ、などとよくいわれるが、民衆社会の伝統においては「国の政治」の話をしないのがひとつの「美徳」であり、この習俗がそうかんたんに改まることはおそらくないだろう。それは民衆の、自分たちには自分たちの「政治=集団運営の流儀」があるというプライドのあらわれでもあり、民衆社会に「政治に対する意識」がないというのではない。

「日本人には公共心がない」などともいわれるが、それは国家レベルの「公共」に対する意識が薄いだけで、民衆社会のときめき合い助け合う「公共心」は豊かに持っている。だから、大震災のときなどは混乱することなく粛々と助け合うということをする。欧米社会などは国家と民衆社会に「契約関係」があるから革命も起こるが、それはまた、いったん無政府状態になったら大きく混乱してしまう、ということでもある。この国では、そういうことは起きない。それでも粛々と助け合う。そういう「公共心」の伝統がある。

集団性=公共心の二重構造……この国の民衆社会の集団性=公共心は、国の政治に依存していない。だから、国の政治についての話はしない。

この国の民衆社会の集団性=公共心における経済の基礎は、資本主義社会の貨幣流通の属性である「交換」や「契約」や「競争」の上にではなく、「一方的に<捧げもの>を差し出し合う関係」の上に成り立っている。貨幣は本質において「浄財」であるということ、すなわちそういう人類普遍の「原始共産制」を引き継いでいる。そうしてこの国の権力社会は、その「捧げもの」の心に付け込み、好き勝手な支配をしてくる。そうやって社会のシステムが、欧米以上に資本主義化してしまっている。

 

権力社会との「契約関係」がないこの国の民衆は、権力社会に対して抵抗したり交渉したりするというような「公共心」に欠けている。だから、国の政治の話をしない。

この国の民衆が国の政治を変える方法は、国に対して抵抗したり交渉したりするのではなく、国を置き去りにして民衆自身の「関係性=集団性=公共心」で盛り上がってゆき、国のほうがそれに合わせてくるように仕向けるしかない。

今や民衆どうしが足の引っ張り合いをしているような状況では、権力者の思うつぼであり、この停滞した状況は変わりそうもない。

この空気を一気に変えるカリスマのリーダーの登場が待ち望まれる。

みんながときめき合い助け合う関係になるためには、みんなで同じ対象を祀り上げてゆく盛り上がりが必要になる。その「祭りの賑わい」から「ときめき合い助け合う関係の集団性」が生まれてくる。まあそうやって起源としての天皇が生まれてきたのだし、みんなしてカリスマを祀り上げようとするのは、人間の集団性の本能のようなものだ。

貨幣だって、人間集団のカリスマとして生まれてきたのだし、現在でも本質的にはそのような「捧げもの」の形見として存在し機能している。

起源としての貨幣は人間集団の「祭りの賑わい」から生まれてきたのであって、「交換の道具」として生まれてきたのではない。その「祭りの賑わい」においては、みんなが「捧げ合って」いたのであって、「交換」していたのではない。

「捧げる」とは、大切なものを「喪失する」ことである。商品を買うことは、大切な貨幣を「捧げる=喪失する」ことだ。貨幣は「喪失感」の形見であり、「喪失感」こそ人にとってのもっとも深く豊かな「快楽」なのだ。そうやってセックスのときの女は身も世もなくあえぎつつ、オルガスムスにいたれば「死ぬう!」という。

セックスだろうとお祭りだろうと、「もう死んでもいい」という勢いでなされている。

商品を買うことは、「もう死んでもいい」という勢いで貨幣を差し出すことだ。

起源としての貨幣は、「喪失感」というカタルシスの形見として生まれてきた。そうやって2万年前のスンギール遺跡の原始人は死者の棺におびただしい数のきらきら光るビーズの玉を捧げたのだし、古代の中国の民衆もまたきらきら光る銅銭の束を惜しげもなく死者に捧げていった。

「喪失感」のカタルシスの形見である貨幣は、「大切なもの」であると同時に「消えてゆくもの」でもあらねばならない。現在でも貨幣の本質は「捧げるもの」であることの上に成り立っており、人の集団性の本質もまたそこにある。捧げ合い助け合う関係が盛り上がってこなければ、集団のダイナミズムも生まれてこない。新しい時代に分け入るエネルギーは生まれてこない。

貨幣は、人類の集団性の本質を担保する形見である。したがって「貨幣は本質において意味も価値もない」などとスノッブなことをいっていても、この世から貨幣がなくなることはない。なくなるものだから、たえず新しくつくられ続けてゆく。

貨幣が悪いのではない、貨幣を扱う人の心や社会の構造が歪んでいるのだ。貨幣は本質において「浄財」であるがゆえに、人の心や社会の構造を歪ませもする。そこがやっかいなところで、正直な民衆がバカを見る世の中になってしまう。だから正直な民衆の声を聞くために選挙制度が生まれてきたのだし、民主主義ということが叫ばれている。

 

「正直な民衆」とは、どういう人たちのことか。

人として正直であるとは、べつに嘘をつかないというようなことではなく、人間性の本質に沿って生きている、ということだ。

人間性の本質は、女のもとにもっとも深く豊かに宿っている。

ここでは「貨幣の本質は人間性の本質にかなっている」と書いてきたわけだが、それは、「もう死んでもいい」という勢いで「捧げもの」をし、その「喪失感」を抱きすくめてゆく「カタルシス=快楽」にある。そして女こそそういう「カタルシス=快楽」をもっとも深く豊かに汲み上げている者たちであり、とくに「処女=思春期の少女」は、その気配によってこの世でもっとも輝く存在たりえている。

なんのかのといっても「処女喪失」は「もう死んでもいい」という勢いで「捧げもの」をする体験であろうし、そうした「処女性」はすべての女の中に宿っている。いや、男の中にだって宿っているともいえるわけで、その「自己処罰」の衝動こそ人間性の本質であり、貨幣の本質的な存在理由なのだ。

人類にとって「自己処罰」はひとつの「聖性」であり、そこにこそ「処女=思春期の少女」の輝きがある。そうやって彼女らは、歴史的に人の世の「生贄」にされてきた。

「自己処罰する」とは「われを忘れる」ということ。そうやってこの国の民衆社会および普遍的な「原始共産制」の社会は、他愛なくときめき合い助け合ってゆく。われを忘れて何かにときめき熱中してゆくことは人間性の普遍的な自然であり、それによって人類史のさまざまなイノベーションが起きてきた。

貨幣もまた、自己処罰し消えてゆく。貨幣は人間性の自然の反映およびこの宇宙の摂理の形見として生まれてきて、数万年の歴史を存在し続け、これからもきっと人が人であるかぎり存在し続けてゆくにちがいない。

良くも悪くも貨幣は、人が人であるためのよりどころなのだ。心が歪んでいたって人であることには変わりないし、だれだって「人」であろうとする。人は、生きてあることの「よりどころ」を持たなければ生きていられない。この世に生まれ出てきてしまったことの「不幸」とどう和解すればいいのか。その「不幸」を抱きすくめて生きるしかない。

人は死んでゆくしかない存在だし、貨幣もまた「消えてゆくもの」としてこの世界に流通している。

人を支配したりだましたりして「利潤」を吸い上げるものも、支配されだまされている正直者も、等しく貨幣を人が人であるためのよりどころにしている。言い換えれば、貨幣こそが真の正直者だ、ともいえる。貨幣が貨幣であることの真実は、「意味も価値もないただの紙切れや数字にすぎない」というようなことにあるのではない。

だれだって、この世界に現れ出てこの世界から消え去ってゆくものであるという宿命を負って存在している。貨幣は、この世界は現れ出て消えてゆくものであるという宇宙=森羅万象の摂理の形見として存在している。

人が人であるかぎり、貨幣は永遠に存在し続ける。

 

人は、生きてあることのよりどころがないと生きていられない。それは、知能が発達して「死」について考える存在になってしまったということだろうが、とにかく考えたり感じたりすることが多様すぎて、さらには二本の足で立つというアクロバティックな姿勢を常態にしているために、心身ともにきわめて不安定な存在の仕方をしている。だからそれを支えるための「よりどころ」が必要になるし、その「よりどころ」はこの生の「外」にある。この生の「外」に対する視線というかあこがれを抱いてしまうほどにこの生は「不安定」なのだ。そしてその「視線=あこがれ」は、二本の足で立ち上がった原初の人類がその絶望とともに青い空を見上げたときからすでにはじまっている。青い空の向こうにはもうひとつの「異次元の世界」があり、青い空に浮かぶ太陽の輝きは、「異次元の世界」からやってきてまたそこに向かって消え去ってゆく。

原初の人類が二本の足で立ち上がったことは、「異次元の世界」を発見する体験でもあった。もともと「きらきら光るもの」であった貨幣の歴史はすでにそこからはじまっているともいえる。その太陽の輝きが生まれてくる場所としての「異次元の世界」に対する遠いあこがれともに人類史のさまざまなイノベーションが起き、貨幣が生まれてきた。

「新しい時代」に漕ぎ出すことは「異次元の世界」に分け入ってゆくということでもあり、そうやって人の世の動きが活性化してゆく。

つまり原初の貨幣が「きらきら光るもの」であったということは、そういう「異次元の世界の超越性」の形見として生まれてきた、ということ意味する。

昔の中国の銅銭は、中央の四角い穴に紐を通した束にして持ち歩かれていた。

「月」という漢字は、その銅銭の束のかたちの形象文字だといわれている。古代の中国人にとっての月は「死者の世界」であり、その輝きには呪術的超越的な力が宿っていると信じられていた。中島敦の小説には、満月の夜に虎になってしまった男の中国の昔話がある。

古代の中国の銅銭は、月の輝きの呪術性超越性の形見として生まれてきたらしい。そうして中央の四角い穴は、現世=地上の世界をあらわしていたのだとか。

まあ現在でも「貨幣」は「呪術性=超越性」を持って流通しているわけで、文明国家が「神」という概念を発見したのも、「貨幣」の存在が契機になっているのかもしれない。

現在の貨幣は良くも悪くも「神」であり、そういう呪術的超越的な力を発揮して、この世界の経済を大いに混乱させている。「神の存在なんか信じない」といっても、人が人であるかぎり、超越的な「異次元の世界」に対する遠いあこがれはだれの心の中にも息づいている。だからお金が「浄財」になることもあればお金にしてやられてしまうこともあるし、お金のそうした力を利用して人を支配したりだましたりすることができている。その現実が、「お金には意味も価値もない」といっているだけで解決できると思うのか。気取ってそんなことをいっている当人たちだって、心の底では何かしら貨幣の「呪術性超越性」にとらわれている。ものを買うときにお金を払うという行為それ自体が、貨幣の「呪術性超越性」を信じていないと成り立たないのだ。「異次元の世界に対する遠いあこがれ」は、だれの中にもある。人がこの世に生まれ出てくることはひとつの「悲劇」であり、その想いからくる「異次元の世界に対する遠いあこがれ」を共有したところから貨幣が生まれてきた。

「悲劇」とは、「大切なものを失う」ということ、貨幣はその「悲劇性=喪失感」を抱きすくめてゆくカタルシスの形見であり、その機能の本質は「捧げもの=浄財」であることにある。意味も価値もある「大切なもの」であるからこそ「捧げる」甲斐もある。人がお金を失くしたときの喪失感やお金を払うという行為には、彼らが考えるよりももっと深く人間性の本質に根差している。

 

人類史における貨幣は、人が生きてあることのよりどころの形見として生まれ育ってきたわけで、そんなものがないと生きていられないのが人の性(さが)であり、そうやって「アイドル」とか「カリスマ」とか「神」とかをみんなして祀り上げてゆく。そういう何ものかを祀り上げ「捧げもの」をせずにいられない人間的な集団性の根底に、「貨幣」という存在が横たわっている。現在のような貨幣が存在していない原始時代においても人は、起源としての貨幣である貝殻や石粒などの「きらきら光るもの」を深く愛し、それを「捧げもの」の形見にしていた。

生きてあることは「悲劇」なのだ。人は根源においてそういうかなしみといたたまれなさを抱えているからこそ、われを忘れてより深く豊かにときめいてゆく存在にもなりえているのだし、その「悲劇性=喪失感」を抱きすくめるようにして「捧げもの」を差し出してゆく。「利他性」というのか、現在はそういう「正直者」がバカを見る世の中になっているのだが「正直者」が存在する世の中だからこそ、そこに付け込んで「利潤」をむさぼる者たちがあらわれてくる。彼らは自分が大事の損得勘定(コスパ主義)で生きようとし、だまされる方だってバカを見るから自分も損得勘定(コスパ主義)になってゆく。まあなんともややこしい世の中のありさまだが、けっきょく人間性の本質・自然が「捧げもの」をせずにいられないことにあるから、そういう事態になってしまう。

だます者は、だまされる者がいなければ生きられない。だれもがだます者になれば、だまし合いばかりの世の中になるのだろうが、それが成り立つということ自体、人の心の根源には「捧げものの衝動=利他性」がはたらいていることを意味する。また、だますものばかりの世の中になれば、だれもがそうかんたんにはだまされなくなるし、だまされるものを助けようとする動きも起きてくる。おそらくそうやって「弁護士」という職業が成り立っているのだろうし、現在は、だますものばかりの世の中であると同時に、だまされる正直者ばかりの世の中でもある。

「男に騙されてはいけない」などと、したり顔していう。そこでわれわれはこう問う。「じゃあお前は、かんたんに騙される純粋無垢な女と、けっしてだまされないすれっからしの女とどちらが好きなのか?」と。

人の世は、かんたんに騙される純粋無垢な女を祀り上げてゆく。それが「処女=思春期の少女」であり、そういう「処女性」はすべての女の中に宿っている。

権力者は、あの手この手で民衆をだましにかかる。そして日本列島の民衆は、かんたんにだまされてしまう「処女性」を伝統文化として持っている。

われわれは、「処女性」を祀り上げるこの伝統文化によって「新しい時代」を切りひらくことができるだろうか。それは、人類史がこの世に「貨幣」というものを生み出した問題であると同時に、この国に処女のように純粋無垢な「天皇」というカリスマが存在することの由縁でもある。

古代以前の日本列島の民衆は、正直者が生きられる世の中でありたいという願いとともに「起源としての天皇」を祀り上げていったし、それこそがもっとも集団の活性化生む原動力だったから、やがて奈良盆地が日本列島の中心になっていった。

何はともあれこの国においては、天皇こそが真の「正直者」なのだ。

正直者が生きられる世の中でありたいというのは人類普遍の願いであり、もとはといえば「貨幣=きらきら光るもの」だってその願いの形見として生まれ、その願いを託された「貨幣=きらきら光るもの」とともに人類の集団が活性化していった。そうして猿のレベルを超えて大きく膨らんでゆき、やがては現在の「国家」という無限に膨らんだ因果でややこしい集団が生まれてきた。

まあこの世に貨幣を搾取・収奪する者たちがいるということは、搾取・収奪される「正直者」がたくさんいるということの証拠でもある。だから、希望がないわけでもない。

 

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蛇足の宣伝です

キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたものです。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。

消えてゆくお金の意味と価値……現代貨幣理論は正しいか?

ここで貨幣の起源と本質について考えようとしたきっかけは、経済学者の安富歩氏のある発言がとても気になったからだ。

彼は、「お金(貨幣)はほんらい意味も価値もない」といった。

僕は、東大教授である彼の研究がいかに幅広く高度で深いものであるかということに異論をさしはさむつもりなどないし、人間的にもとても魅力的だと大いに好感を抱いてもいるのだが、庶民に向けたそのもっと基礎的な貨幣の本質についての説明には、大いに疑問がある。

まあ彼だけでなく、世の中の多くの研究者や評論家がこのような前提で貨幣や経済のことを語っていて、インテリ世界の常識だ、といってもいいのだろう。

1万円札がただの紙切れだというくらいはだれでもわかるが、歴史の無意識としての「貨幣」という概念に対する人々の思い込みというか信憑は、「本質においては意味も価値ない」というような認識ではすまない何かがある。これは、人間存在の本質にかかわる問題だ。

見かけはただの紙切れでも本質において意味も価値もあるからこそ、それが今なお「貨幣」として流通しているのだし、今やただの数字でも「貨幣」になりえているのだ。

安富氏は、こういう。

「たとえば昭和31年(=60年前)の十円玉は今やどこかに消えてなくなってほとんど流通していない、それは貨幣が本質において意味も価値もないことの証しである」と。

そりゃあ、どんどん消えてなくなるだろう。だれだって一年に一枚や二枚の10円玉は失くしてしまう。一人一枚失くせば、日本中で1億枚の10円玉が消えてなくなることになる。それに10円玉のようにものすごい勢いで世の中に流通している貨幣なら、その途中のまぎれで必ず一定数はどこかに消えてなくなってしまう。そういう「自然消滅」は、「貨幣には意味も価値もない」などということとはまったく別の次元のことだ。少なくとも10円分は大切だし、意味も価値もある。

そして安富氏はもうひとつの例を挙げる。

「昔の中国の銅銭は王朝政府が作っても作ってもどこかに消えてしまい、作らないと民衆の反乱が起きるほどだった」と。

これだって「貨幣には意味も価値もない」ということの証拠にはならない。

昔の中国の銅銭は、現在のこの国の10円玉よりははるかに大きな貨幣価値があったし、現在の10円玉ほど猛スピードで市場に出回るものでもなかった。民衆がそれを使う機会は今よりはずっと限られていたし、彼らはそれを大切に扱い、しっかり貯め込んでいた。

それでもどこかに消えてなくなったわけで、それが問題だ。

 

日本列島の中世においても、貨幣で買い物をする機会などほとんどない貧しい農民でも、しっかりと銅銭を床下の小さな壺に入れて貯め込んでいたという。ただ彼らはそれを、まったく使わなかったというのではなく、ときに寺に寄進をしたり旅芸人や旅の僧や乞食などに差し出す「浄財」として使っていた。

貨幣の本質は、「浄財」であることにある。それが、貨幣の起源が「きらきら光る」貝殻や石ころだったときから引き継いできた歴史的普遍的な性格である。

鎌倉には「銭洗い弁天」と呼ばれるお寺があり、参拝者は小銭をざるに入れて清らかな湧き水に浸して洗うという習俗が今でも残っている。それは、世の中に出回って汚れてしまった貨幣を新しく清らかな状態に戻してやるという作法であり、起源としての貨幣が「きらきら光るもの」であったことの歴史の無意識のあらわれなのだ。

いずれにせよそれは、「消えてなくなるもの」であると同時に「大切に貯め込まれているもの」でもあった。まあ今でもそれが貨幣の第一義的な存在意義になっているわけで、貨幣で商品を買うことは、貨幣が「消えてなくなるもの」であると同時に「大切なもの」でもあるという、起源のときから引き継がれてきたその歴史的普遍的な性格の上に成り立っている。商品を買うことは貨幣が「消えてなくなる」ことだし、「大切なもの」だからこそ交換の形見になる。

貨幣が「消えてなくなるもの」であることには、「意味も価値もない」というようなこととは違う、もっと深いわけがある。太陽が「異次元の世界」から現れ出てきてまた「異次元の世界」に向かって消え去ってゆくように、その「きらきら光るもの」である「貨幣」は、人類の「異次元の世界に対する遠いあこがれ」の形見として存在している。

そこは「神の世界」であると同時に「死者の世界」でもある。

中国の貨幣=銅銭はまさにそうした「神の世界=死の世界」の形見として生まれてきたわけで、銅銭の外側の円は「宇宙の果て」で実質的な銅の部分は「神の世界=死者の世界」をあらわしている。そしてその内側の四角い穴が、「地上の世界=現世」をあらわしているのだとか。

だから彼らは、死者の埋葬に際しては、棺の中にたくさんの銅銭を添えた。おそらくそのようにして消えていったのだろう。今でも中国には、たくさんのレプリカの紙幣を添える風習が残っている。

 

貨幣には意味も価値もあるがゆえに「消えてゆく」という属性を負っている。「消えてゆく」ものであるがゆえに、意味も価値もある。その「喪失感=かなしみ」に、生きてあることのカタルシスがある。

貨幣には意味も価値もないのではない。意味も価値もないのはこの生だし、意味も価値もないのがこの生の意味と価値だ。

中国だけではない。2万年前のロシアのスンギール遺跡では、死者の棺におびただしい数のきらきら光るビーズの玉が添えられてあった。凡庸な考古学者たちはこれを「身分の高い被葬者のものだ」などというのだが、原始共産制の社会に身分などあるものか。そのきらきら光るビーズの玉の多さは、生き残った者たちのかなしみの深さを物語っている。おそらく、集落中のビーズの玉が捧げられたのだろう。もしかしたら、人が死ぬたびにそのようなことをしていたのかもしれない。そうして、普段からだれもがせっせとビーズの玉をつくり続けていた。それはとても大切なもので、だれもがせっせとため込んでいたし、それでも死者が出るたびにそれを惜しげもなく差し出した。彼らにとって「ビーズの玉=貨幣」は「死者」のものであり、みずからの死が安らかであることの形見であり、「もう死んでもいい」という勢いでこの生を活性化させるよりどころでもあった。つまり貨幣は、この生のもっとも深い「快楽」の形見として生まれ、じつは今なおそういう前提の上に成り立っているのだ。

「快楽」とは「消えてゆく心地」のこと。だから貨幣も、「消えてゆく」ことが存在の証しになっている。「消えてなくなる=失う」こと、すなわち「贈与=捧げる」ことが貨幣であることの属性なのだ。「大切なもの」であればあるほど、「失う=消えてゆく」ことの「快楽」も深くなる。

ある北米インディアンの部族の長は、あるとき突然自分の財産のすべてをみんなの前で焼き捨ててしまうということをする。それによって彼はみずからの「聖性」を示す。このことは貨幣の本質と通底しており、昔の中国の民衆は、まさにそのようにして銅銭の束を惜しげもなく死者に捧げていったのだ。

原初の貨幣は「聖なるもの」であったし、そういう歴史の無意識は現代社会においてもはたらいている。だから人はそれを貯め込もうとするし、捧げようともする。

貨幣の「消えてゆく」という属性は、「贈与=捧げもの」であることにあらわれているのであって、意味も価値もないからではない。

 

原初の貨幣は、すべて一方的な「捧げもの」としての「浄財」であった。

人類の集団や関係を成り立たせている基礎が「ときめき合う」ことにあるとすれば、それは一方的なときめきを捧げ合うことであって、「贈与と返礼」とか「等価交換」というようなことではない。他者の心なんかわからない。言葉が「伝達の不可能性」の上に成り立っているように、貨幣もまた「等価交換の不可能性」の上に成り立っている。等価交換を成り立たせるために貨幣があるのではなく、等価交換を超えてゆく形見として貨幣が生まれ進化してきたのだ。

貨幣とは商品の価値を消去する存在であり、そのとき貨幣だけが価値として商品の前に存在している。そうやって貨幣の価値で商品の価値を消去してしまうことの上に売買が成り立っているわけで、それによって売る側は商品を「捧げもの」として差し出している。人間の商品売買という行為には、深層においてそういうややこしい心理学がはたらいている。

人類の歴史は、「等価交換の不可能性」を貨幣によって超えていった。それは一朝一夕でなったものではないし、今でもその不可能性を負って人の世の経済が動いており、そうやって「浄財」が集められることもあれば、「搾取」や「利潤」という理不尽で不公平な関係も生まれている。

貨幣だけに価値があるのだ。したがって商品を買うときの貨幣の価値は、商品の価値=価格を消去するために、商品の価値=価格よりも高くなければならない。そして資本家が労働者に支払う給与は、それが貨幣であるという理由によって、労働者の働いた対価より低くても労働者を納得させることができる。

政治家や資本家は、民衆の心の中に宿る歴史の無意識としての「贈与=捧げものの衝動」に付け込んで、さまざまな理不尽で強欲な支配や搾取をしかけてくる。現代社会は、それが目に見えないかたちで高度にシステム化されている。

その理不尽で強欲な支配や搾取を超えてゆくのもまた、民衆の中の「贈与=捧げものの衝動」であり、それをもっとも豊かにそなえた民衆、とりわけ女たちが立ち上がらなければ、このあくどいシステムを超えた「新しい時代」は生まれてこない。

「贈与=捧げものの衝動」とは、「消えてゆこうとする衝動」であり、それは女の中の「処女性」においてもっとも深く豊かに息づいている。人類の貨幣は、まさにそうした「快楽=死の衝動」を抱きすくめるようにして生まれてきたのだ。

貨幣は「消えてゆく」ものである、ということ。それは、人としての「実存」の問題であり、「快楽=生きた心地」の問題でもある。

お金=貨幣には意味も価値もない……そういうスノッブな議論は聞きたくない。

それは、意味も価値もないから消えてなくなるのではない。大切にして貯め込む意味も価値もあるものだからこそ消えてなくなるのであり、「消えてなくなる」ことこそ、この生のもっとも大切な意味や価値なのだ。

 

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蛇足の宣伝です

キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたものです。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。

貨幣経済の進化論

金が仇の世の中で、アメリカのトランプは根っからの商売人だし、今や世界中の政治が経済の問題を中心にして動いているのだとか。

トランプが軍に命令してイランのスレイマニ将軍を殺させたのも、つまるところ石油利権や軍事利権が絡んだ問題だともいわれている。しかし世界的にどんな状況があるとしても、人を殺していいということにはならないだろう。だから僕は「正義」という言葉が嫌いなのだ。トランプの、あの正義ぶったどや顔を見るとうんざりさせられるが、それを支持する貧しいアメリカの民衆もたくさんいるのだから、人の世のしくみのややこしさというのはなんともやりきれない。

その「ややこしさ」の底に経済の問題が横たわっている。

イギリスのEU離脱が経済の問題を度外視した民族のプライドだといっても、そんな単純なものでもないだろう。富裕層にとっては、世の中に貧乏人がいたほうがみずからの既得権益を守り優越感を満足させることができる。それが「階級制度」を確立してついに革命という名の階級闘争を起こさせなかった国の伝統であり、貧乏人からお金を絞り取る方法はいくらであるし、富裕層とはそれを熟知している者たちなのだ。何しろ塩本主義発祥の国なのだもの、彼らの頭の中に経済のことがなかったはずがないし、その意識は第三者が想像する以上の印影とか屈折があるのかもしれない。すでに階級制度を確立している国だからこそ、「移民」という新しい階級に入ってこられては困る。富裕層はそれを守りたいのだろうし、「移民はろくに働きもせずに納税しないまま国の社会保障制度を食い散らかしている」という不満が貧しい労働者階級にもくすぶっており、それによって納税意欲もそがれてしまう。そうして「移民を養う負担を減らせば雇用も経済も安定する」という考えにもなってゆく。とにかく、彼らには彼らなりの経済意識があるのだろう。

世界は「経済=お金」で動いている。

今やこの国でも経済評論家は商売繁盛の世の中らしく、多くの人々が「景気」とか「金融」とか「貨幣経済」ということに大きな関心があって、素人でも知ったかぶりしてそのことを語ろうとしていたりする。

僕はもともとまるっきりの政治オンチで経済オンチだからそういうことはよくわからないのだが、「人類史における貨幣の起源と本質」という問題なら大いに関心がある。それだっておそらく、「直立二足歩行の起源」のところから考えることができるにちがいない問題だからだ。

 

猿の集団はひとまずボスがメスとのセックスの権利を独占しているいわば「親族社会」であるが、二本の足で立ち上がった原初の人類の場合は、たくさんのはぐれ猿がどこからともなく集まってきた、いわば「無主・無縁」の関係のフリーセックス集団だったのであり、じつはそういう関係だったからこそみんながいっせいに二本の足で立ち上がるということが起きたのだ。まあこのことには偶然のさまざまな環境条件が重なっているにちがいない。とにかくそういう関係の集団でなければ起きるはずがないのだし、であればそれによる集団の「経済」の決定的な違いもあったことになる。

そのとき猿の社会には、強い者が既得権益を得る、という資本主義的な経済のかたちがあった。それに対して「無主・無縁」の関係の原初の人類の集団は、だれもが他愛なくときめき合い助け合うという「原始共産制」の経済の上に成り立っており、そこには「既得権益」も「私有財産」もなかった。

まあ現在の「家族」という集団だって、「父」とか「母」とか「夫」とか「妻」とか「兄」とか「弟」とか「姉」とか「妹」という、猿の集団と同じような「順位制」の上に成り立った「既得権益」が存在している。したがって「家族」といえどもやはり資本主義経済の補完的な機能を持っているのであり、その部分においては「原始共産制」と矛盾している。ゆえに「無主・無縁」の関係が基本だった原始時代に「家族」などというものはなかった。

そういう「無主・無縁」の関係の「原始共産制」の社会から「起源としての貨幣」が生まれてきた。

つまり、「貨幣の起源」においては、現在絶好調の資本義的な「既得権益」や「私有財産」を担保するものではなかった、ということだ。そして「交換」とはたがいの持ち物が「私有財産」であることの上に成り立つ行為だとすれば、原始社会に「交換」という行為などなかったのであり、人間性の自然・本質は「交換の不可能性」を負っている。だから、そのための形見として文明社会における「貨幣」が生まれてきたのであり、そこにいたるまでにはさまざまな歴史の紆余曲折があっただろうし、現在でもなおそれが「交換」ではなく一方的な「贈与」や「収奪」の機能として使われていたりする。

「貨幣の起源と本質」は、けっして「交換」の道具であるのではない。貨幣の起源が「きらきら光る」貝殻や石粒だったとすれば、貨幣は原始時代にも存在していたことになるし、もちろん「交換」の道具でもなかった。

 

「貨幣の起源」を問うことは、人はなぜ「きらきら光る」ものが好きなのか、と問うことだ。

それはもう、原初の人類が二本の足で立ち上がったときからはじまっている。そのとき人類は、青い空を見上げた。空には、太陽が輝いていた。太陽は、青い空の向こうからあらわれて、青い空の向こうに去っていった。青い空の向こうとはどんなところだろうか。そこは、光り輝く世界だろう、と人類は思った。そうして、その光輝く世界にあこがれた。

なぜあこがれたのかといえば、生きてある「今ここ」が辛く苦しいものだったからだ。「今ここ」が安楽で楽しければ、あこがれたりはしない。

おそらくそのときの人類の一集団は、絶滅の危機に瀕していたのだろう。強い外敵に追い詰められていたのではない。それだったら必死に逃げるし、逃げるためには、もっとも慣れた身体動作である四本足で走る。不慣れな二本足の姿勢で早く走れるはずがない。またそれは、胸・腹・性器等の急所を外にさらした、きわめて無防備で危険な姿勢でもある。したがって、敵と戦っていたのでも逃げていたのでもない。

だったらそれは、「食糧危機」という「経済」の問題に遭遇していたのだろうか。

まず、彼らがなぜその森にいたのか、ということから考えてみよう。そこは、どんな森だったのだろうか。

たとえばそのころの気候の乾燥化によってジャングルの森が後退し、森を侵食するようにサバンナの地域が広がっていった。そうしてその境界あたりでは、小さな森が孤立して取り残された。そこにあちこちの群れからはぐれた者たちが逃げ込んできて、はぐれ者どうしの「無主・無縁」の集団が生まれた……ということだろうか。

またそのサバンナの中の森は、彼らが樹上だけで生活ができるほどの密林ではなく、地面も丈の高い草に覆われていたから地上を移動する機会が増えたし、そのときには二本の足で立って歩いたほうが具合がよかったのかもしれない。

とにかく、猿の主食である豊富な木の実が得られるほどの森ではなかった。しかし、集団の人数はどんどん増えていった。そうなればとうぜん「食糧危機」がやってくるし、「無主・無縁」の集団だから余分な個体を追い払おうとする動きが生まれる「順位関係」もなかった。

彼らは絶望し、途方に暮れていった。おそらくそういう気分で立ち上がり、青い空を見上げた。経済の言葉でいえば、みんなが貧しい状態になった、ということ。このときにみんながエゴをむき出しにして食糧を奪い合っていけば、遅かれ早かれ群れそのものが自滅してゆき、現在の人類種は存在していないことになる。

 

「個体維持の本能」などというが、勝ち残った最後のひとりは、どのようにして種を存続してゆくことができるだろうか。できるはずがない。生きものは必ず死ぬのだし、人類は単体生殖してゆくことはできない。オスにはメスが必要だし、子供が生まれれば自分の食糧を削ってでも育ててゆかねばならない。30万円の収入がある3人家族は、ひとり10万円ずつに振り分けて暮らさなければ家族として存続できない。

食糧危機に瀕した原初の人類集団が種として存続できたということは、その少なくなった食料をみんなで分け合って食べた、ということを意味する。ハチの巣があのようなかたちになっているのは、各個体の生存スペースを最小限にしていった結果にほかならないのであり、それが生きものの本能なのだ。

みずからの生存スペースを最小限にすること、これが生きものの本能であり、そうやって「生物多様性」が成り立っているのであり、原初の人類が二本の足で立ち上がることは、じつはそういう現象だったのだ。

そのとき四本足の猿が二本の足で立ち上がることはみずからの生存スペースを最小限にすることだったのであり、現在でも大災害に逢えばだれもがみずからの生存スペースを最小限にして助け合う、それと同じことだ。そうしてそれをうながしたのは、彼らの「絶望」だった。そのとき彼らはだれもが「弱い生きもの」になり、だれもが「弱い生きもの」である他者を生きさせようとしたわけで、それはまた「弱い生きもの」である自分を生きさせることでもあった。

すべての生きものにおいて「種の存続」を可能にしているのは「弱い存在を生きさせる」すべを身につけてゆくことであって、「強くなってゆく」ことではない。それが「進化の法則」だ。

原初の人類は二本の足で立ち上がることによって「強くなった」のではなく、「弱いものを生きさせるすべを身につけていった」のだ。進化とは「強くなる」ことではなく「弱くなる」のだということを、原初の人類の「直立二足歩行の起源」が証明している。

 

現在の世界は強い者たちが繁栄を謳歌する世の中になっているわけだが、それによって世界全体の景気が良くなったかといえば、むしろ逆に後退=退化してきている。

だれもがみずからの生存スペースを縮小して「生きられないこの世のもっとも弱いもの」を生きさせようとしなければ進化は起きないし、景気は良くならない。人が人であるかぎりいつの時代もそうした進化の動きはあるわけだが、文明社会とか資本主義社会というのはその動きを覆い隠してしまう構造になっており、それはきっと「貨幣」ほんらいのかたちが変質してしまっていることにある。

すなわち、もともと「生きられないこの世のもっとも弱いもの」を生きさせるための形見であったはずの「貨幣」が、強い者がより繁栄するための道具に変わってしまった。貨幣によって「利潤」が生まれ、それがどんどん強い者のもとに吸い上げられてゆく仕組みになっている。

それでもいつの世も「捧げもの」としての「浄財」というのは人々のあいだに存在し、これが貨幣の本質であるのだけれど、「私有財産」や「既得権益」の上に成り立った現在の社会では「利潤」の吸収・収奪が貨幣の第一義的な機能になってしまっているというか、それが貨幣の本質だと信じられている。

「利潤」を生み出すことが貨幣の本質であるのではない。「捧げもの=浄財」であることの本質に付け込んで「利潤」が生まれてくる。「捧げもの=浄財」をせずにいられない人は、その人間性の本質において「等価交換」ができない。必ず「贈与=浄財」の部分が加わらなければ「交換」は成り立たない。それが「利潤」になる。原価が100円の商品を150円で買う。労働者は1500円の仕事をして1000円の給料をもらう。

人が「贈与=捧げもの=浄財」を差し出すのは、生きものとしての本能でもある。そうやってみずからの生存のスペースを縮小して集団をつくってゆくことによって生物多様性が成り立ち、進化という現象が起きている。

たくさんの収入があればたくさんの税金払うのは当然のことで、それが原初の人類が二本の足で立ち上がることによって獲得した人間性だったのだし、しかもそれは生きものとしての本能に遡行することでもあったのだ。

 

消費税の増税とか国民保険料の値上げとか、現在のこの国では、富裕層の減税を進めつつ貧しい者たちから搾り取ることによって国家という集団の運営を成り立たせようとしている。それは人間として病んでいる状態であり、そうやって国家が衰退していっている。

まあ「捧げもの=浄財」が伝統の国だからこそ、支配者は平気で貧しい民衆からたくさんの税を搾り取るということをする。とくに官僚たちはそういう意識があからさまなのだが、それはもう大和朝廷発生以来のこの国の伝統なのだ。

20年以上デフレ不況が続いているのは、世界中でもこの国だけらしい。因果なことにこの国の民衆は人間性の自然としての「捧げもの=浄財」の衝動を豊かにそなえているから、そこに付け込まれてそういうことなってしまう。四方を荒海に囲まれて長いあいだ異民族との軋轢を経験してこなかったこの国には権力社会と民衆社会との「契約関係」がなく、両者の意識が大きく乖離している。

民衆から無際限に税を搾り取ろうとするのはこの国の権力者の本能であり、とくに官僚たちは根っからそういう人種であるらしい、彼らは天皇や政治家を隠れ蓑にしながら、何のためらいもなくそういうえげつないことを推し進めてくる。それはもう、古代の大和朝廷の貴族が天皇を隠れ蓑にしながら好き勝手なことをしてきた以来の伝統なのだ。

しかしそれは、天皇に責任があるのではない。あくどいのはあくまで権力者たちであり、天皇は、民衆社会が「贈与=捧げもの」の上に成り立っていることのよりどころとしての存在にもなっているし、だからこそ権力者からいいように搾取されるというジレンマも抱えてしまっている。

民衆はもっと直接的に天皇とつながらなければならない。京都の「町衆」の自治が発達したのは、天皇との直接的な関係を持てる土地柄だったからだ。

また奈良は、古代以前から民衆自治がもっとも発達した地域だったにもかかわらず、平安遷都とともに天皇との直接的な関係を失ったことによって、民衆自治の能力も衰退していった。

この国においては、天皇の存在こそが民衆自治の能力を担保している。地震や台風などの大災害が起きればかならずみんなで助け合い、妙な混乱は起きない。しかしだからこそ、かんたんに権力社会から支配されてしまう。横暴な支配に対する艱難辛苦は民衆自治によって耐えようとするだけで、権力社会を倒そうとする動きは起きてこない。

 

人はなぜきらきら光るものが好きなのか……これが、貨幣の起源と本質の問題である。

きらきら光るものは「セクシー」だ。

原初の人類は二本の足氏で立ち上がり、青い空を見上げ、きらきら光る太陽の輝きに感動した。そうして太陽がやってきて去ってゆく「異次元の世界」に対する遠いあこがれを抱いた。これが、人類が「貨幣」を生み出す原体験だった。そうして、その体験を今なお引きずってこの世に「貨幣」が流通している。

それはまあ「ときめく」という体験でもあったわけで、これによって猿から分かたれたともいえる。これによってときめき合いながら一年中発情しているようになり、その「ときめき」とともに人間的な知性や感性がどんどん進化発展してきた。

「きらきら光るもの」であった「貨幣」は、その遠いあこがれの形見として生まれてきたのだし、それが「死」に対するあこがれでもあるがゆえに、「利潤」という名の「収奪(=支配)するもの」と「収奪(=支配)されるもの」との関係にもなっている。

人の心の「ときめき」の底には、「異次元(=死)の世界」に対する遠いあこがれが息づいている。

「貨幣」はもともと「死=滅亡」に対する遠いあこがれとともに一方的に「贈与」し、みずからの生存のスペースを最小限にするための形見として生まれてきたのだが、それゆえにこそいろいろややこしい性格のものへと変質してこの社会に流通するものになってきてしまった。

「収奪される」とは「贈与=捧げものをする」ということだ。権力者は民衆のそういう本能的な衝動に付け込んで「収奪=支配」してきて、それが民衆社会の隅々にまで張り巡らされているのが現在の世界であるのかもしれない。

それでも人の世が人の世であるかぎり一方的に「贈与=捧げもの」をし合うという関係は存在するのであり、それが人類史の原初の関係であると同時に究極の関係でもあろうと思える。

 

資本主義社会は、けっして究極の人の世のかたちではない。

「贈与=捧げもの」の本能を持った存在である人類は、究極の人の世のかたちとしての「共産制」を夢見ている。ただそれは「マルクス共産主義国家」とか、そのようなものではないということだ。

貨幣の本質に照らせばこそ、究極においては「共産制」になってゆくほかない。それは、一方的な「贈与=捧げもの」の形見として世の中に流通している。現在の社会経済がどれほど高度で巧妙な「搾取・収奪」のしくみの上に成り立っていようとも、その「搾取・収奪」それ自体が「贈与=捧げもの」であることの上にしか成り立たない。

他愛なくときめき合い助け合う集団としての「共産制」……すなわちそういう「祭りの賑わい」こそが人類普遍の原初的な集団のかたちであり、それがこの国の民衆社会の伝統でもある。

この国の民衆自治はひとつの「お祭り」であり、それは「新しい時代を夢見る心」を共有してゆくことの上に成り立っている。そのだれもが他愛なくときめき合う「祭りの賑わい」とともに集団運営のダイナミズムをつくってゆくことを昔の人は「まつりごと」といったのであって、権力者が「支配」することをいったのではない。それはもともと、民衆のあいだで交わされていた言葉だった。

この国の民衆は権力者を倒すことなんかしない。権力社会を置き去りにしながら、新しい時代を夢見てみんなで自分たちのカリスマを祀り上げてゆく。そういうかたちで投票率が上がれば、きっと現在のこのひどい政治体制も変わるのだろう。

なんのかのといっても10年前の民主党政権誕生のときは「祭りの賑わい」の盛り上がりがあったから投票も上がった。であれば今、それを生み出すことのできる政治的カリスマはいるだろうか。枝野幸男玉木雄一郎ではいかにも心もとない。彼らの政治的な主張が正しいか正しくないかということ以前に、セックスアピールに乏しい彼らのキャラクターでは、民衆社会の「祭りの賑わい」が盛り上がることはない。山本太郎が彼らより「セクシー」であるのは、「もう死んでもいい」という勢い持っているからであり、べつにハンサムだからとか、そういうことではないし、それは命のはたらきの本質の問題なのだ。

世の中が「セクシー」に動かないことには、「新しい時代」は生まれてこない。

 

命のはたらきは「セクシー」なものだ。

「セクシー」とは「もう死んでもいい」という勢いのこと、そうやって命のはたらきは起きるのであって、生き延びようとしているのではない。生き延びるためにもっとも有効なのは命のはたらきを停滞させて「今ここ」にとどまることだろう。「命がはたらく」とは、「死に向かっている」ということだ。したがって「もう死んでもいい」という勢いが起きているときこそ、もっとも命のはたらきが活性化している。

原初の人類は、「もう死んでもいい」という勢いで二本の足で立ち上がった。その「もう死んでもいい」という勢いが、「青い空」と「きらきら光る太陽の輝き」と、さらにはその向こうの「異次元の世界」に引き寄せられていった。その(感動)体験が「きらきら光るもの」としての「貨幣」を生み出したのであれば、「貨幣」とはもともと「セクシー」なものだったといえる。

命のはたらきも人の世も、「セクシー」に「もう死んでも(滅んでも)いい」という勢いで動いてゆく。その形見として「貨幣」が生まれてきたのだし、今なおじつはその本質の上に貨幣経済が成り立っている。

「貨幣」とは、命と同様に大切に「貯め込む」ものであると同時に「消えてゆく」ものでもある。そして光の輝きと同様に「出現する」ものであると同時に「消えてゆく」ものでもある。現在の貨幣経済だってそのようにして成り立っているのだし、それが命のはたらきの本質でもある。まあ貨幣であれ人であれこの世界であれ、人はそのような「セクシー」な対象にときめき追いかけようとするわけで、そうやって人生が流れ世の中の歴史が流れてゆく。

気取ったインテリたちが「貨幣=お金には意味も価値もない」などというが、そんな安直な認識は彼らのナルシズムからくるただの思考停止にすぎない。「貨幣=お金」には、命のはたらきの本質にかかわる深い意味が宿っている。

 

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それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

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『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

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です。

女たちよ、立ち上がれ

衆議院解散総選挙はいつあるのか?

どうやら秋になるらしいが、自民党が負けるというおもしろいことはけっきょく起きそうもないらしい。

僕は政治オンチだから、政策がどうのということなどよくわからない。そして選挙に行くことが義務だとも権利だとも思っていない。それはひとつの「祭り(フェス)」であり、おもしろくなければ行く甲斐がない。

この愚劣で醜悪な政治体制がひっくり返ればおもしろいのに、と思って選挙に行く。

今どきの大人なんかろくな生きものじゃないし、その上に立っている政治家や資本家はさらにろくでもないに決まっている。だから、こんなひどい世の中になってしまった。

そりゃあ、ひどい世の中ではないと思っている人たちもたくさんいる。この社会システムから甘い汁をすすっている大人たちはいるし、若者や子供たちは今の状況が当たり前だと思っていて、人々がもっと純情だった時代のことなど知らない。昔は魅力的な大人がもっとたくさんいた。それはたしかにそうなのだ。僕はこんなにも長く生きてきて自分が魅力的であった時期なんかどこにもないけど、それでも昔の大人たちは今ほどのすれっからしではなかった。

現在の若者たちが社会に出て最初に体験するのは「大人たちに対する幻滅」である。そうしてそこでうまくやってゆく若者もいれば流されてゆく者もいるし、さっさとドロップアウトしてゆく者たちも少なくない。せっかく一流会社に入ったのにすぐ辞めるとか、ニートになるとかフリーターになるとか。

抵抗しないからできないからいけないのだとか、そんな醜い大人たちと手を組んで上手くやっている者たちこそ元凶だとか、いろいろ意見はあるが、みんな当たっているのだろう。

われわれもう、この停滞した状況から抜け出せないのだろうか。

高度経済成長で、人の心が金のために歪んでしまったのだろうか。お金に罪はないのだけれど、現在のように高度に発達した文明社会のシステムは、それを扱う人の心が歪んでゆくようにできているのかもしれない。

しかし、なんといっても普遍的な人の心においては、この世界や他者は輝いているのだ。生きていれば、だれにだってときにはおもしろいこともときめくこともある。そうやって人は流されてゆく。

人が時代に流されてゆくのを責めることはできない。それでも世界や他者は輝いているのだ。いつの時代もだれの中にも、ときめく心は息づいている。

その「ときめく」心を結集できなければ新しい時代はあらわれてこない。革命が起きないこの国においては、人々の怒りや不満を結集して盛り上がるということはない。そうではなく、たとえば中世の「踊念仏」とか幕末の「ええじゃないか騒動」のように、「祭りの賑わい=ときめき」によって盛り上がってくるのが伝統なのだ。

 

現在の政治状況において、野党は、多くの人が選挙に行くための「祭りの賑わい」を組織することができているだろうか?

立憲民主党と国民民主党の合流劇のあのもたつきぶりは、多くの国民に幻滅を与えてしまった。どちらがいいとか悪いという以前に、どっちもどっちだという印象で、かえって国民の視線を政治から遠ざけてしまった。このままでは投票率も上がらないし、けっきょくむざむざと自民党に勝たせてしまうことだろう。どちらの党の党首も、人々のあいだに「祭りの賑わい=ときめき」をもたらすだけのセックスアピール(魅力)があまりにもなさすぎる。

この国には選挙に行かない有権者が半数いる。彼らにとって選挙とは人気投票のお祭りであり、候補者にセックスアピール(魅力)がなければ選挙には行かない。政策がどうのというのはその次の問題だし、「正しい政策」よりも新しい時代を夢見させてくれる「魅力的な政策」を望んでいる。

僕だって、素人が知ったかぶりして政治のことを語るのは、あまり好きではない。人をこの世界に縛り付ける正義・正論を押し付けられるのはいやだ。人類滅亡ほどめでたいことはないのであり、人の心はつねにこの世界の外の「異次元の世界」を夢見ている。心はそこに向かってときめいているのであり、そうやって「この時代の滅亡」の果てに「新しい時代」が生まれてくる。人類滅亡を夢見る心が人類史の進化発展をもたらしたのであって、しゃらくさい正義・正論の「未来の計画」によってではない。

こんな愚劣で醜悪な世界など滅ぼしてしまえ、という心意気、すなわち「もう死んでもいい」という勢いがなくて、どうして「新しい時代」を迎えられようか。べつに大げさなことではない。たとえば若い娘のミニスカートには「もう死んでもいい」という勢いがあり、その勢いとともにこの世の「祭り」が生まれてくる。

「流行」とは「祭りの賑わい」のこと。若い娘が競ってミニスカートを穿き出すように、選挙に行くことが「まちの景色」になり「時代の景色」になることができるだろうか。それは、「もう死んでもいい」という勢いで「新しい時代」に飛び込んでゆくことであり、処女が処女喪失を体験するのと同じ勢いだ。その勢いは「処女=思春期の少女」がもっとも豊かにそなえているし、その「処女性」はすべての女の中に宿っている。また、それこそが男も含めた人間性の原点というか本質にほかならない。そうやって「滅亡」を抱きすくめるようにして人類の歴史は進化発展してきた。

「処女=思春期の少女」の中にこそ、人間性の本質がもっとも深く豊かに宿っている。人類の歴史が最初に祀り上げたリーダーは、おそらく「処女=思春期の少女」だった。

そういう「もう死んでもいい」という勢いの「処女性」が、山本太郎にはあるが、枝野幸男玉木雄一郎にはない。男であろうと女であろうと、そういう「処女性」を持たない者がリーダーになっても「祭りの賑わい」は生まれてこない。

 

立憲民主党と国民民主党はもう、くっついても離れても、これ以上支持率=人気が上がることはないだろう。両方とも党首に「華=セックスアピール」がなさすぎる。それでは女たちの支持は得られないし、女たちの支持のない野党は政権交代できない。

この国では、女たちが立ち上がらなければ、投票率は上がらない。

10年前に民主党が政権を奪ったときは、鳩山由紀夫菅直人の二枚看板がそれなりに女たちから支持されていたし、「新しい時代に漕ぎ出そう」というメッセージもあった。まあ、枝野幸男立憲民主党を立ち上げたときにも、その雰囲気はあった。

しかし菅直人枝野幸男も、今やすっかりメッキがはがれてしまって、そうした政治家としての心意気が見えてこない。また、玉木雄一郎なんかただの目立ちたがり屋のおっちょこちょいだということは、とっくに見透かされている。

現在のこの国は右傾化している、などといわれ、玉木雄一郎の国民民主党はその風潮に乗ろうとして「保守」とか「中道」を唱えながら、逆にどんどん支持率を落としていった。そんな看板は自民党だけで飽和状態なのだから、そこに寄っていっても国民の関心は得られない。

世界的には、「左翼」とか「社会民主主義」という言葉でも人々に一定のアピールをするようになってきている。またこの国の民衆社会はもともとそういうかたちであったわけで、無主・無縁の見知らぬ者どうしが他愛なくときめき合い助け合ってゆく「祭りの賑わい」の関係の文化をつくってきたのであり、まさしくそれは「社会民主主義」の根本精神なのだ。この国の民衆社会にはそういう集団性の土壌があるわけで、だから国民民主党の中途半端な保守右傾化が幻滅されている。

この国の民衆社会の伝統は、「中道保守」ではない。無意識的には、「社会民主制」あるいは「共産制」を目指している。まあ、すべての世界の民衆が、といってもよい。そこにこそ人類の究極の理想と人間性の本質がある。

女は、けっして保守的な存在ではない。新しい時代に漕ぎ出す心意気は、女の方がずっとラディカルにそなえている。その「もう死んでもいい」勢いが女の中の「処女性」であり、そこからたとえば70年代のミニスカートの流行とか、2000年代のヤマンバギャルの登場などの革命的なムーブメントが起きてきた。90年代にバブルがはじけた後に「人類滅亡」をテーマにしたマンガやアニメが次々に生まれてきたのだが、その流行を先導していたのも、やっぱり少女マンガだった。

女の中の「処女性」が、新しい時代を切りひらく。大昔にさかのぼれば、人類史のもっとも大きな転換点のひとつである「農業」を最初に始めたのも、おそらく女たちだった。それは女たちの、「他愛なくときめき合い助け合う共同作業」と「新しい時代を夢見る心」によって生まれてきた。

 

女たちが立ち上がらなければ、新しい時代は生まれてこない。革命が起きないこの国で新しい時代が生まれてくる原動力はだれもが他愛なくときめき合う「祭りの賑わい」にあり、そうやって戦後復興が起きてきたのだし、バブル崩壊以降は、その関係性を失って社会が分断され、しだいに衰退してきてしまった。それは、支配者層の戦略だったのかもしれない。そうしてまんまとそれに乗せられた者たちのレイシズムヘイトスピーチが一挙に噴出してきた。

今や世界的にアンチ・レイシズムの機運が盛り上がってきていて、それはとても大切でよろこばしいことだが、新しい時代を迎えるためには、同時にレイシズムを置き去りにするくらいの他愛なくときめき合う「祭りの賑わい」が必要になる。

とくに「神の裁き」のないこの国の民衆社会においては、「神の裁き」すなわち「正義」を叫ぶだけでは大きなムーブメントにならない。けっきょく今どきの右翼も左翼も、「正義」を叫んでいるだけだから、広く民衆を巻き込むということができない。戦後左翼の失敗はそこにあるし、右翼だってどれほど声高に「男系男子」の正当性を叫んでも民衆の賛同を得ることはできていない。

ようやく右翼がわがもの顔で闊歩する時代が陰りを見せはじめ、今度は左翼が復権するかといえばおそらくそうでもなく、どちらもだめだということにこの国の民衆は気付きはじめているのではないだろうか。

いろんな分野で「パラダイムシフト(チェンジ)」という言葉が叫ばれて久しい。もはや右翼か左翼かというカテゴライズにあまり意味はないし、「保守」といっても民衆はピンと来ていない。

「新しい時代」はどのようにしてやってくるのだろう。時代がやってくることは、時代が滅びることだ。世界の滅亡は、世界の誕生だ。

この世界は、ひとつのパラドックスだ。

生きることは、死んでゆくことだ。

正義なんかどうでもいいし、正義なんかどうでもいいことが正義だ。

思想によっては「新しい時代」は生まれてこない。この国において「新しい時代」を切りひらくのは思想ではなく「心映え」すなわち「祭りの賑わい」であり、それは「もう死んでもいい」という勢いの女の中の「処女性」とともに生まれてくる。

女が立ち上がることこそ希望なのだ。しかしそれは、世にいうフェミニズムとは違う。女は、女のために戦うのではない。女とは男に幻滅しつつ男を赦している存在であり、あくまでも人と人がときめき合い助け合う「新しい時代」のために戦う。彼女らは、生きてある「今ここ」に幻滅している。だからこそ身をひるがえして「新しい時代」に飛び込んでゆくことができる。

 

2月に京都市長選がある。そこで立候補した福山和人という人には共産党とれいわ新選組が推薦しているのだが、それ以上に多くの市民が後押しをしているということで全国的な注目にもなっている。とくに家庭の主婦を中心とした女たちの「つなぐ京都2020」というチームによる連携が、これまで以上に盛り上がっているらしい。

4選を目指す現職の市長は国の支配階級と結託して市の政治を推し進めてきた人であり、自民党公明党はもちろんのこと、なぜか立憲民主党や国民民主党も推薦を決めている。

共産党が強い土地柄の京都では、このような対決の構図になることが多く、それによって現市長はこれまでの選挙を悠々と勝ち抜いてきたわけだが、「市民=町衆」が立ち上がった今回ばかりは安閑としていられないのだとか。

京都は、世界でもっとも美しい町のひとつとして認知されている。そうして今や世界中からたくさんの観光客が押し寄せてきて大変な賑わいになっているが、それによって地元住民の暮らしの安全が脅かされるという、さまざまな「観光公害」も生まれてきている。一見繁栄しているように見えるが、じっさいには外部のさまざまなグローバル企業が入り込んできて京都の美や富を食い散らかしている。そのために一部の利権を得ている者たちだけが潤う政治がなされていて、住民福祉の予算はどんどん削られ、伝統的な小規模家内商工業の倒産も続いている。そうして路線バス等の交通網が混乱するし、住宅街や寺の前に平気で大きなホテルが建てられてゆく。

「京都」という「まち」が壊されていっている……1200年続いた京都の「まち」が100年後にもあるかどうかはもうわからない……そういう住民の声に押されて福山和人という人が立候補した。

現在の市長はさらに観光事業を拡大させようとしており、そうやって「観光」という名のもとに、京都の伝統である「町衆」の文化と暮らしが壊されようとしている。

というわけでこの選挙は、いわば「階級闘争」のようになってきている。だから共産党が支持したし、れいわ新選組もそこに加わった。

 

「まち」とは何だろう……時代は今、そういう問題をもう一度ちゃんと考えるべき時期に来ているのかもしれない。

人間がこの世に生きて暮らしているということの基本は、「家族」でも「国家」でもなく、「まち」なのだ。

京都の市長選挙は、われわれに「まちとは何か?」ということを考えさせてくれる。

福山和人氏の応援プラカードに「まちこわし・許しまへん」と大きく書かれたものがあった。たしかにそうだ、京都の人たちがそれを自覚しているのはさすがだと思う。金に目がくらんでうかうかしていると、壊れてしまってからはじめて気づく。そうやって日本中の駅前の「まち」の風景が、「開発」の名のもとにいつの間にかみな同じようになり、個性=伝統を失ってしまった。あとから気づいても、もう取り返しがつかない。われわれは、高度経済成長によって「まち」の自覚を奪われてしまった。

支配者にとっては、民衆が「まち」の自覚を持たないほうが都合がよいわけで、そのために民衆社会を分断し、そうやって個々の意識をもっとも大きい集団としての「国家」と最小の集団である「家族」に向けさせる。

「国家」も「家族」も、その集団は人と人の関係に順位と秩序がつくられている。それに対して「まち」は、どこからともなく人が集まってきて他愛なくときめき合い助け合う「無主・無縁」の混沌とした集団であり、そこにこそ「まち」のいとなみのダイナミズムがあるわけだが、そうやって民衆が自立した集団性の精神を持つことは、支配者にとってはきっと都合の悪いことにちがいない。

京都は、そうした「町衆」の集団性の文化の伝統を持っている。天皇家のお膝元の「まち」であったからそれが赦されてきたというか、民衆が天皇との直接的な関係を持つということは、すなわち権力社会から自立した集団性の文化を持つということなのだ。

たとえば明治維新の際には、国としての京都市よりも先に「町衆」が自分たちで小学校をつくっていったし、日本で最初の路面電車を走らせたのも民間の事業で、市の所有になったのは10数年後だった。

また、平安時代の朝廷内の権力社会で流行していた御霊信仰(=悪霊退散)の行事を引き受けた「町衆」が、それを人と人がときめき合い助け合う場としての「祇園祭」へと美しく昇華していった。

 

京都の「町衆」は、権力社会から自立した集団性の文化を伝統として持っている。そうして「町衆」の集団性の本質は、どこからともなく集まってきた者たちが「無主・無縁」の関係のまま他愛なくときめき合い助け合う「祭りの賑わい」にある。

京都の人付き合いの関係は冷たくややこしい、などといわれるが、それは、どんなに近しい間柄でもなれなれしくしないで「無主・無縁」の平等の関係を保とうとすることにあり、それによってより豊かにときめき合い助け合う関係になれることを知っているからだ。

したがって京都の「町衆」の集団性は「共産制」との親和性を持っており、この国でもっとも共産党に対する拒否反応が薄い土地柄になっている。

今回の京都市長選の福山和人という候補は、共産党員ではない。あくまで市民(=町衆)が押し立てた候補者であり、それを共産党とれいわ新選組が支持したというかたちになっている。彼は「これまでお上のもとでなされてきたトップダウンの京都の<まち>の運営を、この国ではじめて小学校をつくり町に路面電車を走らせたときの、他愛なくときめき合い助け合う<町衆>の集団性のもとに取り戻そう」と訴えて立候補した。

彼と彼を支持して盛り上がっている「町衆」たちは、はたして既得権益を離すまいとする権力者たちに勝てるだろうか?

「町衆」の側がが勝つためには、投票率を上げて浮動票を集めなければならない。

投票率が上がるとき、人々は「新しい時代」を夢見ている。それは、「まち」における「祭りの賑わい」が生まれているということであり、「新しい時代を夢見る心」は「処女」のもとにもっとも深く豊かに宿っている。「新しい時代」は、「女の中の処女性」とともに生まれてくる。「まち」のダイナミズムの源泉は「女の中の処女性」にあり、女たちが立ち上がることによって投票率が上がる。

今回の市長選は、はたして京都の「町衆」の伝統は残されているか、と試されている。京都の「町衆」によっていち早く小学校が建てられたのも、とうぜん子供を守り育てたいという女たちの願いが中心にあったはずだが、それは「新しい時代を夢見る」という「女の中の処女性」の発露でもあったにちがいない。

「新しい時代を夢見る」ということは、「未来を計画する」ということではなく、「もう死んでもいいという勢いでみんなして他愛なくときめき合い助け合う」という「今ここ」の「祭りの賑わい」のことだ。それが「処女性」であり、だから「処女=思春期の少女」は「大人になんかなりたくない」というのだし、人類の歴史はその勢いによって世界のあちこちで「まち」が生まれ、進化発展してきた。

「女の中の処女性」こそ、人類普遍の「まち」の歴史と未来の問題でもある。

 

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蛇足の宣伝です

キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたものです。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。

金が仇の世の中で

僕は天皇制は普遍的だと考えているからべつに左翼ではないつもりだが、安倍首相が立憲民主党の議員の質問の際に「共産党!」というヤジを飛ばしたように、今どきの右翼は「共産党」とか「左翼」という言葉を「蔑称」ように扱っていて、この醜悪な思い上がりはたまらなく不愉快だ。

安直なレッテル張りはたしかに思考停止だし、そもそもこの首相には、「共産党」いう言葉の意味や歴史について考えるインテリジェンスがまるでない。

それが蔑称になるのは右翼界隈の身内だけの話で、国民全体の合意ではない。もちろんその言葉は、長い東西冷戦下でさんざん敵視され、国民の中にもいくぶんかの拒否反応は残っているだろうが、少しずつ薄れてきてもいる。

ましてやそれを「蔑称」のように扱っておもしろがっているなんて、時代錯誤の俗物根性もいいところだ。

たとえ共産党を支持していなくても、その言葉そのものには何の偏見も先入観もない人はいるし、そういう人の心は率直で時代に汚されていないと思う。

そりゃあ共産党という政治団体に対しては僕だって「なんだかなあ」という思いもないわけではないが、だれもが平等で他愛なくときめき合い助け合っている社会としての「共産制」そのものは人類の永遠の理想であるにちがいない。その理想が気に入らない人だって、心の底ではそれが理想であることを認めている。そして支配者は、民衆がその理想に目覚めないように画策してくる。

まあ右翼以外の多くの国民は、共産党をいちばん支持するというわけではないとしても、まじめに政治に取り組んでいる人たちなのだろうな、というくらいのそこはかとない好感は抱きはじめている。先入観がない人たちはすでにそのように見ている状況になってきたのではないだろうか。

日本列島には無主・無縁で他愛なくときめき合い助け合う「祭りの賑わい」の伝統があるということは、日本人は根源において「共産制」を拒否しているわけではない、ということを意味する。そういう「祭りの賑わい」から起源としての天皇が生まれてきたのだし。

 

現在のこの世界の資本主義社会ですでに「既得権益」を持っている人たちは資本主義が永遠普遍のものだと思いたいだろうし、今どきのこの国では、「日本人である」というそのちんけな「既得権益」にしがみついて「日本人に生まれてよかった」と大合唱しながら無際限にヘイトスピーチを繰り返している者たちもいる。このいじましさは、いったい何なのだろう。おまえらも日本人であるなら日本人であることがほとほと嫌になる、といいたくなるではないか。

資本主義のシステムが高度に発達したせいなのかどうかは知らないが、今どきは下層の庶民だって「既得権益」や「私有財産」を持っていないと不安になってしまう世の中なのだろうか。

資本主義を謳歌している者たちと、資本主義に追い詰められている者たちがいる。謳歌しているように見える者たちだって、その謳歌していること自体が追い詰められていることの裏返しだったりする。また、謳歌できるようになってももっと謳歌したくなり、「もっと、もっと」と際限がない。それは、追い詰められているのと同じではないのか。つまり、この社会のシステムがそのように動いていて、その歯車になってしまっている。

安富歩のように「いい加減こんなシステムは壊してしまおう」と訴える人もいるのだが、彼自身がだれよりも深くかんたんには壊せないことを知っている。

われわれはもう、絶望する以外になすすべがない。しかしみんなが絶望すれば、その先に「新しい時代」が見えてくる。明るく絶望する、ということ。

絶望しないで「このままでいい」と思っているからやっかいなのだ。そうやって社会はどんどん停滞してゆく。

「大人たちが腐っている」と誰かがいっていた。「きっとそうだ」と僕も思う。

団塊世代以上のジジババがこのまま逃げ切ろうとして居座っているから新しい時代がやってこない、とも言っていった。そうかもしれない。

逃げ切れそうもない下層の団塊世代前後のジジイたちが苛立ってネトウヨの主流になっている、とも聞いた。まあネトウヨなんて社会全体からしたらごく少数だが、全世代に広がっているのだろう。彼らはこの社会のシステムに踊らされ追い詰められている。そうしてこの社会のシステムの上にあぐらをかいて資本主義の「既得権益」と「私有財産」を謳歌している者たちの延命を助けている。

なぜ貧しい者どうしが分断し対立しなければならないのか。貧しい者どうしが他愛なくときめき合い助け合うのがこの国の伝統であるのに。また、そういう能天気なところがないと、人は魅力的ではない。

断っておくが、ここでいう「共産制」とはだれもが他愛なくときめき合い助け合っている原始的な社会のことで、僕は政治オンチだからそれ以上のややこしいことはよくわからない。

 

資本主義社会はこの先もずっと続くという人と、いやいやもうすぐ終わるという人がいる。これはきっと、「貨幣(お金)とは何か」ということに対する認識の違いにあるのだろう。お金に執着していれば、続いてほしいし続くと信じられる。それに対してお金なんかただの「交換」の道具だからもともと意味も価値もないのだと思っている人たちは、いずれ資本主義は滅びるしすでに滅び始めているという。まあ大雑把にいえば、前者は右翼で後者は左翼だということになるのだろうか.

で、どちらが正しいかといえば、残念ながら僕は前者のほうが正しいように思える。

貨幣(お金)にはもともと意味も価値もあるのだ。だからこんなややこしいお金の世の中になっているわけで、意味も価値もないのならとっくに人類史の舞台から消えてしまっている。

「おかねには意味も価値もない」といえば、気持ちいいだろう。しかしそんな認識は、ただの思考停止のナルシズムにすぎない。

貨幣(お金)の起源を原始時代のきらきら光る貝殻や石粒だとするなら、「交換」という関係のない原始時代から貨幣が存在していたことになる。文明社会になってそれを「交換」の道具にしたからといっても、もともと意味も価値もあるものだったからだろう。交換の道具だから意味や価値を持ったのではない、意味や価値があるから交換の道具になったのだ。そうしてそれが最終的にはただの紙切れの紙幣になったのは、それほどに貨幣(お金)の意味や価値に対する信憑が定着してきたからだろう。もちろんただの紙切れには意味も価値もない。しかし貨幣(お金)そのものには意味も価値もある。

人類は、貨幣(お金)に意味や価値を付与したのではない、意味や価値があるものが貨幣(お金)になっただけのこと。

今でも金や宝石にむやみな価値があるように、人類の歴史は、普遍的に「きらきら光るもの」を愛し続けてきた。それに意味や価値があるのは、それが深く豊かな「ときめき」の対象だからだ。人の心は、なぜ「ときめく」のか。意味や価値があるからときめくのではない、ときめく対象だから意味や価値がもたらされるのだ。

人の心は、根源において意味や価値という概念にときめいているのではない。人の心の「ときめき」は、人が生きてあるということの普遍的な実存の問題であり、左翼のインテリがどんなに「貨幣(お金)には意味も価値もない」と強調しても、おそらくこの世から貨幣(お金)が無くなることはない。それは、人の心から「ときめき」がなくなることはない、ということと同義なのだ。

 

お金は「汚い」ものか?

そんなことをいっても、もともと「この世のもっと美しく清らかなもの」の形見として原始時代から流通していたのだ。

文明社会の発生とともに「交換」の道具になることによって、その機能がだんだん汚れてきた。しかしそれは、お金そのものが汚れたというよりも、それを扱う人の心が汚れてきたということだろう。そのときお金が、権威・権力になった。それが、自分も他人をも支配する権威・権力になった。

原初のお金には、権威も権力もなかった。つまり、原初の人々はお金に支配されていなかった、ということだ。たとえば、死者の埋葬に際しては、集団のだれもが自分の持っているきらきら光るビーズの玉(=お金)を惜しげもなく差し出した。そういう考古学の証拠が、二万年前のロシアのスンギール遺跡にある。死者とはもはや支配不可能な存在であり、同時にそれを惜しげもなく差し出したということは、それがどんなに大切なものであっても自分を支配しているものではなかったことを意味する。

それは、「交換」不可能な、ひたすら純粋で一方的な「贈与」の形見だった。それはこの世のもっとも美しく清らかな対象であると同時に、それを差し出すことによって自分の心もすがすがしく洗われていった。貨幣(お金)とはもともとそういう「みそぎ」の機能を持ったものだった。

貨幣(お金)の本質は、けっして「汚い」ものではない。もとはといえば人が生きてあることの不安やいたたまれなさを洗い流してくれるものだったし、現在だってひとまずそういう意味と価値の形見として扱われ流通しているのだ。

たとえば、「貸した金には利子がつく」ということ、それは「けっして<等価交換>ではない」ということの「アリバイ」になっているのだ。だから借りたものがそれを返すとき、それがあくまで一方的な「贈与=捧げもの」の証拠として利子をつけて差し出している。

一方的な「贈与=捧げもの」をする本能を持っている人の心は、そうかんたんには「等価交換」をすることができない。そこに付け込んで莫大な資産をため込んだユダヤの金貸したちは大したものだというほかないが、とにかくそういうことなのだ。

100円の価値の商品を150円で売るのは、「等価交換」から逸脱している。しかし買うほうだって、それが150円以上の価値があると思うから買うのだし、もともと100円のものだということを知っているから150円差し出すことが「贈与=捧げもの」の行為であると自覚することができる。

貨幣(お金)は、その本質において、けっして「等価交換」の道具ではないし、けっして「汚い」ものでもない。現在でもなお、人はそれを一方的な「贈与=捧げもの」として扱っているのであり、そこにはそういう人類の歴史の無意識がはたらいている。

 

既得権益」や「私有財産」などなくても、みんなが他者にときめき「贈与=捧げもの」をする社会のことを「共産制」という。原始時代はまさしくそうだったし、それこそが人類の究極の理想であるにちがいない。その途中段階として、われわれは今「資本主義社会」に生きている。

たとえ資本主義社会であっても、原始共産制の社会おいてお金が「贈与=捧げもの」の形見であったというその本質は残されているのであり、まあどんな高名なインテリだろうと「貨幣は等価交換の道具である」とか、だから「お金には意味も価値もない」というような前提で語られると、そんなことあるものかと言いたくなってしまう。

原始時代の「貨幣=きらきら光るもの」は、心を清らかにしてくれるものであった。この生に対する執着を洗い流してくれるものであった。そうやって原始人は、惜しげもなくそれを埋葬される死者に捧げた。

死に対する親密な心を持てば、この生に対するむやみな執着を洗い流される。そうして、死に対する親密な心こそが、この生を活性化させる。その、われを忘れた「もう死んでもいい」という勢いの「ときめき」や「熱中」とともにこの生が活性化してゆく。

「死」は「異次元の世界」にある。「死に対する親密な心」とは、その「異次元の世界」に対する遠いあこがれのことだ。「異次元の世界」は、見上げる青い空の向こうにある。太陽は、その「異次元の世界」からやってきて、また「異次元の世界」に向かって去ってゆく。夜空の星や月だって同じ、「きらきら光るもの」は「異次元の世界」からやってきて「異次元の世界」に向かって去ってゆく。二本の足で立ち上がることによって青い空を見上げる習慣を持った原初の人類は、そういうことに気づいていった。

原初の人類にとってこの生は、とてもしんどくていたたまれないものだった。だから、「異次元の世界」にあこがれた。そして「異次元の世界」は「光」の世界なのだろうと思った。太陽や月や星だけでなく、この世界のすべての「きらきら光るもの」は「異次元の世界からの贈りもの」だと思った。そうやって彼らは、死者に対する親密さと「異次元の世界」に対する遠いあこがれの形見として、その埋葬に「ビーズの玉」という「貨幣=きらきら光るもの」を捧げた。そうして、そのかなしみの「涙=きらきら光るもの」とともにみずからの生のしんどさといたたまれなさを洗い流していった。

そのとき彼らが捧げたビーズの玉は、きらきら光る「涙」の形見でもあったのかもしれない。

 

今も昔も人類は普遍的に「捧げもの」をせずにいられない衝動を持っている。自分にとってもっとも大切なものだからこそ、それを差し出さずにいられない。そうやって自分=この生を忘れて世界や他者の輝きに「ときめいて」ゆく。そうやって「異次元の世界」に旅立ってゆく他者に対する「かなしみ」を深くしてゆく。

すなわち、資本主義社会の「既得権益」や「私有財産」だって、本質的には他者に捧げるためのものとして存在している。そうやってわれわれは税金を払うのだし、「捧げる」ためのものだからこそ「どんなに貯め込んでも許される」という皮肉なことにもなっている。

ともあれ現在の資本主義社会は、究極の未来の「共産制」にいたる途中段階であることはたしかだろうと思える。

たとえそれがどんな遠い未来であろうと、人間の社会はいつかきっと「共産制」になってゆくようにできているのではないだろうか。

貨幣は、その本質において「等価交換」の不可能性を負っている……それによって現在の資本主義の進化発展がもたらされたのだろうが、同時に富の偏在等のさまざまな社会的ひずみも生じているわけで、その進化発展それ自体が資本主義の限界でもあるのかもしれない。その「等価交換」という「たてまえ」がしだいに成り立たなくなってきているのではないだろうか。

資本家は、「等価交換」のふりをしながら、労働者を安くこき使う。その不条理を克服しようとして共産主義社会が生まれてきたのだけれど、「等価交換」にしてしまったら、人々の「贈与=捧げもの」の衝動が起きなくなり、人と人の関係も社会の動きも活性化してこない。そうやって社会が停滞し、資本主義社会との競争に負けてしまった。

資本主義社会では100円の商品を100円以上の価値があるかのように見せようとするわけで、それが資本主義社会のダイナミズムになっているし、共産主義社会はその努力をしなくなって負けてしまった。

共産主義社会の労働者は1000円の給料なら1000円分の仕事しかしないが、資本主義社会では1000円分以上の仕事をしなければ1000円の給料をもらうことができない。

人の世は「贈与=捧げもの」の衝動の上に成り立っている……資本主義社会の資本は、そこに付け込んで増殖してゆく。そして増殖しつつ、本質を失ってゆく。貨幣ほんらいの意味と価値が、どんどん空虚なものになってゆく。もともと美しく清らかだったものが、どんどん汚いものになってゆく。もともと「異次元的」であったものが、ひどく「現世的」なものになってしまった。

人は、「異次元の世界に対する遠いあこがれ」なしには、生きてあることも死んでゆくこともできない。もともと貨幣とは、「異次元の世界に対する遠いあこがれ」の形見だった。そういういわば「神聖」なものだったのだし、それを他者に「贈与=捧げる」ことによってみずからの生に対する執着を洗い流す「みそぎ」の体験をもたらすものだった。

人類が現在もなお人におごってやったりプレゼントをしたりする「贈与=捧げもの」の習慣を持っているということは、資本主義の「私有財産」や「既得権益」を否定していることであり、資本主義がいつか滅びるであろうことを暗示している。とはいえそのときが現在の共産党の出番だとも思わないが、それでも現在の世界のあちこちで「新しい共産制」を模索する動きは出てきている。

まあ政治のことはよくわからないのだけれど、人類の歴史の問題として「貨幣(お金)」の起源と本質について根底的に問い直してみてもいいのではないか、と僕は思っている。

 

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『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたものです。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

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初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。

ねこのいるまち

カルロス・ゴーンの記者会見は、猛々しく自己正当化の主張をまくしたてるばかりで、世の中にはこんなけったいな人間もいるのかとうんざりするばかりだった。なんだか異星人を眺めているような気分だった。これでゴーンを見直した、という感想を持った人がいるだろうか。

彼はヨーロッパ人だが、ルーツは中東レバノンにあるらしい。ヨーロッパや中東には、こんな人柄や態度が通用するような風土があるのだろうか。あの猛々しい自己主張は、砂漠では自分の命は自分で守らねばならない、という歴史が土台になっているのだろうか。よいか悪いかなんか、わからない。ただ、その人柄や態度は、人間性の自然・本質に照らせばどうなのだろう、という疑問は残る。あれを、人間として正直で本質的だ、という人がいるのだろうか。

中東は、世界で最初に文明国家が出現した地域である。そしてそれは、もともと世界でもっとも肥沃であったはずの土地が爆発的な人口増加とともにどんどん砂漠化してゆき、それとともに人と人の関係や集団と集団の関係が変質していった時期でもあった。そんな中で、いち早く「国家」を打ち立てた地域が覇権を握っていった。これがエジプト・メソポタミア文明で、ゴーンの体の中には、そういう「闘争」の歴史の血が流れているのだろうか、と思った。

あれはあれで、ゴーンの「ジハード」だったのだろうか。

 

人類最初の文明国家は、「都市国家」だった。都市がそのまま国家になった。都市は国家ではないが、国家になることができる。つまり、「原始共産制」の上に成り立った原始的な都市が、「王」による支配制度を持った「文明国家」へと変質していった、ということだ。それはまあ進化といえば進化なのだろうが、人間性の自然・本質が歪んで変質してゆく歴史でもあった。

われわれが人間性の自然・本質を問おうとするなら、最初の文明都市国家ではなく、それ以前の原始的な都市について知る必要がある。人間性の歴史はそこでいったん頂点に達したのであり、文明都市国家はそれを変質させてしまったのだ、

原始共産制の原始的な都市においては、無主・無縁の関係のままに他愛なくときめき合い助け合って集団をいとなんでいたのであり、そこには家族も親族もなく、文明都市国家のような支配=被支配の関係はなかった。

集団の中の順位制や支配=被支配の関係はボスが君臨する猿社会のものであり、王が君臨する文明都市国家もまたそのような構造になっている。であればそれは、「進化」というよりもひとつの「先祖返り=退化」だともいえる。

都市の本質とは何か?

都市の本質が変質して都市国家になった。無主・無縁の混沌とした関係の原始的な都市と、支配=被支配の秩序の上に成り立っている国家の本質は逆立している。そして人類最初の文明都市国家の発生に際して究極の支配者として「神=ゴッド」が見出され、王はその支配の代理人として登場してきた。

おそらくその「神」という概念が見いだされていった契機は、中東地域の砂漠化にともなう人と人や集団と集団の「闘争関係」であり、文明人は今なお人間性の自然・本質は「闘争関係」にあると考えていたりする。そして、原始社会は文明社会よりももっとあからさまな「闘争関係」にあったとする説もある。もちろん文明国家は「闘争関係」を終息させる集団として生まれてきたが、「闘争関係」を終息させるもっとも有効な方法は闘争に勝利することなのだ。「闘争関係」は文明国家の発生の契機になったが、原始社会にそんな関係はなかった。つまり、「闘争関係」こそ文明国家を生み出すエネルギーだったのだ。

人類の歴史は、「闘争関係」が生まれなければ原始的な都市のままでいられたものを、いまだにどのようにしてその関係を克服しようかと四苦八苦している。ともあれ克服しようとしているということは、それが人間の本性ではないということをじつは誰も心の底で知っているからだろう。

 

近ごろ安富歩氏が「まちはだれのもの」というテーマのトークイベントをやっておられた。

「まち」=「都市」。

「まち」の起源と本質は何か?

人類の集団の原型は何か……吉本隆明は「家族」にあるといい、そこから1960年代に発表した『共同幻想論』では人と人の関係意識の原型は家族のあいだの「対幻想=親密さ」にあると唱えていた。そしてこの家族主義の思想は多くの読者の賛同を呼び、一世を風靡した。まあ一見もっともらしい話だが、じつはどうしようもなく陳腐で短絡的な思考である。ちょっと考えたら、すぐわかる。彼は、人類の集団の歴史は初めに「家族」があり、それが大きくなって「親族」になり、「親族」が集まって「まち=都市」になり、最後に「国家」ができた……と説明しているのだが、こんなことはあり得ないのだ。

原始時代に「家族」などという単位があっただろうか。あったはずがない。

原始時代は乱婚の「母系社会」で、女たちはみな、父親がだれであるかわからない子供を産んでいた。「母子関係」はあっても、父親のいる「家族」などというものはなかった。また「母子関係」といっても授乳期だけのことで、ひとりで立って歩けるようになれば集団の子供たちに遊んでもらっていた。

とくにネアンデルタール人の女たちは次々にたくさんの子を産み続けていたから、いつまでも子供の面倒を見ている余裕がなかった。そしてまた、地球上で最も厳しい環境に置かれていたのだから、自分ひとりの手で育て上げるということ自体が不可能だったし、じっさい乳幼児の死亡率がとても高かった。つまりそこでは何人ものわが子が死んでゆくのであり、現代の核家族の母親のように子供を自分の手の中に囲い込んで執着してゆくというような生き方をしていたら、おそらく発狂してしまうだろう。彼女らは、その発狂しそうな「喪失感=かなしみ」と向き合いながら、次々に子供を産み続けた。おそらく彼女らは、現代のこの国の母親ほどには「親」という意識はなく、子供とは自分の体を通過していった自分とは別の生命体、というくらいの認識だったのだろう。つまり自分の産んだ子供であっても「無主・無縁」の対象だったわけで、そう考えるのが原始人の世界観・生命観だったのではないだろうか。

まあ世界中どこでも原始社会における子供の父親は「集団」であり、「集団」で子供を育てていた。とくに乳幼児は、集団のみんなで面倒を見ないと生きさせることができないほどに、すぐ死んでしまう存在だった。

私有財産」のない「原始共産制」は、「家族」とか「親族」という単位のない「無主・無縁」の関係の上に成り立っていた。

人類の集団の歴史は、最初に「まち」があったに決まっているではないか。そこから父親のいる「家族」という単位に細分化されていったのは、ずっと後の時代のことだ。

 

人類はもともとチンパンジーのような猿であったわけで、その中の一集団が二本の足で立ち上がっていった。

人間の先祖とチンパンジーの先祖は違うという説もあって、人間になるべき種類の猿はみな二本の足で立ち上がっていったというが、そうではない。つまり、二本の足で立ち上がるようになるべき特別な遺伝子を持っていた、といいたいらしいのだが、それは「遺伝子」によってではなく、立ち上がるほかないような特殊な「環境」と「集団のかたち」があって起きてきたことだったのだ。

では、どのように特殊だったのか?

ボスが性交の権利を独占している猿の集団は全員が兄弟姉妹のような関係で、ひとまずそれは親族集団だといえる。だからまあ、結束力も強いし、順位関係もはっきりしている。まただからこそ、そうした関係があいまいになってしまうようなむやみに大きな集団にもならない。

それを自覚するにせよしないにせよ、「親族」などという関係は、「家族」を持たない猿の時代から存在していたのだ。

それに対して二本の足で立ち上がっていった人類の祖先の一集団は、いろんな群れからはぐれてきてサバンナの中の小さな森に逃げ込んだというか迷い込んだ者たちの、いわば「無主・無縁」の集団だった。つまり気候が乾燥化してサバンナがジャングルを侵食していった結果、そういう現象が起きてきたのだ。

人類史の最初の集団は、通常の猿のような「親族」ではなく、どこからともなくバラバラに集まってきた「無主・無縁」の集団だった。したがってそこには、ボスもいなければ、順位争いもなかった。

そこでもボス争いは起きるだろう、という意見もあるが、もともとボスという既得権益のない集団なのだから、どんなに強くてもボスになりようがなかったのだ。

オオカミは、集団としては人間に対して敵意や警戒心を持っているが、はぐれオオカミが人間と出会えば、逆になついてきたりする。そのようにしてひとりひとりが孤立している無主・無縁の集団においては、争いではなく、ときめき合う関係になる。

四本足の猿が二本の足で立ち上がれば、俊敏さを失い、しかも胸・腹・性器等の急所を外にさらしてしまうのだから、戦うことができなくなる。したがって、ときめき合っている関係の集団でなければそのことは起きないし、よりときめき合う関係になるかたちで立ち上がっていったともいえる。

原初の人類の集団は、ほかの猿とは違って支配=被支配のない関係だったから、みんなで二本の足で立ち上がるということが起きた。その集団は、それぞれがどこからともなく集まってきた「無主・無縁」の関係の上に成り立っていた。

 

「無主・無縁」の関係だからこそ、豊かにときめき合うことができる。それが、どこからともなく人が集まってきてできた「まち=都市」のダイナミズムの源泉である。弥生時代奈良盆地は、まさしくそのようにして列島中から人が集まり人口が密集していった「まち=都市」だった。そうしてそんな「無主・無縁」の「祭りの賑わい」から起源としての天皇が選ばれ祀り上げられていった。

人の集団が「地縁・血縁」で固まっていれば、その中で「順位」すなわち「支配=被支配」の関係が生まれ、集団的にも個人どうしにおいても「闘争」や「競争」や「排除」の衝動が強くなってくる。そうやって集団からはぐれてゆくものが生まれてくるのだし、いつの時代も少年少女は家族という血縁関係の外に出ることによって「恋」や「ときめき」を体験する。

人類の歴史は「無主・無縁」の集団としてはじまっている。そこにこそ人間性の自然・本質があるわけで、「地縁・血縁」の集団だって「無主・無縁」の関係を併せ持っていなければ成り立たない。だから、どこの村にも村はずれの「鎮守の杜の祭り」がある。

「無主・無縁」の関係の中でときめき合ってゆくのは人間の本能的な生態であり、そうやって「まち」という「祭りの賑わい」が生まれてくる。「鎮守の杜」だって、ひとつの「まち」なのだ。村だって、もともとは人々がどこからともなく集まってきた「無主・無縁」の集団としてはじまっているのであり、やがて「地縁・血縁」の息苦しい集団になってきたときに、最初の他愛なくときめき合い助け合う関係を取り戻す機会として「鎮守の杜の祭り」が生まれてきた。

集団からはぐれてどこからともなく集まってきた「無主・無縁」の者たちが新しい「集団=まち」をつくってゆく……このことの無限の繰り返しによって、人類が地球の隅々まで拡散してゆくということが起きた。

はじめに「まち」があった……ということ。「家族」があったのではない。原初の人類は、その「血縁関係」の息苦しさから解き放たれて猿から「人間」になったのだ。したがって、吉本隆明は間違っている。彼のいう「対幻想(=他者との純粋なときめき合い助け合う関係)」は、家族の中ではなく「外」にある。つまりそれは、家族の外の無主・無縁の集まりである「まち」からはじまっているのだ。

そうして「まち」が固定化され大きくなってくれば、「地縁・血縁」の「親族利益集団」があちこちに生まれてきて、やがてそれらの競争・闘争関係を収拾する「国家」という支配権力が生まれてくる。そしてその支配制度を隅々まで行き渡らせるために、片隅の母子関係に「父親」を挿入し「家族」という単位になっていった。つまり「家族」は、人類史においていちばん最後に生まれてきた集団なのだ。

だから、吉本隆明の家族礼賛の思想なんてまったく正しくないし、きわめて胡散臭い。

それに対してれいわ新選組の安富歩は、「現在の<まち>の景観や構造は金のためや車のためのものになってしまっているが、それを人も含めた<生きもの>のためのものとして取り戻さねばならない」といい、その根本原理として「子供を守る」ということを主張しているわけだが、われわれはそれを「家族」の問題として受け取るべきではない。どんな善人の家族だろうと、本質的に「暴力装置」としての側面を必ず持っている。

それはあくまで「まち」の問題であらねばならない。人類の歴史は、「無主・無縁」の人々の集まりである「まち」としてはじまり、集団性の生きものとして永遠にその問題とかかわってゆかねばならない。

 

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蛇足の宣伝です

キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたものです。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。

山本太郎は時代の「生贄」である

正月もすでに一週間が過ぎてしまった。

桜を見る会疑惑とか、カジノ疑獄とか、自衛隊のイラン派遣とか、野党のいじましい合流劇とか、ろくでもない政治状況のこの国は、この先いったいどうなってゆくのだろうか?

桜を見る会の追求とか、アメリカ軍によるイラン要人殺害に対する抗議とか、共産党ひとりががんばっている印象だが、国民の意識はおそらくそんなところになく、ちょっと気の毒だと思わないでもない。まあ、天皇制に対する批判を続けてきた歴史があるから、自業自得だという部分もないではない。

ほんらいの天皇制は、共産制と矛盾しない。彼らは、そのことに気づく必要がある。天皇は、民衆が真の共産制や民主主義を育ててゆくことを見守ってくれている。もともと天皇は「見守る」ということ以外には何もしないのであり、そういうかたちでこの国の「生贄」として存在している。

だったら、どうして天皇を責める必要があろうか。

資本主義とか共産主義とか、どんなかたちの社会であれ、「リーダー」は必要だ。ボスが支配する猿の集団と違って人間の場合は、集団の成員がみずからリーダーを祀り上げてゆく。そして祀り上げられているだけのリーダーは「何もしない=支配しない」のであり、集団の成員は、その「祀り上げている」という心を共有しながら自分たちで集団を運営してゆく。それが、原始時代の「共産制」であり、究極の未来の「民主主義」でもあるわけで、われわれはそういう歴史の途中にいる。

猿社会は上からボスの「支配」が下りてくるが、人間の集団性の自然・本質においては、下からリーダーを祀り上げてゆく。したがって祀り上げられている存在には、支配権力は発生しない。むしろ、祀り上げている者たちから「支配されている」ともいえる。これが人類史における「生贄」の起源であり、原初の天皇はまさしくそういう存在だった。

人類は「生贄」を祀り上げる。

「生贄を殺して神に捧げる」などというのは文明国家の呪術信仰が生み出した習俗であり、そのような「宗教」が存在しない原始時代の集団においては、みんなで祀り上げてみんなで「捧げもの」をして生きさせていただけである。「贈与=捧げもの=プレゼント」をするのは、現在まで続いている人間の本能のようなものだ。

人間は「ときめく」存在であり、そうやって「リーダー=生贄」を祀り上げてきた。

まあ今でも、政治家という名のリーダーであろうとする者たちは、さかんに自分が「生贄」であることを強調する。もちろんそんなものはただのポーズで、ほんとうに「生贄」の気配をそなえた政治家は山本太郎ひとりだけだ。

 

人類史においてなぜ「生贄」という存在が生まれてきたか……これは、人間性の自然・本質について考える上での大問題だ。

そして人はなぜみずから進んで「生贄」になろうとするのか。

「生贄」という存在の本質は、「殺して神に捧げる」というようなことではない。神などというものを知らない原始時代から人類は「生贄」を祀り上げてきた。「殺す」ことが「生贄」の本質であるのではない、「みんなして祀り上げる」ということにある。いずれにせよそれは集団運営のための「形見=象徴」としての存在であるわけだが、起源においては集団運営という目的のために生み出されたのではなく、人々のときめき合い助け合う関係の「賑わい」の中から自然に生まれてきただけであり、結果としてそれが猿のレベルを超えた大きな規模の集団を運営するよりどころになっていっただけだろう。

みんなして同じ対象にときめき祀り上げてゆくということ、それによって集団の「賑わい」が盛り上がった。

たとえば、ネアンデルタール人が狩りでマンモスを仕留めて集落に持ち帰れば、みんなは大いに盛り上がっただろう。そのときマンモスは「生贄」だったともいえる。そうしてその獲物を囲んで歌い踊ったかもしれない。盆踊りのようにみんなして踊ったのだろうか。それともだれかひとりが選ばれて踊ったのだろうか。はじめは、ひとりだ。それからだんだん盛り上がってきて全員の踊りになってゆく。その「ひとり」が集団から祀り上げられていったとすれば、それはきっと「処女=思春期の少女」だったにちがいない。

酔っぱらいのオヤジが勝手に浮かれて踊っているだけなら、みんなは笑って眺めているだけで、そこに参加しようとは思わない。ひとりで勝手に舞い上がっているから面白いのだ。

しかし、ひとりの少女の踊りはやがて二人三人の少女になり、最後はみんながそれに感動しながら参加してゆくことになる。ただ面白がるだけではだめだ。「感動」の輪が広がってゆかねばならない。「祭りの賑わい」の底には「感動=ときめき」がある。

人々の「感動=ときめき」の触媒になれる存在、それが「リーダー=生贄」になっていった。

おそらく原始時代の「リーダー=生贄」は、「処女=思春期の少女」だった。「処女=思春期の少女」の姿こそ、人類普遍の「感動」の対象となる他者の姿だった。

人類普遍のもっとも本質的な「他者」とはだれか……この問題は哲学で盛んに議論されているわけで、キリスト教徒やユダヤ教徒イスラム教徒は「それは神である」などというのだが、宗教心のない原始人や日本列島の古代以前の人々にとっては「処女=思春期の少女」だった。人類普遍の「他者」とは、「神=ゴッド」のように自分を支配してくる対象ではなく、その輝きに「感動=ときめき」を抱く対象のことだ。

人の心は、根源においてこの世界や他者の輝きに対する「感動=ときめき」を抱いている。そのことに気づかせてくれるのが「処女=思春期の少女」の姿の輝きであり、彼女ら自身がこの世でもっとも世界や他者の輝きに「感動=ときめき」を抱いている存在でもある。彼女らのその「感動=ときめき」が伝染して「祭りの賑わい」になり、ときめき合い助け合う原始共産制的民主主義的な集団運営のダイナミズムになっていった。

 

女の中の「処女性」こそ人類の集団性のダイナミズムの源泉である。人間性とは処女性のことで、処女性は女だけでなくだれの中にもある。

人類の集団は、みんなして祀り上げてゆく存在を持ったことによって、より豊かにときめき合い助け合う関係になってゆき、ついに猿のレベルを超えた大きな規模の集団を運営することができるようになった。それが、「原始共産制」だ。

僕は、この国やこの社会やこの人生をどうすればいいのかということなどわからないし、考える気もない。どうなっているのだろう、どうなってゆくのだろう、という思いがあるだけです。「判断」などできない。したがってどのように「行動」すればよいのかということもよくわからない。

それでも人は生きているし、たぶん生きてゆく。生きることをうながす何かがはたらいている。べつに生きたいわけでもないが、何かに生きることをうながされている。

生きてゆくことは、死んでゆくことだ。生きることをしたら、死んでゆかねばならない。死にたくなかったら、生きるのをやめるしかない。人間だけでなく、すべての生きものは、「生きたい」という本能を持っているわけではない。生きているなんて死にたいのか、という

話だし、死にたいということが生きたいということだ、ともいえる。

生きてあるということ、すなわち命のはたらきとは、ひとつのパラドックスだ。

「進化」とはひとつのパラドックスであり、生きられない、ともがき身もだえすることによってそれが起きてくる。

生きてあることはなやましくくるおしい。この「いたたまれなさ」が生きてあることをうながしている。この「いたたまれなさ」からの解放として「快感・快楽」がやってくるわけで、それは「いたたまれなさ」を抱きすくめてゆくことでもある。そうやって人類史の進化が起きてきた。

つまり人類史の進化は「死」に向かって生き急いできたことの結果であって、未来に対する計画を実現してきたのではない。

人類にとっての「未来」は、よりよい社会でもよりよい人生でもなく、「死」すなわち「人類滅亡」なのだ。

人類の歴史は、人類滅亡に向かって進化してきた。

 

 

民衆は現在のこのひどい政治状況に対してもっと怒らなければならない、香港の市民のように立ち上がらなければならない……などといわれたりするが、現在のこの国の支配状況はそれほどあからさまではないし、ひどくなればなるほどそのひどさを受け入れ沈黙してしまうという国民性もある。

ひどい権力であればあるほど、その恩恵にあずかって味方する者たちも必ず一定数いる。「悪貨は良貨を駆逐する」……そういう仕組みが出来上がってしまっている。アメリカだって、1パーセントの選ばれた者たちによって99パーセントの善良な市民が支配されている、ともいわれている。そしてそれはまた、この国の戦前の状況でもある。

であればもう、あの「敗戦」のような決定的な崩壊に出会わなければ事態は変わらないのだろうか。

しかしそのとき起きてきた人々の感慨は、「怒り」ではなく「かなしみ」であり、そこから生まれてくるこの国ならではのダイナミズムというものがある。

たとえば90年代にバブル景気が崩壊したとき、人々の「怒り」とか「混乱」というようなことは起きることもなく、その喪失感の「かなしみ」をもとにした「自殺」や「心中」や「人類滅亡」などがモチーフの映画やテレビドラマやアニメがたくさん生まれてきた。それがまあこの国の伝統の流儀で、敗戦のときに人々が渇望したのは、国に何かをしてもらおうというようなことではなく、自分たちの生きづらさをやり過ごすための「娯楽」だった。つまり、国は滅んだのだし、その「滅んだ」ということの「かなしみ=喪失感」を抱きすくめていった。そうした気分を共有していることが日本列島の民衆の集団性のダイナミズムであり、そこにこそ日本人の「進取の気性」がある。計画なんか立てない、ひたすら「滅びる」ということを抱きすくめてゆく……その「もう死んでもいい」という勢いとともに「祭りの賑わい」が生まれてくる。敗戦直後のこの国では、そういう映画や音楽やスポーツ等の「娯楽」を求める「祭りの賑わい」が生まれ、それによって目覚ましい戦後復興が起きてきた。

だから「よい国をつくろう」とした戦後左翼の「計画=プロパガンダ」は、けっきょく民衆を説得することができなかった。そりゃあ、そうだ。「よい国をつくろう」という「計画」のもとに戦争を遂行していったのだもの、そんなこざかしいプロパガンダはもうこりごりだ。「今ここ」でだれもが他愛なくときめき合い助け合う社会になれば、だれもが生きていられる。

また今どきの右翼の、天皇は「男系男子」であらねばならないというさかしらで声高な扇動だって、少しも民衆委の心に届いていない。

とりあえず「よい国をつくろう」というような正義・正論などどうでもいい。「死=滅亡」に対する親密な気分が共有された「祭りの賑わい」とともに民衆の動きのダイナミズムが起きてくる。原初の人類集団だってその「もう死んでもいい」という気分を共有しながら二本の足で立ち上がっていったのであり、そこにこそ人間性の自然・本質がある。

滅んでゆくことこそが、新しい時代が生まれてくる契機になる。日本列島の文化の伝統である「滅びの美学」は、じつは他愛なくときめき合い助け合ってゆく「祭りの賑わい」の集団性の上に成り立っている。

新しい時代が生まれてくることは、現在の時代が「滅びる」ことである。新しい時代が生まれてくるためには、その「滅びる」ということを抱きすくめてゆく気分が共有された「祭りの賑わい」が起きてこなければならない。

 

祭りとは「もう死んでもいい」という勢いで集団が盛り上がってゆくことであり、その集団性は、宗教も文明国家も存在しない時代から生成していた。いやもう、原初の人類が二本の足で立ち上がったときからはじまっていたともいえる。

人類史における「祭り」は、生き延びるための「呪術」や「政治経済」の問題から生まれてきたのではない。つまりそれは、人間の原始的かつ普遍的な集団性であり、文明社会の共同体の運営のために生み出されたのではない、ということだ。

祭りとは、どこからともなく人が集まってきて他愛なくときめき合い賑わってゆく場のこと。それは、集団の外のある一か所にいろんなところからいろんな人が集まってくるのだから、とうぜん見ず知らずどうしの「無主・無縁」の関係であり、しかしだからこそ他愛なくときめき合うことができる。つまり原初の祭りは集団の外で生まれてきたわけで、そこは集団の中に置かれてあることの居心地の悪さからの解放の場である、ともいえる。人類拡散は、そうやって集団の外に「祭り」の場が生まれる現象が無数に繰り返されていったことの結果にほかならない。

したがって祭りは、その本質において、共同体の運営のために生まれてきたということは論理的に成り立たない。だから村はずれの「鎮守の杜」で催されるのであり、そこには近郷近在から人が集まってくる。その「無主・無縁」の関係で他愛なくときめき合ってゆくことができるところに人間の集団性のダイナミズムがあるわけで、そうやってサルの集団性では考えられないような「都市」とか「国家」という無限に大きな集団をつくっている。

「祭り」においてこそ人間の集団性のダイナミズムがあらわれているし、人間の集団はすべて「祭り」だともいえる。

たとえば、コンサートやスポーツのイベントはもちろんのこと、われわれが学校や会社に行くことだって「どこからともなく人が集まってくる」ことだし、商店でものを売ったり買ったりすることもまたつまるところ人間的なそうした生態の上に成り立っている。

 

というわけで「新しい時代」は、どこからともなく人が集まってくる「無主・無縁」の関係で他愛なくときめき合う「祭りの賑わい」が盛り上がってこなければやってこない。

つまり今、山本太郎とれいわ新選組が生み出そうとしているのは、まさしくそうした人間性の本質に根差したムーブメントなのだ。

現在の政権は、経団連日本会議創価学会等の、利害関係の上に固定化された一部の組織票の上に成り立っている。それはまあ猿のボス社会の構造と同じで、少しも人間的ではないし、日本的でもない。で、それに対抗して山本太郎とれいわ新選組は、「どこからともなく集まってくる無主・無縁の人々の他愛なくときめき合い助け合う関係を結集した祭りの賑わい」を生み出そうとしている。そうやって山本太郎の街宣には、たくさんの人々が集まってくる。それはきわめて本質的であると同時に日本的でもあり、人間というはまだまだ捨てたものではないとも思わせてくれる。したがって山本太郎は勝たねばならないし、勝つにちがいないという希望を抱かせてくれてもいる。

山本太郎とれいわ新選組は、無党派層を呼び込んで投票率を上げることができるだろうか。

危ういのは、候補者と支持者との関係が固定化硬直化されてゆき、たとえば安富歩氏のツイッター炎上騒ぎのように支持者が「俺のいうことを聞け」といわんばかりに候補者の思考や行動を縛ろうとしたりすることにあり、そうなったら利害関係でつながった現在の政権と支持者の関係と同じになってしまう。そういう「組織票」だけでは現政権を凌駕することはできないし、無党派層を呼び込んで投票率が上がるというムーブメントは起きてこない。だから安富氏はツイッターで、「支持者」の正義と既得権益を主張するツイートに対して「<支持者>なんか消えてしまえ」と悪態をついてみせたわけで、それはまさにその通りなのだ。そんな排他的なことを繰り返していたら、「無主・無縁」の「祭りの賑わい」は生まれてこない。

「祭り」は集団(共同体)の外の「無主・無縁」の場に出ることによって生まれてくる。そうしてそこで新しい「集団=共同体=時代」になってゆく。それが原始時代の人類拡散以来の普遍的な人類史の伝統であり、それは、集団(共同体)の外に出てゆくことによって新しい集団(共同体)が生まれてくるということ、すなわち命のはたらきは「死=滅びてゆくこと」に向かうことによって活性化するという「進化のパラドックス」でもある。

新しい時代が生まれてくることは、人類滅亡論的に時代を超えてゆくことだ。敗戦後の日本人はまさにそれを実践したのだし、もともとそうやって歴史を歩んできた民族なのだ。

人類の歴史は、未来に向かう「計画」によって進化発展してきたのではない。「滅び」と「再生(あるいは新生)」を繰り返しながら歴史を歩んできたのだ。二本の足で立ち上がった原初の人類はいったんサルとしての能力を喪失し、サルであることから滅んでいったことによって人間になった。

「滅びる」ことに対する親密な感慨は普遍的な人間性であると同時に、日本列島の伝統でもある。

 

「祭り」の本質は、生きものの本能である「死=滅亡」に対する親密な感慨が共有された「集団の賑わい」にある。

人は生きられない弱いものに対してなぜこんなにも親密な感慨を寄せてゆくのだろう。その存在には、「死=滅亡」の気配が深く濃密に漂っている。生まれたばかりの赤ん坊であれ、死にそうな老人であれ、障碍者であれ病人であれ、生きられない命こそこの世のもっとも貴重なものである。

この世のもっとも貴重なものは、死のそばにある。冒険者はそれを探しに出かけるのだし、自殺者も殉教者もそこに引き寄せられてゆく。この世界に生まれ出てきたものはみな、この世界の「生贄」だともいえる。

この世界のヒーローとかリーダーというのは、この世界の「生贄」の気配の鮮やかに漂わせており、その気配をセックスアピールとかカリスマ性という。

だから、ただの善人のマイホームパパが政党の党首になっても国民的な人気は得られないし、どんなに頭がよくて正義・正論を並べ立てても民衆がついてくるとはかぎらない。

「賢人政治」とか「愚民政治」というようなことをいってもしょうがない。今どきはさかしらなインテリや人格者や成功者が、山本太郎のことを上から目線で「ただのポピュリズムだ」と揶揄し批判することも多いが、彼らの言説が山本太郎ほどの大衆に対する説得力を持つことはないし、彼らの思い描く通りに世の中が動いてゆくこともない。セックスアピールを持たない連中が何を言ってもダメなのだ。

この世界は、正義・正論で動いているのではない。セックスアピールこそがこの世界を動かしている。セックスアピールとは、「生贄=滅び=死」の気配のこと。どんなに華やかであっても魅力的なものには、そのような「消えてゆく」気配が漂っている。「消えてゆく」ことこそ快楽の本質だ。きらきら輝いていることは「消えてゆく」ことでもある。すなわちこの世界の「輝き=光」は、「異次元(=死)の世界」からやってきて「異次元(=死)の世界」に向かって消えてゆく。人類の無意識は、そういう「滅び」の気配にこそもっとも強く切実に引き寄せられている。

美しいものの輝き、それは死のそばにある。

山本太郎には、自分を捨てた「命がけ」の気配がある。人々はそこに引き寄せられて集まってくる。まあそれは、れいわ新選組のメンバーに共通した気配であり、山本太郎はそれを「本気の大人」といっていた。立憲民主党枝野幸男や国民民主党玉木雄一郎にはそれがないし、小泉進次郎にいたっては、自分をカッコよく見せようとする自意識ばかりで、しだいにメッキがはがれつつある。

 

柔らかく巧妙に人々を縛っている現代社会のシステムが劇的に変わるということはもはやないのだろうが、それでもこの社会を動かしている支配者たちがいかに愚劣で醜悪かということ気づいてくれば希望がないわけではない。

人間には、「幻滅」する力がある。それは、「ときめく」心の裏側に貼りついている。

山本太郎とれいわ新選組に対する「ときめき」が、現在の社会システムや権力者に対する「幻滅」に気づかせてくれた。

けっきょくこの世の中は人と人の関係の上に成り立っている。世の中なんていつの時代も「憂き世」に決まっているが、人間性の自然としての人と人のときめき合い助け合う関係を取り戻すことができるなら、このひどい社会のシステムも少しずつ改善されてくるのだろう。

この社会を「憂き世」と思い定めて「幻滅」してゆく感慨は女のほうが深い。そして女の幻滅」は、社会に対してだけではない。男に対しても幻滅しつつ、そして男も社会も赦している。女は、幻滅しつつときめいている。

女たちは今、社会に対する「幻滅」と山本太郎とれいわ新選組に対する「ときめき」を共有しつつ盛り上がってきている。

「幻滅」とは、熱く燃え上がるのではなく、ひんやりとした「消えてゆく」心地である。女は「消えてゆく=滅んでゆく」心地のエクスタシーを知っている。川端康成の小説に「しいんといい気持ち」という女のセリフ(『雪国』より)があるが、それは女の中の生きてあることそれ自体に対する「幻滅=かなしみ」でもあった。そのひんやりとした喪失感から、この世界や他者の輝きに対する深く豊かな「ときめき」が生まれてくる。

「幻滅」がなければ、「ときめき」もない。現在の政権や社会システムに対する「幻滅」が共有されていったことによって、そこから「山本太郎現象」という人々が他愛なくときめき合う「祭りの賑わい」が生まれてきた。その中心に、女たちがいる。女とは、深く「幻滅」し、他愛なく豊かに「ときめく」存在である。

山本太郎は、その「祭りの賑わい」の触媒にすぎないのであり、主役はあくまでそこに集まってきた女たちであらねばならない。女たちの「祭りの賑わい」が、この閉塞した社会を動かす。中世の「一揆」であれ、幕末の「ええじゃないか騒動」であれ、大正の「米騒動」であれ、主役はあくまで名もない女たちで、男たちはそこに引きずられていただけだった。この国の伝統においては、女たちが立ち上がらなければ時代は動かない。

 

この国の民主主義は、女たちが立ち上がらなければ実現しない。とはいえそれは、女の自立とか解放を叫ぶフェミニズムとはちょっと違う。女は女のために立ち上がるのではない。「消えてゆく」ことのエクスタシーを知っている女たちは、自分を捨てて男や子供たちのために立ち上がる。したがって、女と男の関係を分断してしまうフェミニズムがすべての女たちに支持されることはない。

言い換えれば、現在の社会の停滞・硬直化は、男たちが男としての既得権益を守ろうとして、女たちが立ち上がることを許さない仕組みになっていることにもあるのかもしれない。

新しい時代に飛び込んでゆく心意気は、女たちのほうがずっとラディカルにそなえている。その「もう死んでもいい」という勢いこそ、命のはたらきの本質なのだ。

格差社会になったといっても、貧しい男たちの意識だって、まだまだ男としての既得権益にしがみつき「現在の政権のままでいい」などという。どんなにひどい世の中になっても、男たちが立ち上がるということは、あまりあてにならない。男は、生まれたときからずっと社会のシステムに組み込まれて育ってしまう。どんなに威勢のいいことをいっても、知らず知らず時代に踊らされてしまっている。とくにこの社会のエリートである者たちがほんとに社会のシステムの外の「無主・無縁」の場に立とうとするなら、たとえば安富歩のように思い切って女性装をするくらいの決断が必要になる。それは、彼の人生におけるひとつの「自己処罰」だった。

女は「自己処罰」することができる。おそらくそれによって処女を喪失し、妊娠・出産・子育てをし、それによってセックスの深いエクスタシーを汲み上げている。

この世の多くの男たちは「自己処罰」ができない。この社会のシステムによって、この社会のシステムを守っている自分を守るように仕向けられている。だから女に比べると「幻滅」も「ときめき」も中途半端なのだ。

女は、幸か不幸か存在そのものにおいてすでにこの世界の外に置かれているわけで、そういう女たちが立ち上がって新しい時代が切りひらかれてゆく。

 

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蛇足の宣伝です

キンドル」から電子書籍を出版しました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたものです。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

値段は、

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

です。